セナンクールの「恋愛論」
エティエンヌ・ピヴェール・ド・セナンクール(Etienne Pivert de Senancour、1770年11月16日-1846年1月10日、パリ出身)は、作家・モラリスト。
青年の苦悩と彷徨を扱った書簡体の長編『オーベルマン』は発表当時、『若きウェルテルの悩み』にも匹敵するベストセラーとなった。『オーベルマン』(岩波文庫所収)のほか、若干の邦訳がある。 作曲家であるフランツ・リストは自身の曲である『オーベルマンの谷』の冒頭に、セナンクールの『オーベルマン』より抜粋した一節を記載している。
プラトンの「饗宴」
プラトン(プラトーン、古代ギリシャ語: 、PlatMn、羅: Plato、紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシアの哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。ソクラテスを主役とする。テーマは恋(エロス)だ。プラトンが本書で論じている恋は、少年愛のことを指している。いまではかなりアブナイものに聞こえるが、当時のギリシャで少年愛は、ポリスの市民(参政権をもつ男性)に暗黙の義務として課せられているものだったようだ。古代ギリシアで少年愛は決して特殊なものではなかったようだ。「少年愛と現代の恋愛のあり方は大きく異なる。プラトンの恋愛論は、古代ギリシャにしか当てはまらないのではないだろうか?」そう思うひともいるかもしれない。しかし逆に、こうした違いがあるからこそ、私たちはプラトンの議論の普遍性をよりよく吟味し、確かめることができる。そうした形式上の違いがあっても納得できるなら、それはプラトンが恋愛の本質を上手く言い当てていることを示していることになるからだ。
・『饗宴』は、パイドロス、パウサニアス、エリュクシマコス、アリストパネス、アガトン、ソクラテスの6人が、ギリシア神話のエロス神を称えるという形で進んでいく。
・初めにパイドロスが次のように言う。エロス神は讃えられるべきだが、それは生まれの古さにある。古さゆえにエロス神は「善さ」の源泉であり、徳と幸福を得るために最も強い力になるのだ。
・それに対してパウサニアスが反論する。パイドロス、君はエロス神を1種類しかいないと想定している。しかし実は、2種類のアプロディーテーに応じて2種類のエロスがいる。パンデモス・アプロディテに属するエロスは節操無く誰に対しても向かう恋である。他方ウラニア・アプロディテに属するエロスはただ理性的な男性のみに対して向かう。このエロスこそが賞賛に値するのだ。
・このパウサニアスの主張を、エリュクシマコスが別の視点から批判する。パウサニアス、君がエロスを2種類に区別したのは見事だ。しかし、ただ少年の美を目指すだけでなく、徳も同時に目指すようなエロスこそが賞賛に値することを忘れてはいけない。徳を通じて善さの実現へと向かうエロスこそが讃えられるべきだ。
・以上の3人に対して、アリストパネスは次のように述べる。ちょっと待ちたまえ、君たちはかつて人間に起こった出来事を学ばないといけない。人間は本来、男女に分かれてはいなかった。人間は神々に対して不遜な態度を取り続けていたゆえに、ゼウスによって男女へと分けられてしまったからだ。したがって人間が本来の姿を取り戻すために、みずからの片割れを探し求めるのは当然ではないか。「完全なものへのこの欲望と追求に対して、恋という名がつけられているのである。
・次にアガトンはこう主張する。エロスは最も美しく高貴である。その意味で最も幸福な神である。さらにいえば、エロスは正義の徳、慎みの徳、勇気の徳、そして知恵の徳を備える。知恵の徳をもつゆえに、エロスにひとたび触れられると、誰もが詩人となってしまうのである、と。
以上のように5人が意見を述べた後で、ソクラテスが次のように主張する。
かつて私は、マンティネイアの婦人ディオティマに次のように尋ねたことがある。「エロスとは一体何なのでしょうか?」と。それに対してディオティマはこう答えた。
「全体的に言って、恋とは、あの善きものと幸福への欲望なのです」
「恋とは、善きものが永遠に自分のものであることを目ざすもの、というわけです」
恋とは善きものと幸福を手に入れようとめがける欲望である。これがソクラテスがディオティマから受け取ったポイントだ。
恋は相手のうちに何かしらのロマン的な「よさ」を見て、それをわがものにしようとする欲望だというのは、とても本質的な直観だ。そのことは私たち自身の恋愛経験を振り返ってみても、はっきりと見て取ることができるはずだ。
ディオティマはソクラテスに対して、続けて次のように言う。
恋する者が最初に向かうべきは美しい肉体です。美しい肉体に向かったあとは、美しい魂に向かうこと。それによって肉体の美は魂の美よりも些細であることに気づくことができます。その後、美しい魂から「知識」へと向かっていかねばなりません。
これこそ正しき恋の道です。この道をたどることによって、美そのものに到達することができるのです。
したがって、正しき恋の道は、地上の美しいものを出発点として、この美そのものをめがけて上昇してゆくという過程なのです。
美しい肉体よりも美しい魂、知識を上位に置くことは、決して肉体の美を否定することを意味しない。
いわゆる「プラトニック・ラブ」は、恋愛の肉体的な側面を否定し、精神的側面に価値を置くものだが、実のところそれはソクラテス・プラトンのいう恋愛とは異なる。なぜならソクラテス・プラトンは、美しい肉体は恋愛の入口として必要であり、ごくわずかでも肉体の美が感じられなければ、恋愛は成立しないと主張しているからだ。「プラトニック・ラブ」のように肉体的側面を全否定するわけではなく、それを恋愛のひとつの「きっかけ」として捉えているのだ。
アベラールは中世哲学界の一高峰,才色兼備のエロイーズは彼の弟子であったが,その師弟関係はいつしか恋愛関係に変った.しかしそれも束の間,一夜の奇しき突発事件のために彼らは世を捨て別々に修道院生活に入った.本書は二人の間にかわされた恋愛書簡であり,愛と修道との血のにじむような相剋は読者の胸を打ってやまない.
形而上学的愛
これはあくまで想像だが、もしアリストテレスが恋愛について論じたとしたら、プラトンなら「恋愛はよきものへの欲望である」というところを、「相手の匂いが脳髄を刺激して、それが神経を伝わり…」というような分析になっていたかもしれない。意味の探究よりも、機能や作用の分析がアリストテレスの得意分野だった。もちろん、だからといってアリストテレスがプラトンに対して劣っているということではない。2人はそれぞれの得意分野で力を発揮したにすぎない。自然学に関してはともかく、概念の取り出し方や、まとめ方は一級品だ。この点はいまでも参考になる。