『鬼怒川』
 有吉さんは足尾銅山の存在をみなさまに知らそうとしたのか。それともこの作品を通じてCuが人体に及ぼす影響とを
 当時のこくみんの課題として問題提起した作品のひとつです。所謂、アルツハイマー型認知症問題です。

鬼怒川とは栃木県に存在している川です。

 鬼怒川のj縄文海進へのリンク

・『紀の川』と『鬼怒川』

 古代関東には毛野および那須と呼ばれる政治勢力勢力が存在しておりました。
毛野は『常陸国風土記』によれば、筑波はもともと紀ノ國であると書かれています。
 『続日本書記』では、毛野と毛野川(現在の鬼怒川)との深い関わりあいがあると書かれています。
この鬼怒川と紀ノ川との関係を織姫たちはどう生きたのかを鑑賞しましょう。

 紀の川につきましては、前途した『花岡青洲の妻』の中に近大付属高校教諭金田圭弘先生の論文を
引用したものが詳しいので、その解説に譲ることにいたしましす。

 小説『鬼怒川』は肉親を日露戦争にとられた関東のひとびとの生き様を伝えるものがたりです。
 主人公チヨの兄は戦死いたしましが、その公報に対するこくみんの戦争意識がよみとれます。

 ≪、、、、、、戦死の公報が入ったのは、3月1日であった。役場の戸籍係が息をきらして知らせにきたが、
  あまりに思いがけなかったので一家は声も出なかった。いつ何処で死んだのか、よくわからない。
  群報は五日遅れて届き、2月9日の旅順大海戦のときだという。≫
 ≪「妙でねけ、戦争は10日に始まったに、9日に戦死すっとはね」「宣戦布告は10日だべ。うむ、妙だぞ」
と、有吉さんは、政府にたいしての疑問をなげかけます。

そして、日露戦争後に、
≪チヨの兄は二等兵として戦艦「富士」にのりくんでいた。後に旅順口開線と呼ばれる戦闘で、文字通りの緒戦に
 旅順要塞の海岸砲台と艦砲の一斉射撃を受け、東郷元帥のいる旗艦「三笠」も戦闘旗を撃ち落され、三番艦で
 あった「富士」にも2弾命中し、砲術長は即死した。チヨの兄は、砲術長のすぐ傍にいて伝令役をしていたので同時
 に爆死したという。そういう詳しい話は戦争が終わって、上官からの手紙が届いてわかった≫
伝聞ですが、第二次世界大戦が開催される前に日本の師範学校の
生徒が修学旅行で旅順要塞にに訪れると、しぜんと泪がポロポロ溢れ出てきたそうです。

また、残された遺族は、マンパワー不足を嘆きます。
≪「おチヨが嫁にとられても俺げでは嫁とる息子が戦死して、おチヨが嫁いけば誰が機織るだ。留吉が嫁とるのは10年も
  先だっちに。俺はようやく紬ぐにいい齢になったっちが」母親。
  「息子が戦死してなければ畑仕事も今の二倍以上の労力があったろうし、絣しばりにしても二人でやれば随分はかが
  いくだろう。貧しい中で、ようやく育てあげた子供が、働きざかりを迎えた途端に思いがけず戦争できえてしまった。
  まったく戦死といっても死顔を見たわけでなく、届けられた骨壺の中にはほんの二片か三片の骨が入っていて、これが
  本当に息子の骨だろうか」父親。≫
             チヨは機織り娘


チヨは栃木県と福島県の県境にある山地から茨城県の西を横ぎって利根川に合流している鬼怒川の川音を聞きながら育ち
ました。本文に、

≪鬼怒川は、鬼怒沼を濫觴とし、最初は深い谷を東に走って川治温泉で男鹿川と湯西川を合わせ更に水勢を増し、南に方向
を変え、中禅寺湖から走っている大谷川と出会う頃から平野に入る。しかし平野部の川床はチヨたちの住んでいる結城の辺
りまで礫質なので、この辺りで川は乱流する≫

結城のお百姓が昔から貧しいのは鬼怒川という暴れ川のせいであり、藩主が紬産業を奨励した理由に挙げられます。チヨは
嫁ぎますが、チヨの育った茨城県結城郡と、栃木県絹村の中島とは、どちらも鬼怒川の西岸に存在しました。
そして、チヨは
きっとこの川は、絹村から流れてきているのだと思いました。
『鬼怒川』チヨは『紀ノ川』の豊乃のように、川のながれに従って嫁入りせず
川の流れに逆らって嫁入りしました。さてさて、チヨはその後、幸せな一生をおくったでしょうか


                    大桑神社

≪「花嫁の在所は絹川村の中でも最も養蚕業に由緒の深い小森であります。花嫁のお祖母さんに当たるお方は明治八年の
  京都における博覧会におきまして褒賞を受けた方であり、花嫁が棚機姫であるのはまさに血筋であると言えるでありまし
  っう。さらに小森には有名な大桑神社があります」≫
                
蚊絣 茨城県結城  ベタ亀甲 栃木県絹村
≪チヨが嫁いで三日目には、チヨはもういざり機に腰をおろし、中島特有のベタ亀甲という絣の織り方について姑に教えて
 もらっていた。絣は織る技術もさることながら、チヨの父親が言っていたように絣しばりさえしっかりできていれば、仕上げ
 るのにそれほど難しいことはなかった。ベタ亀甲といっても一幅に二十八の亀甲を降り出すだけだから、チヨが小森で織
 っていた細かい蚊絣に比べて、苦労するところは何もなかった。≫

            

