るみと語る  処女連壽
                                            (短期大学での学びの数多)            
                                    

 るみには愛そのものの考えにおいて両性がある。彼女の愛には優雅可憐な外見の底を小狡い打算が流れている。寄りかかる、もたれかかる、頼りとしたい、これらの願いは打算でなくて、いったいなんだったんだろう。
でも、彼女は子供に対する母性愛には全く打算がなかった。無償の行為、これがすべてでした。彼女には自らのエネルギーと焔で動く恒星の強さが存在した。他からの光の反映で動く惑星と、恒星のような彼女を比較することはできない。 ・・・・・・抱擁を

  


第1章  白い顔
 
  倉賀野裕子       醍醐公彦 (この人物が実在したのか否か、その存在をめぐって淑女たちの煩悶がはじまります
倉賀野裕子の卒論はホィットマンについてであるが残念ですが『処女連壽』にはどのようなものかは言及されていません。よって、
ここでは夏目漱石の「文壇に於ける平等主義の代表者『ウォルト、ホィットマン』Walt Whitmanの詩について」からの引用にとどめておきます。

 ≪・・・・・・「ホィットマン」「テニソン」の如く義理の精神を鼓舞し自重克己の風を養って社会の秩序を保たんと」欲する者にあらず。
  又「ウォーズうウォーズ」のごとく退いて生を山林に寄せ瞑目1潜心して天地の霊気と瞑合し以て天賦の徳性を涵養せんとするもの
  にあらず。
  中古任侠の風を寫し然諾を重んずるの気象を奨して世道を維持せんと欲する事「スコット」に及ばず、日本支那の詩人に及ばず。
  然らば彼(ホィットマン)何を以て此個々独立の人を連合し各自不覊の民を連結して衝突の憂を絶たんとするぞと問はば己れ「ホィットマン」
  に代わって答へん、別に手数のかかる道具を用ふるに及ばず。只”mamly love of cmrades"あれば足れりと蓋し西洋にて愛の字の普通
  なることは己が和歌俳諧にてもののあはれとか情けとか云ふと同じく詩人中一人として云々、、、、、、≫と漱石のポエムに対する考え方が
  よく分かりますが、本題から脱線してしまうので以下は割愛いたします。

また、「ホィットマン」には次のような作品もございます。
 (私はこの大陸を分断不能にする。私は人々に愛される土地を作ります。仲間の愛と一緒にね)
For You O Democracy

Come, I will make the continent indissoluble,
I will make the most splendid race the sun ever shone upon,
I will make divine magnetic lands,
With the love of comrades,
With the life-long love of comrades.

I will plant companionship thick as trees along all the rivers of America,
and along the shores of the great lakes, and all over the prairies,
I will make inseparable cities with their arms about each other’s necks,
By the love of comrades, By the manly love of comrades.

For you these from me, O Democracy, to serve you ma femme!For you,
for you I am trilling these songs.



この大陸を分断不能にする。私は人々に愛される土地を作ります。仲間の愛と一緒にね。

   ホイットマンの研究へのリンク

 セナンクールの「恋愛論」 プラトンの「饗宴」 「アベラールとエロイーズの書簡」へのリンク

 玉置 羽枝 (ハンガク)の卒論はヴァージニア・ウルフについてでありまsu


   

第二次世界大戦真っ只中の1941年3月28日金曜。ナチス・ドイツによる激しい空襲によってロンドン市内は甚大な被害を受け、市民らが恐怖に包まれる中、抗うことのできない闇に飲み込まれた一人の女性がいました。
空襲によってロンドンの家を焼かれ、イースト・サセックスの別荘に疎開していた彼女は家を出ると、近くを流れるウーズ川のほとりで足を止めました。川岸にあった石を手に取り、それをポケットいっぱいに詰めると、川の流れに足を踏み入れました…
 ヴァージニア・ウルフ、59歳

時は女子教育が軽んじられていたヴィクトリア朝時代。スティーブン一家の男の子らは学校に通い、女の子らは家庭で教養を身につけました。

ヴァージニアと3歳上の姉ヴァネッサは母からラテン語と歴史を、父から数学を習いました。当時にしてはリベラルな教育方針の父は、自分の図書室へのアクセスを娘に許し、ヴァージニアは貪るように本を読んだのでした。さらに文化に造詣の深い両親の元には、ヴィクトリア朝文学界を代表する作家トーマス・ハーディー、詩人アルフレッド・テニスンらが訪れました。知的な客人と出会う中で教養や社会に関する鋭い洞察力を磨いていきました。

