ある時は衛生のため、ある時は思想や信仰のため。そしてまたある時は条件の良い結婚を勝ち取るため。日本において「処女」や「貞操」がいかにして死守すべきものとされ、「価値が10分の1に下落」と評されるにいたったのか。古典や伝統芸能に造詣が深く、「婦人公論」100年分をはじめとする膨大な資料に通じる著者が、「処女」と「貞操」をキーワードに、女性の身体にまつわる文化史を不敵なユーモアをちりばめつつひも解く。
「処女」が辿ってきた道のりは、女性の身体がおじさんの幻想や家父長制の都合によって何度も手のひら返しにあい、翻弄されてきた道程でもある。ないことにされていた性欲が急に危険視されたり、産めよ殖やせよから一転して産児制限が推奨されたり。あんまりな差別やトンデモなレッテル貼りの連続に対して、著者はボヤいたりイヤミを言ったりはするものの、一貫してキレも斬りもしない。本書で飄々とつまびらかにされるのは、現代の価値観をベースに良し悪しや正誤をジャッジする手前の「そういう時代だった」空気と、性を取り巻く厳然たるジェネレーションギャップだ。たとえば、私は恋愛至上主義や男女二元論がキツいなと感じる世代で、「恋しなきゃだめ」、「セックスしないと女は枯れる」という年長者に辟易するのだが、そういう文化を浴びてきたのだから仕方ない部分もあると歩み寄る気持ちになった。
とはいえ、「時代がちがうから仕方ない」で済まない問題は多く、純潔教育の残滓はいまなお性教育を萎縮させ、「命に代えても貞操を守る」時代に築かれたルールが性犯罪被害者を泣き寝入りさせ、家父長的パターナリズムは女性のライフプランに土足で干渉しようとする。セックス観のズレが実害を生む状況を変える一歩として、『処女の道程』は性意識の変遷を辿り現在地を確認する絶好のガイドとなるはずだ。