   筑波嶺に雪かも降らるいなかをかも愛しき子ろが布乾きさるかも
                       
万葉集 14ー3351

 と、チヨは披露宴の席で嫁ぎ先である栃木県稲村の村長さんの朗誦を聞いていました。さらに、チヨの嫁入
り理由を吐露します。つまりチヨは政略結婚させられたのでした。

 ≪、、、、、、稲村の村長が長広告を振っても意を尽くしたいと思っているのは、つまり結城紬といっても
   それは茨城県結城群だけの特産品だけではないのだということだった。そこで万葉集から説きお越し、中
   世から戦国時代へとその沿革をた語って、
  「鬼怒川沿岸は養蚕が盛んでありましたので、川の名も古くは絹の川(KINOKAWA)と書きました。洪水が多
   いところから鬼が怒るなどと当て字をしているのでありますが、本来絹の川と書くのが正しいのでありま
   す。その証拠が、今日の芽出度き日を迎えた花嫁の出身地の村の名が正しく絹の川と書いておる。即ち絹
   川に沿った村であるからして絹川村なのであります。」
  「神代から等しく桑を植え、蚕を飼い、糸を紬ぎ、機を織っていながら、
栃木県と茨城県に別れている矛盾
   を、私はかねてから同業者を結束させることによって解決したいとねがっておりました。

   
    和歌山県にも「北山村」が現存します。和歌山県に属しながら、周辺を奈良県と三重県に囲まれており、
   都道府県単位の飛地がそのまま領域になっている、日本では唯一の自治体があります。1889年の町村制施
   行以来一度も他の市町村と合併をしていません。


 ●チヨの花婿さんは、山本三平さんで日露戦争の英雄で10歳も異なる27歳。

注目すべき

 ●≪チヨの舅はよく働く男だった。一日中、こま鼠のように動きまわり、この家では掃除も飯炊きも舅の仕事だった。
   洗濯だけは女二人がやったが、舅は手があいていれば、すぐ干すのを手伝いにきた。≫


消費税10%はすでに明治時代にあった。

 有吉さんは、税の徴収にもご興味があったようです。そのことはこの作品の中でもお触れになっています。

 ≪、、、、、、日露戦争が始まると日本の財政はたちまち貧窮し、税法は大幅に改訂され、それは織物業にも及んでいた。
  明治三十七年には非情特別法によって毛織物以外の一般織物に対しても従価一割の消費税が課され、これらは非情
  特別税法であったのだが、戦争が終わっている明治三十九年に法律七号によって織物税は永久税になってしまった≫
  その後織物消費税が廃止になったのは昭和二十四年です。
 有吉さんのお調べになられた税金の徴収方法にについては、背景に日露戦争の戦費が何処からきたのか、といった疑問
がおこります。そこでジェイコブ・H・シフという人物像が浮かんできました。ここに興味ある参考文献を引用いたします。


                 


 ジェイコブ・H・シフと日露戦争 ―アメリカのユダヤ人銀行家はなぜ日本を助けたか―
                                                     二 村 宮 國
                                                       (帝京国際文化 第 19 号)

 はじめに

100年前の日露戦争における日本の勝利は、アメリカのセオドア・ルー ズヴェルト大統領(当時)の仲介とウォール街のユダヤ人
金融業者ジェイ コブ・ヘンリー・シフの金融面での対日協力なしにはありえなかった。
本 稿は、シフの日本に対する金融支援に焦点を絞って考察する。
開戦直後か ら日本政府の特派財務委員として当時の世界の金融センター、ロンドン で戦費調達交渉に心をくだいた高橋是清は、
のちに、自伝の中でロンドン でのシフとの「偶然の」「仕合せ」な出会いに触れ、「私は一にこれ天佑な りとして大いに喜んだ」 と記し
高橋が交渉に入った1904年春以降の 戦況の好転も幸いしたが、シフの日本外債引き受け参加が、その後の日本 外債の順調な
売り出しに決定的ともいえる影響を与えたことは明らかで ある。では、なぜ、シフ は日本を支援したか。

近年、シフの原資料に基づく研究が米国やイスラエルでも進んできた。 それらの研究は、シフの対日支援動機に、帝政ロシアに
打撃を与えユダヤ 人政策見直しへの道を開かせようとする戦略、深慮遠望があるのととも に、新興国との金融取引は収益をあげる
絶好のチャンスとのビジネス面 での判断も働いたことを明らかにした。

以下、まず、日本が日露戦争を戦いぬくためには、外国資本導入に依存 せざるをえなかった事情と高橋是清の外債交渉を概観し、
ついでナオミ W. コーエンの研究 2) に大きく依りながら、ビジネスと信念を同時に追い求 めたシフの実像を明らかにする。


T、日露戦争と外債

(1) 明治財政と外債非募集政策

「明治の大業、事業の大半を国債に依り之を経営したり」 といわれるよ うに維新政府の国家財政は日露戦争に至るまで国債に
大きく依存してい た。日露戦争の2年前、1902(明治35)年の国債残高は8億5700万円で国 家予算の約4倍に膨れ上がっていた。

1894(明治27)年初、開戦の日清戦 争は、臨時軍事費等総計2億5000万円で、日銀借入と国内での「軍事公債」 募集により財源が
賄われたため、国債残高が膨れ上がる一因となった。し かし、外債発行は行われていない。明治政府は膨れ上がる債務を放置して
いたわけではなかった。すでに1886(明治19)年10月、国債整理のため、 整理公債条例を発布し、「高利公債を償還して国庫の費用
を減らし、民庶 の負担を軽くす」ることを図っていた。

 一方、外債発行についてはさらに慎重だった。明治政府は明治初年から 日清戦争後までは外債は募集しない外債非募集政策を
とってきた。これ は「明治の政治家が外国資本の侵略的意図に対して反発を感じ、極端なま での外債忌避の態度をとったこと」 が
あると考えられる。