 1939年、第二次世界大戦が勃発し、翌年ロンドン空襲で当時住んでいた家が被害を受けると、夫婦はイースト・サセックスの別荘「モンクス・ハウス」へ疎開。戦争に反対していたヴァージニアの心は激しく動揺しました。新作「幕間」の仕上がりにも自信が持てず、画家で友人のロジャー・フライの伝記が不評だったことも重なり、過剰なストレスから幻聴が聞こえるようになりました。耐えられなくなったヴァージニアは、わずかに残る「自分」に意識を集中させて遺書をしたためると、1941年3月28日、姿を消したのです。

  最愛のあなた
 自分がまたおかしくなっていくのがわかります。私たちはあのひどい時期をもう二度と乗り切ることはできないでしょう。それに今回は治り そうもありません。声が聞こえるようになり、集中できないのです。だから最善と思うことをします。
 あなたはこれ以上ないほどの幸せを私に与えてくれました。(略)もう闘うことはできません。私はあなたの人生を台無しにしています。私 がいなければあなたは自分の仕事ができるし、きっとそうするでしょう。
 ほら、この文章さえきちんと書けない。読むこともできないの。
 
言っておきたいことは、あなたのおかげで私の人生は幸せだったということ。
 
あなたは私に対してとても忍耐強く、信じられないほどよくしてくれた。誰もがわかっていることです。もし誰かが私を救ってくれたのだとし たら、それは紛れもなくあなたでした。
 あなたの優しさを確信する以外、もう私には何も残っていません。これ以上あなたに甘えるわけにはいかない。私たち以上に幸せになれ るふたりはきっと他にはいないでしょう。V

  夫・レナードは、世間にこの手紙を公表しました。
 
                         
 

 セナンクール・プラトン・アベラールとエイローズへのリンク

 
     田中文代    English Speakinng Association  のパーティー準備委員
               ”Holy Brth”はヒット間違いなしと思いあがっていましたが、全文を読まれた伊庭女史に叱られ 「Holy」という単語を削除しようとしたが、伊庭女史から全文               の内容に対してのBirthに対しての理解度をを問われた。


  
   伊庭千代女史   田中文代に「The Holy Birth of ESA」 (ESAの聖なる誕生)のBirthの使い方を咎める。 田中文代「そう、少なくとも私は、額面通りの乙女だ、とかなんとかそういう風なことを云ったわ」 

   Birthの使い方について、、、、、、、「失礼などというタチのものではありませんよ。独身・未婚の名を並べて、産むという動詞を使う神経がひどすぎます。ミス・ライエルやミス・プレンダガストは卒倒するかもしれませんよ。私は三年間、貴女がたに欧米の礼法について随分丁寧に指導したつもりでしたがね」 

 Birth   bear-  bore- born  [ the process of giving birth.]

                 「嫌だなア。伊庭先生の年になって」 「オールドミスの悲哀ね」
      正田トモ子  武井麗子 平林珠美 ≪平林は云う。女性と母性は相克すろのではないだろうか。女はか弱く、か細く、しかもその弱さを武器とした強靭な知恵を持つ。が、女の内奥にどでんと腰を据えて時の来るのを待っている母の性は、弱さを退け、細さを叩き捨てて、武器を持たず身一つの底から湧く力を抱えているようだ≫(第5章 鶏眼)
・平林が自殺したということを、このとき文代は始めてしらされたのだった。麻薬を大量に注射して、長く昏睡状態を続け、医師は手を下す術がなかったそうだ。・平林さんは妊娠してたのよ。(第六章 マリアの連壽)
  

  万葉集 五〇一 未通女らが 袖ふる山の 端垣の 久しき時ゆ 思ひき我は       柿本人麻呂

 巫女たちが神を迎えてを振る布留山の杜の瑞垣が年久しいように、長い時間を君に恋してきたよ僕は。



第2章 卯の花くたし 

 短期大学を卒業するや否や、玉置朋枝はo社に、田中文代は都内の女学校に、正田トモ子はs出版社に、瀬見薫は花嫁修業、平林珠美は外国商社に、武井麗子は進駐軍の通訳試験に合格して社会人としての一歩を踏み出すことになる。しかし、裕子だけは働く希望があるが、母親が世間体をはばかって阻むらしく、母が乳癌に罹ったことを告白。

         学生時代は温室の生活だった、と、これは卒業後、誰もが抱く感想である。
         いっぱし何事も分かったつもりで、または分かる能力を培った木でいても、
         社会にでてみると第一にテムポが違う。
         すれに慣れるまで、心身に思いがけぬほど努力がいるのだ。
         大袈裟な言い方をすれば、体質まで変えて行かねばならない。
         時間、言語、拳措、あらゆるものの習慣が違えば、
         物の考え方にまで無暗と影響が強そうである。


 裕子のフィアンセ醍醐公彦からの消息で、彼はハーバード大学で2年間学びその後、湯元秀樹博士の招へいでプリンストン大学で二年間学ぶことになるらしい。
            ハーバード大学プリンストン大学へのリンク