明治政府の外債 発行について見ると、第1号は1868(明治元)年7月、英国の東洋銀行から 洋銀50万ドルを借り入れたケースであった。
これは幕府が横須賀横浜製 鉄所を抵当として仏ソシエテジェネラル銀行より1868(慶応4)年2月借 入れた負債を償却するためであった
が、年15%という、とてつもない高 利であった。
今日のように公債証書を発行して一般から募集する外債の 第1号は1870(明治3)年4月、ロンドンで募集した九分利付国債(起債額
488万円)で、京浜・阪神間の鉄道敷設費に当てるとされたが、これも高利 は明らかであった。
以下、@1873(明治6)年1月、七分利付外債起債(士 族への就業資金給付、起債額1171万円)、A1897(明治30)年6月、預金部
保有軍事公債(4300万円)のロンドンでの売り出し、B1899(明治32)年、 第一回四分利付英貨公債起債(募集額1000万ポンド)と続くが
、3件にと どまっている。

1899年の英貨公債発行は高橋是清が交渉する日露戦費の外債発行に先立つものだが、輸入増大による国際収支悪化、国内
金融逼迫のため鉄道公債、北海道鉄道公債の代わりとして外債の発行に踏切り加 藤高明公使が交渉に当たった。。
発行条件は、年利率4%、発行価格90ポン ド(額面100ポンド、政府手取86ポンド)という日本にとっては屈辱的な ものであったにもかか
わらず、応募は低調で実収金860万ポンドにとどまるという惨々の成績に終わっている。

(2)日露戦争の戦費の規模


 日露戦争は1904(明治37)年2月より翌1905(明治38)年9月にポーツマ ス講和条約が調印されるまで1年7ヵ月戦われ日本が勝利した。
この戦争 は近代日本としては初めて「真に国力を傾注した戦争」 であった。その財 政的負担も当時の日本経済にとっては、きわめて
大きいものであった。
日露戦争の戦費支出は、1903(明治36)年12月に始まった。日露関係の 外交的危機に対応して軍備充実を急ぐために、政府は1億5000
余万円の財 政支出権限を得ている。

開戦直後、1904(明治37)年3月に第20回帝国議 会が召集され、臨時軍事費3億8000万円、各省臨時事件費4000万円の第1 次予算が
認められた。臨時軍事費は陸軍省、海軍省が支出する直接経費で あり、その他に各省が臨時事件費として戦争関連支出を行っている。

1904(明治37)年11月の第21回帝国議会で臨 時軍事費7億円、各省臨時事件費8000万円の予算が成立、また、講和条約 成立後の
1905(明治38)年12月の第22回議会では、4億5045万円、各省臨 時事件費9170万円の予算が計上され、総計では(表1)のように臨時軍事
費17億4642万余円、各省臨時事件費2億3970万余円、合計19億8612万余 円に上った。

臨時軍事費は特別会計として計上されたが、これを当時の歳 出予算額(一般会計)、1904(明治37)年度2億2318万余円と比べると、
その規模は8.9倍、つまり約9年分の国家予算に比敵する膨大なものだった。
その財源は歳計余剰金をあてるのはもちろん、国民に献金を訴え、大幅な 増税も試みたが、(これが明治38年の一般織物に対する従価
一割の消費税の原因か
)大部分を内外公債募集と日本銀行からの一時借入金で 充てようとした。このうち、臨時軍事費は14億9242万円を
内外公債募集と日銀借入れで賄おうというもので、その比率は85.46%にも上った。

この戦費を日清戦争と比べる(表2、表3)と、戦争継続期間が19ヵ月 と長かったこともあり、臨時軍事費(特別会計分)のみを見ても
日露戦費 は約7倍と高いものになった。


鈴木武雄(1962)は戦費の中で物件費、特 に兵器費の割合が日露戦争で高まっていることに注目、「戦費の経済に及ぼす影響、とりわけ当時
の日本についていえば、生産と輸入に及ぼす影響 が日清戦争より著しく強烈であったことを意味する」 と述べている。   鈴木武雄『財政史』
東洋経済新報社

 日露戦争開戦直前の1903(明治36)年11月10日、日銀副総裁兼横浜正 金銀行業務監督の職にあった高橋是清は松尾臣善総裁から開戦と
なれば、 日銀として「軍費調達に全力を注がねばならぬ」「国内の支払いは兌換券 増発でともかく弁ずるとしても、軍器軍需品などにて外国より
購入せね ばならぬものがたくさんある」と説明を受け、外国からの軍需品の購入は 正貨を要するから「今日より十分考慮画策してもらいたい」と
指示。 翌1904(明治37)年2月、国交断絶・開戦とともにロンドンに赴き、外債募集交渉に当たる。日露戦争は最初から外債頼みだった。

日露戦争のた めの公債発行は、内国債が国庫債券5回、発行額面額合計4億7306万円余、 臨時事件公債1回、1億9967万円余、
外債英貨公債が4回 、同8億56万円余 で、外債依存の比重が極めて高かったことが特徴である。
「この点にこそ、 当時の日本資本主義の力の限界が現れていた。

(3) 高橋是清の外債募集交渉

  a)ロンドン金融市場と高橋

 1904(明治37)年2月6日、日露戦争開戦が決まり(2月10日宣戦布告)、 日本政府は三人の人物を欧米へ派遣することになった。
対欧世論工作の ための末松謙澄、対米世論工作のための金子堅太郎、そしてロンドンでの 外債募集のための高橋是清であった。
公債1000万英ポンド募集の命を受 けた日銀副総裁高橋是清は2月24日、訪米する金子と共に横浜を出発、サ ンフランシスコ、シカゴ、
ニューヨーク経由で3月31日、英リヴァプール に上陸、翌4月1日、ロンドンに入った。

これよ り先、1898(明治31)年に当時、正金銀行副頭取の地位にあった高橋は井 上馨蔵相から外債募集の可能性を探る密命を受け、
海外支店業務指導点 検の名目でイギリス、ドイツ、ベルギーを訪れている。

だが、ロンドンで高橋を待ち受けていたのは、日本政府の外債募集は絶望的とする見方だった。
例えば、3月17日にはニューヨーク滞在当時、ロンドンの横浜正金銀行 支店支配人山川勇木から電報が届き、「ロンドンでは、募集の
見込みはない、 今日正金銀行のごときは鐚(ビタ)一文の信用もない」と書かれていた。
パース銀行の総支配人ダンやロンドン支店長シャンドらも同様な見方 で、高橋が英貨公債1000ポンドを募集するという日本政府の希望を告げ たとき、
「いずれも燃ゆるがごとき同情は持っているが、ただ話を聞きお くにとどまり、目下の状況では日本公債の発行は容易なことではないと いうことで、
山川君の電報の真意が一層よく体験せらるばかり」 だった。

しかし、高橋はシャンドらの仲介でパース銀行を軸に交渉を進め、アジアに活躍の場を広げていた香港上海銀行を引き入れ、4月26日、27日ごろには
日本政府の希望額の半分の500万ポンドを発行する案をまとめ上げた。

交渉開始当初、パリ市場でのロシア公債市況は上昇気味であるのに対 して、日本の1899年発行第1回四分利付英貨公債のロンドンでの市況は、
開戦前の80ポンド以上から60ポンド程度に暴落していた。

  b)シフとの出会い

 アメリカのユダヤ人銀行家ジェイコブ・ヘンリー・シフとの出会いは、 ロンドンで苦闘する高橋、そして日本の外債募集に大きく道を開くこと になり
決定的な影響を与えた。シフが日本の外債を引き受けたことによ り、外債発行は軌道に乗り、高橋は合計6回に及ぶ外債募集を成功 させることが
できたのである。高橋はシフの決断への感謝の気持ちをシ フの没後、英文追悼文に記しているが、
「ロンドンとニューヨークで発行できることになったことは、英米両国民の日本の大義に対する精神的支 援を具体的な形に表したものである」
と述べるとともに、シフを「正義の 士」と称えている。

しかし、シフと高橋の出会いは決して「偶然」ではなかった。シフが計 画的に高橋に近づいたと考えるべきである。N.W.コーエンのシフについての
最新の研究によれば、日露戦争開戦直前の1904年2月にニューヨー クのシフ邸で開かれたユダヤ系アメリカ人指導者たちの集まりでシフは次のように
述べたという。
「72時間以内に日本とロシアは開戦する。私は日本への資金協力を実行 すべきかどうか検討している。計画を実行に移した場合、
ロシア国内のユ ダヤ人にどのような影響を及ぼすか、皆さんの判断を伺いたい」

すでにこの年初め、シフのクーン・ロエブは日本への資金協力を検討し 始めていた。セオドア・ルーズヴェルト大統領もアメリカ国内世論も日本寄りで
あった。会合でのユダヤ人指導者たちは日本への協力に好意的 であったと推察されるとコーエンは述べている。
また、シフに対して、ロンドンのベアリング兄弟商会社主のレヴェルス トゥク卿がニューヨークでの発行引き受けに参加するよう熱心に働きか けていた。

ベアリング商会は帝政ロシア政府との関係を優先する経営戦 略から高橋の交渉の際は引受けを断ったが、ニューヨーク市場の育成に 関心があり、
日本外債発行をその起爆剤にする意図があったといわれる。

さらに、ロンドンの有力なマーチャント・バンカーであり、英国王とも 親しく、シフの親友の一人であるアーネスト・カッセル卿が日本外債の ニューヨーク
発行についてシフの相談相手となり、日本に好意的な説明 をしたこともシフの高橋への接近の背景にあったとみられる。

イギリスは、日英同盟で同盟国とはいえ、日本がロシア一国と戦うときは中立の立場をとる条約の取り決めになっており、ロンドンでの日本政府の起債
活活動を公然と支援することは国際法上好ましくないとの意見が国内にあった。そのうえ、英王室とロシア王室は姻戚関係にあること、白人国ロシア と
戦う黄色人種日本を白人国イギリスが単独で支援することはロシアに対してはばかられることなどから、アメリカを引入れ英米共同で日本を 支援するこ
とを秘かに図った。このためカッセル卿が、イギリス王室、政 府の意向を代弁するかたちで動いたと考えられる。

 以上のような点からみて、シフはヒル邸の晩餐会で高橋に意図的に接 触を図った、と考えるべきであろう。

                      


 U、シフと日露戦争

 (1)シフの意図

  イ.経済的動機

 イスラエル・ハイファ大学のダニ・グートウェイン博士は「ジェイコブ・ シフが日本を支援した真の動機」と題する報告 の中で、シフは経済的動機 と
政治的動機の二つの動 機があったと述べている。

経済的動機とは、外債引受 けによって得られる直接 的利益である。

(1904年に ロンドンで発行された外国政府債)
第1回六分利付英貨公債 の条件(発行価額は額面 100ポンドに付き93ポンド半、期間7年実質利回り年 6.42%)は投資家に魅力的 で高い人気と
なった。(表5)の通り、日本の第1回六分利付英貨公債は、 1904年にロンドンで発行された外国政府債の中でも投資家に最も有利な ものであった
からである。

5月11日(ニューヨークは12日)応募申し込み 受付が始まったが、日本軍が韓国から鴨緑江を渡河して清の九連城と安 東付近を占領する勝利の報
(5月2日)にロンドンでは募集開始前に早く もプレミアムが付く人気となった。30倍の応募があり即日申込み締切り となった。ニューヨークも12日受付
開始、翌13日締切りで5倍の申込みが あった。ニューヨーク市場では同時に売り出された、当時世界最大の企業、 U.S.スチールの五分利付き社債
(利回りは年7%)より人気を集めた。