第三章 華燭

 卒業後3年の歳月が流れ去ろうとしていた時ハンガクこと玉置朋枝の華燭の典の知らせにグループは例外なく先を越されたような思いに捕われて呆然としたようである。

 「そりゃア失礼だわねえ、結婚式に芸者のおひろめを連想しちゃア」
           ハンガク玉置朋枝から石室朋枝となる
               石室誠二は、新進医学者、次男で扶養家族なし。

 
   
      瀬見薫 私も良縁にあやかりたい。倉賀野裕子の縁談話に乗る。

     上智大学とイグナシオ教会へのリンク
             Virgin Mary
 
  聖マリアの連壽   


聖マリア        われらのために祈り給え。
天主の聖母      われらのために祈り給え。
童貞のうちにいていとも聖なる童貞   われらのために祈り給え。
キリストの御母    われらのために祈り給え。
いと潔き聖母     われらのために祈り給え。
いと操正しき御母   われらのために祈り給え。
終生童貞なる御母  われらのために祈り給え。
きずなき御母     われらのために祈り給え。
創造主の御母     われらのために祈り給え。
敬うべき童貞     われらのために祈り給え。
誉むべき童貞     われらのために祈り給え。
力のある童貞     われらのために祈り給え。
くすしきばらの花   われらのために祈り給え。
ダヴィッドの塔     われらのために祈り給え。
憂き人の慰め     われらのために祈り給え。
殉教者の元后     われらのために祈り給え。
童貞者の元后     われらのために祈り給え。
天主の聖母      われらのために祈り給え。
キリストの御約束にわれらをかなわしめ給え。




   聖堂の中で、信者でもない人間が涙を流したりしたら人は嗤うだろう。そう思わないではなかったのに、涙が勝手に滲みでていた。目をつぶって何か一心に祈っていた薫が愕いて、そんな文代を顧りみると、安心したのか声を洩らして亡き始めた。 (第6章 マリアの連壽)






                  
                        楠本みよか 校庭をノートと首っ引きで歩いていた頃の面影は、何処にもみえない。
                       その、風に任せ方の不慣れんなような後ろ姿は、それから一ヵ月近く経つ今も正田
                       トモ子の脳裡に灼きついたまま消える気配がない。そこへ持ってきて今日の結婚式だ
                       角かくしと大振袖は芸者の座敷姿とは大違いな筈だったが、和服の知識のないトモ子
                       の目には似たようなものだ。式の間中、朋枝にすまないと思うくらい、楠本みよかを思い
                       出していた。
       正田ともこが渋谷道玄坂を歩いていたら楠本みよかに出会ったが、既往、真理探究をモットーとする大学で、
       同じ窓に学んだ二人とは見えぬ対照的な図であった。みよかのほうは無邪気なもので、まるきり中身がない
       ことをぱあぱあと一人で喋っていた。話題は一向に共通した噂話を持たぬところから映画の話にうっつていたが、
       それまで話の合わないのに辟易したいたトモ子も、漸く気楽になり始めた。ヒッチコックは素晴らしい技術者だ。
       テクニカラーはロシアのは重々しくって、などと他愛のないものであったが、酔いがなかなか廻らないのは、トモ
       子もやがて気づいたが、みよかの方でも、互いの近況を話すべきかどうか、まよっていたのであるらしい。


ヒッチコック・テクニカラーへのリンク

      
 第7勝 影過ぎき    ( 醍醐公彦という男の実在を究明するトモ子、文代、麗子、薫たちの乙女心 )
我が背子は 待てど来まさず 雁が音も とよみて寒し ぬばたまの 夜もふけにけり さ夜ふくと あらしの吹けば 立ち待つに 我が衣手に 置く霜も 氷にさえ渡り 降る雪も 凍り渡りぬ 今更に 君来まさめや さな葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼めど 現には 君には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 天の足夜に              13-3281


田中文代は知っていた。現実を正しく凝視して、釈明を一切退けて生きることの難しさを

 ・武井麗子が予言したとおり、醍醐公彦の死が通告されたには、トモ子が倉賀野家を訪れて二週間たたぬうちであった。

・、、、、、、電車は何台も何台も通り過ぎ、あるいは折返し運転で空になって渋谷へ戻った。その都度三人首を廻らして(朋美の自殺を知る)麗子の降りてくるのを待った。が、無駄であった。

・ホームの大時計は八時五分前を示していた。八時まで待って武井麗子がこなかったら、私は帰ろうーーーそう文代は思い決めた。風が吹く。身震いしながら文代は醍醐公彦の存在を疑うべきでないと知ったのだ。実在でない、あくまでも存在を、そしてその死はやはり悼むべきだ、処女の友情においてーーー。


昔も今も、そしてこれからも、有吉佐和子の描いた「女」たちはわれわれの心の中で「生」き続けるのである
                      



 『処女連壽』を読まず嫌いの吾人!おすすめのリンク