シフは1904年5月から翌1905年11月まで5回の日本外債発行に参加し ている。その合計額は1億9600万ドルに上り、ニューヨークでは、第1次 世界
大戦前では前例のない空前の規模となった。

  ロ.政治的動機

 シフは金融市場としてのニューヨークの地位を高める結果をもたらした。だが、経済的動機だけでは対日支援の動機を説明できないことも事実 である。
アメリカのユダヤ系経済人のリーダーであるシフは国内のユダ ヤ人差別と闘い地位向上を目指す信念の人でもあった。
東ヨーロッパ諸 国、特に帝政ロシアでのユダヤ人迫害は、“ポグロム(Pogrom、ユダヤ人 大虐殺)”として知られ、1880年代には復活祭の季節になると
毎年、年中行事のように発生した。
とりわけ1903年、キシニョフ(Kishinev)で起きたロシア政 府が扇動してのポグロムは西欧、アメリカに衝撃を与えた。

シフはユダヤ系アメリカ人を代 表してセオドア・ルーズヴェルト大統領、ヘイ国務長官に書簡を送り、ロ シアに対して抗議し、ロシア国内のユダヤ人に
国内旅行を自由にするな どキリスト教徒と同等の権利を与えるよう促すことをアメリカ政府に求 めた。そして日露関係が緊迫し戦争は不可避の情勢に
なったとき、シフは 戦争が帝政ロシアに打撃を与え、体制変革をもたらすか、悪くても、国内 政治の改革が行われ、ユダヤ人迫害政策が改められる
きっかけになると考えた。、また、自ら取締役を務めるナショナル・シティバンクの役員会で通 常の3-4倍の利益が得られるロシア政府公債の引受けを
拒否するよう求め た。ヨーロッパの銀行家にも資金面での対露非協力を呼びかけた。ロンド ンのロスチャイルド家は、1875年以降、ロシアの公債を引
受けておらず、 ロンドンではユダヤ系、非ユダヤ系を問わず、ロシア公債を引受ける金融 機関はない、とシフに断言した。

 一方、シフの日本に対する支援は、アメリカ国内で他の金融機関に引 受シンジケートへの参加を呼びかけることにとどまらず、ドイツをシン ジケートに
加えることを高橋に助言し、ヴァールブルク商会(Warburg & Co.)とドイツ・アジアティッシェ銀行(Deutsch-Asiatische Bank)グルー プを高橋に紹介した。
シフの友人であるヴァールブルク商会のマックス・ M・ヴァールブルクは、ドイツ銀行頭取と共にドイツ皇帝のヨットに乗り、 皇帝から日本への投資を行うこと
にお墨付きを得て、1905年7月、11月 の2回、高橋の交渉した英貨公債募集に参加している。

 一方、ロシアの全権 代表のセルゲイ・ウィッテ伯は覚書で「ロシアは資力を使い果たした。国際信用は地に堕ちた。内外で公債を発行することはもはや
不可能だ」とそ の苦渋を記していた。

 (2)日露戦争後のシフと日本

 1906年10月のサンフランシスコ地震のあとカリ フォルニアで起きた排日運動などによりギクシャクし始めた日米関係の 友好維持、緊張緩和を図るため、
1908年にシフはアメリカの金融・教育界 のトップ40人を招いて日本政府高官のための晩餐会を開いている。一方、南満州鉄道の権益がポーツマス条約で
ロシアから日本へ譲渡さ れたのを見て、アメリカの鉄道王、エドワード・H・ハリマンがその買収 に動いたとき、シフは支援し日本に売却を働きかけている。


   V、アメリカのユダヤ人リーダー

 (1)シフとクーン・ロエブ商会

 ジェイコブ・ヘンリー・シフ(1847-1920)はドイツ生まれのユダヤ系ア メリカ人である。。ジェイコブの生まれたフランクフルトのシフ家は、14 世紀に遡る
家柄で、初期のシフ家は住居1棟をロスチャイルド家と共有す る間柄であった。

1875年に投資銀行クーン・ロエブ商会 に入社する。。設立当初のクーン・ロエブ 商会は公債と鉄道債券を扱っていた。
南北戦争後のアメリカ国内は鉄道 建設事業が盛んで、事業資金の巨大な需要があった。このアメリカ資本主 義の追い風とジェイコブ・シフのユダヤ人
ネットワークを利用した経営 手腕が相乗作用を生み、クーン・ロエブ商会は急成長した。
シフは鉄道王、エドワード・H・ハリ マンと提携する。ユニオン・パシフィック買収はシフの金融業者としての 名声を高めた。19世紀末から20世紀初頭にかけて
クーン・ロエブ商会は モルガン商会に次ぐ地位をウォール街に確立する。

          ジェームズ・ローブ
          ドイツ
ヴォルムスユダヤ系)の実業家ソロモン・ローブSolomon Loeb)の子として生まれる。


 クーン・ローブ (Kuhn Loeb & Co.) は、グローバル金融財閥
 1977年リーマン・ブラザーズに統合され、クーン・ローブ・リーマンと称しました。1984年にクーン・ローブ・リーマンがアメリカン・エキスプレスに買収され、
 シェアソン・リーマン・アメリカン・エキスプレス (Shearson Lehman/American Express) に改名された際、クーン・ローブの名は消えることとなりました。
 ジョン・ロックフェラーへのメインバンク、財政アドバイザーとしても有名。国内の主要産業への投資のみならず、クーン・ローブを通じ中華民国大日本
 帝国
などの公債引き受け等にも参画。

 日本との関係
 日本政府が
日英同盟を根拠にして日露戦争の日本公債をイギリスロンドンで販売した際、当時世界最大の石油産出量を誇っていたカスピ海
 バクー油田
の利権を持つロスチャイルド家は購入を拒否。その代わり同家は行動を共にするジェイコブ・ヘンリー・シフを紹介しました。
 日本は戦費を調達できたが、戦後は金利を支払い続けました。
 
 シフは「日露戦争で最も儲けた」。1911年にはクーン・ローブはロックフェラーと共同で、後に
チェース銀行と合併するエクイタブル・トラスト社を買収しました。
 関東大震災
のときは台湾電力の社債を引受けています。

 (2)ユダヤ人ネットワーク

 クーン・ロエブ商会はグゲンハイム系鉱山会社への投融資を行っていたが、これもシフと ユダヤ系の
グゲンハイム家との友情によるものであった。
シフは休暇と ビジネスの機会を利用して、ひんぱんにヨーロッパ旅行を行い、ドイツ、 イギリスの金融
関係者と絆を太くしていった。シフと家族ぐるみの交際 だったロンドンのアーネスト・カッセルはケルン
出身のドイツ系ユダヤ 人で英王室とも親しく、シフの日本外債引受け決断に大きくかかわった。


 3)ユダヤ人移民支援と慈善事業

 シフは1880年 代初めからアメリカのユダヤ人移民の救済・差別への抗議、また、移民制限論への
反対などに取り組む。これはロシアの迫害を逃れてきたものの 言葉が不自由であり、差別に苦しむ
新移民への支援が中心であった。
一方、この時代、ヨーロッパからシオニズム(Zionism)の運動が燃え上がったが、シフは同調しな
かった。シフは1907年7月のユダヤ人集会 (Jewish Chautauqua Assembly)の席上、ユダヤ人にと
っての「約束の地」はアメリカであり、パレスチナではない、と述べている。
「アメリカはユダヤ人の一時的な避難所ではない」
とも延べ、ユダヤ人移民のアメリカ 定着に力を注いだ。


  投資銀行家として成功し、アメリカン・ドリームを体現したシフは、 信仰心の厚いユダヤ教徒であるが、
上流のキリスト教徒的倫理観をも ち、百万長者になっても成金的ではなく、慈善事業に積極的に取り組み、
キリスト教徒を含め多くの人に尊敬されていた。
慈善事業では、ハー バード大学、コーネル大学、アメリカ赤十字社へ巨額の寄付をしている。


 (4)帝政ロシアのユダヤ人迫害への抗議活動

 シフは、日露戦争後も続く帝政ロシアのユダヤ人迫害に強い怒りを感 じていた。シフはロンドンのロスチャイルド家を
はじめ、サミュエル・モ ンタギュ卿、モーリス・ド・ヒルシュ男爵などヨーロッパのユダヤ人指導 者ネットワークにも
抗議活動を呼びかけた。
バルカン半島、モロッコ、パ レスチナのユダヤ人弾圧にも目を向けた。財力ではロスチャイルド家より下であってもシフ
の発言力、影響力は勝るとも劣らないものであった。


 日露戦争中のロシアの戦時公債募集への非協力の呼びかけは、その抗 議活動の第一歩ともいえる。
ロシア側には戦時資金調達という切迫した現実の前にシフのロシア向けローン“ボイコット”運動を封じ込めたいとの思惑
があった。

プレーヴェは知的であったが、無慈悲なまでに厳格な性格であり、反ユダヤ主義者、
保守反動政治家として振舞った。
対外的には対日強硬派であり日露戦争開戦を主張、開戦反対のヴィッテと対立した。


1904年、フォン・プレーヴェ(von Plehve)内相がシフに協議を申し入れてきた。シフは外国のユダヤ人向け出入国ヴィ
ザ(査証)制限の撤廃を求めた。

外国人向けヴィザが撤廃されれば、ロシア国内のユダヤ系国民の自由な旅行を禁じた政策も維持できなくなるだろうとの読
みだった。申入れより数週間後、プレーヴェは暗殺された。


また、1905年夏、ポーツマス会議にロシアの全権代表として出席するヴィッテ蔵相とアメリカのユダヤ人代表との会合が開
かれたときには、シフも5人のユダヤ系アメリカ人代表の一人として出席し,「ロシアがユダヤ系国民の正当な権利を拒み続
ければ、アメリカ国民のロシアに対する好意は大きく損なわれることになる」と持論を展開した。


1911年にロシア蔵相は「ロシア政府はあのユダヤ人、シフがロシアに行ったことを決して忘れないし、許さない。
シフが一人で日本のアメリカでの資金調達を可能にした。 シフはロシアにとって最も危険な外国人の一人である」と外国人
ジャー ナリストに語っている。

 おわりに

 ロシア国内のユダヤ人迫害は同胞愛に燃えるシフを帝政ロシアとの長 い戦いに突き進ませた。
だが、帝政ロシアが倒れた喜びもつかの間、シフ はロシアの反ユダヤ主義の終わりが来たのではないことを覚った。

逆に 「ユダヤ陰謀説」の登場でシフは、反ユダヤ主義勢力の標的となり苦しむ。


 一方、日本との関係では、日本が帝政ロシアと1910年、満州の特殊権益 を守るために第二次日露協約を結んだときシフは
激怒した。

日本のやり 方は裏切りではないとしても忘恩行為だと受けとめたからである。
「日本 が人類の敵ロシアと手を握るとは・・・。
ひどくくやしい思いがする」


1922(大正11)年9月1日の関東大震災で、日本は震災後復旧のため再び ニューヨークでの外債発行を計画する。
この時、井上準之助蔵相はクーン・ ロエブ商会ではなく、ライバルのモルガン商会を交渉相手に選んだ。
第一次大戦でアメリカ国内に反ドイツ感情が高まり、シフらドイツ系ユダヤ人移民が経営するクーン・ロエブ商会の影響力に
陰りがさしていたからであるが、井上の高橋への対抗心があったからともいわれる。



                                
 

                

 「う、う、う、うわあッ。ぐおゥゥ。があぁッ。ぎゃあォッ」
  ≪茶碗の水を飲ませ、寝汗でぬるぬるになっている肌を手拭いで拭いてやるのが、チヨの毎夜の仕
   事であった。叫び声があまりにも凄まじいので、チヨはこればかりはいつまでたっても馴れず、
   そのたびに飛上がって驚き、そうだ夫にはこういう癖があったのだと気つくまではいつも間があ
   って、それまで夢中ですがりつき、水を飲ませ、汗を拭いている。≫

  ≪「(二〇三高地で気絶していたんですよ。あすこは死人の山でした。山本はその下敷きになって、
   三日も人事不省でしたが、獣が吠えるみたいな大声を出しましてね、看護兵が驚いて駆けつけた
   くらいですよ」≫

  ≪「しょんね奴になったな。前はあげな男ではなかったっけが。戦争からこっち、腑抜けになっち
    まって、おチヨがびっくらこいて、がっかりしてんでねかと俺は心配でなんねぞ」≫
 
 そんなチヨにも女の子が産まれ三平は喜びました。
 そして、旧藩主の水野子爵の金の発掘が失敗に終
 わりもう結城では誰もその話をしなくなっていた
 ときに重田と名のる三平の戦友が訪ねてきたので
 重田と三平の会話からチヨが知ることのできた戦
 争というものと、留吉が聞きかじって思い描いて
 いる戦争は、天と地ほども違っているのは明らか
 だった。死線を超えるというけれど、戦争という
 ものは日の丸を振って祝うような華やかなもので
 はないのだと知りました。
そして、ようやく三平
 の毎夜魘される夢の招待も分かりました。
 そのころスペイン風邪が大流行し罹患した重田は
 三平宅で客死し、チヨの父母も亡くなりました。
「スペイン風邪」
一般的に
1918年から1920年にかけ全世界的に大流行したH1N1亜型インフルエンザの通称。
全世界で5億人が感染したとされ、 世界人口(18億-19億)のおよそ27%(CDCによれば3分の1
とされており、 これには
北極および太平洋諸国人口も含まれる。パンデミックが始まった1918年
第一次世界大戦中であり、世界で情報が検閲されていた中でスペインは中立国であったため戦時の
情報統制下になく、感染症による被害が自由に報道されていました。
1918年3月4日、アメリカ合衆国カンザス州アメリカ陸軍ファンストン基地で、アルバート・ギッチェル
(Albert Gitchell) という名の兵士が発熱、頭痛、喉の痛みを報告し、これが記録された最初のスペイン
かぜ流行の症例とされている

1918年8月の後半、変異により毒性の高まったウイルスの流行が、アメリカのボストン、フランスの
ブレストシエラレオネフリータウンという3つの港湾都市でほぼ同時に発生し、パンデミックの第2波が始
まった

1918年8月の後半、変異により毒性の高まったウイルスの流行が、アメリカのボストン、フランスのブレスト
シエラレオネフリータウンという3つの港湾都市でほぼ同時に発生し、パンデミックの第2波が始まった
1919年1月、第2波による被害を免れたオーストラリアを第3波が襲い、1万2,000人以上の死者を出した
その後、第3波は1月中にアメリカ・ニューヨークとフランス・パリに到達し、4月にはパリで
講和会議に出席してい
たアメリカ大統領
ウィルソンも罹患した。第3波は欧米では1919年の夏(北半球)までに収束したが、
その後はチリやペルーなど南半球の国々や日本に遅れて到達し、各地で大きな被害を出した
[]
日本は1920年1月から2月にかけて第3波に襲われた

感染者数2380万人、死亡者約39万人が内務省衛生局編『流行性感冒』(大正11年/1922年)による
統計数値である
また45万人が亡くなったとされていて、速水融は死亡者を約45万人(肺結核、気管支炎
等が死因とされていた者を含む)
と推計している。
               


 
       死ぬ者貧乏

チヨは三吉を産みました、このころ三吉は重田の影響で金の発掘に興味を持ち出しました。

 
 結城晴朝肖像(東京史料編纂所所蔵模写)。彼は一体どこに埋蔵金を隠したのだろうか

茨城県結城市にある金光寺ここは13世紀ごろ、結城城主で下総結城氏の初代・結城朝光が
建立した真言宗の寺院です。その山門には次の3首の和歌が刻まれています。


 きの苧 かふゆうもんに さくはなも みどりのこす 万代のたね
 こふやうに ふれてからまる うつ若葉 つゆのなごりは すへの世までも
 あやめさく 水にうつろう かきつばた いろはかはらぬ 花のかんばし

この和歌には、結城氏17代・晴朝が結城城(茨城県)のどこかに埋めたとされる
埋蔵金のありかにつながるヒントが隠されているといいます。
いわゆる「結城埋蔵金」である
のです。

   
   ―有吉佐和子さんは安東家下邸のことを背景として『鬼怒川』を執筆したのだろうか?―
埋蔵金のお話は和歌山市にある紀伊風土記の丘付近の「安東家下邸」にもございます。
         

(公財) 和歌山県文化センター 仲原 知之氏のお話から、

 朝日さす夕日かがやくその下に黄金千枚朱三石
          ここをクリックしてください→ 「岩橋千塚古墳群研究のあゆみ」


≪三平は同じ栃木県の河内郡河内村にある本吉田という部落の外れに、土地の人々が金山と呼んでいる場所に
小さな掘立小屋を立て、そこで自炊しながら買い込んだ材木で櫓を築き、腰をすえて掘る気になったのだった。≫

        ベタ亀甲十字絣

≪大賞十三年に茨城県工業試験場が結城町に創設され、完全操業が開始されて以来、結城紬は画期的な変化を
遂げていた。試験場は主として紬の染色と図案の研究指導に当たったのだが科学染料の発達が更に意匠に大胆な
図柄を使うことに拍車をかけた。≫
≪チヨの舅は十年前に死んでいた。絣しばりをするべき男手のない家には、試験場から織リ子の腕に見合った染糸
を届けてきて、若者たちが整経(はたのべ)までして行ってくれるので、チヨはただ言われた通りに織っていればよか
った。≫

  三吉に臨時招集令状が来た   


    

 ≪チヨが梭を右から左へ走らせ、横に百も並んだ十字絣を揃えるのに熱中しているとき、
  「おっ母」
 、、、、、、チヨはびっくりして息子の顔を見た。、、、、、、、、、≫
 
≪いま、チヨよりはるかに若い娘が、チヨの後ろから威勢よく追いかけてくる。チヨは最初
  は驚いたし、正直なところ自分が不安にもなった。しかし、自分が三年たてば六十歳に
  なるのだと思えば、二十七歳の嫁の方が若く力があるのは自然の理というものである≫

 「戦争ぼけ」の三吉に三郎長男が産まれました。そして、三平、三吉、三郎と山本家は三
代に渡って埋蔵金探しを行いました。そして、三名は同じような亡くなりかたをします。

 ≪「俺のお爺も、俺のお父も、戦争から帰って惚けてしまった。それで埋蔵金を掘ったとい
  う話だろう」≫

 有吉佐和子アルツハイマー病への拘泥。 
アルツハイマー病の恐怖は、落とし物をして交番にいっても相手にしてもらえないことです。
そして、みなさまの中でもこんな体験をした方がいらっしゃるかも、現代社会にも通ずるよ
うな漱石さんからの励ましのメッセージです。


『吾輩は猫である』 夏目漱石から
≪「不用意の際に人の懐中を抜くのがスリで、不用意の際に人の胸中を釣るのが探偵だ。
  しらぬ間に雨戸をはづして人の所有品を盗むのが泥棒で、知らぬ間に口を滑らして人
  の心を読むのが探偵だ。ダンビラを畳みの上へ刺して無理に人の金銭を着服するのが
  泥棒で、おどし文句をいやに並べて人の意志を強ふるのが探偵だ。だから探偵と云ふ
  奴はスリ、泥棒、強盗の一族で到底人の風上に置けるものでない。そんな奴の云ふ事
  を聞くと癖になる。決して負けるな」≫

  人の意志を
 有吉佐和子さんは『恍惚の人』 『青い壷』の中で老いとアルツハイマー病をとりあげてい
ます。これらの作品からアルツハイマー病は真面目な正確で勤勉な人が突然社会から隠
遁者になった場合に発病するような気がいたします。
つまり緻密な作業を離れたチヨさんは記憶力が衰えてしまい、テレビが復旧したことによっ
てすべての出来事をを想像する能力が衰えてしまったからではないでしょうか。いまわれわ
れが電卓に依存して、暗算が苦手になっているのもアルツハイマー病の要因かも知れませ
ね。

チヨの耄碌語録

 「三郎、三郎でねえか。」やれ、いつ帰っただ」
 織物指導所の若者も、チヨも仰天した。チヨは目まで耄碌してしまったのだろうか。、、、、、、
 「三郎、俺は待ってたぞ。東京へ行ったまま何も言わねえでよ、帰らねがったのは何故だと
 思ってよ、なに帰らねえ筈はねえと思っていたのよ。そっちこっ、おかしげなこと俺に言う者
 があったが、お前のおっかあまで俺をコケにして妙なこどべ言っちたったが、俺は三郎が帰
 って来ねえわけはねえと思ってたのよ。さあ、温け飯でも喰えよ。俺がひさしぶりで炊いて
 やるべ」
 「お婆、お婆。俺は三郎でねえっち」
 「俺が三郎に見えるとはな、お婆は幾つになる」
 「齢きくとよ、忘れたっち言うがら」
 「自分の齢も忘れるぐれだら、孫の顔見忘れて無理はねがな」


 大谷瀬に嫁にいった娘が、チヨの肩を叩いて、
 「おっ母、しばらくだな」
  と耳元で叫んだとき、チヨは不審そうに娘の顔を見て、
 「お前は誰だ」
  と訊いたものだ。
 「やれ情けねえな、おっ母。娘の顔まで忘れだっちか。俺はお前の娘だぞ」
  チヨは、まじまじと顔を見てから、喉の奥で笑った。
 「俺を白雉にするでね。俺の娘はお前のような年寄りでねっち」
  嫁は小姑に、いつぞやの織物指導所の若者がすっかり三郎と間違えられた話をした。
  娘たちは笑いながらも薄ら寒い思いをして帰って行った。

  
 「やあ、お婆。達者かい」
  三郎は三年ぶりに生家に帰ってきて、何より会いたかった彼の祖母に、子供のころと同じ
 素直で明るい笑顔を向けたのだが、チヨはいざり機の中で足を踏ん張って立ち上がると、叫び
 出した。
 「お前また来たな。しょうこりもなくまた来やがったな。今度は家には入れねえぞ。お前のよう
 な疫病神を、この山本げに入れてたまっか。お前をこの家に入れてっからだ、俺げがえれえ
 目にあったのは。帰れ。帰れよ。帰れっちに」
 「なに、三郎だ。こいつが三郎か、ばかこけ。こいつは重田って野郎だっち。俺は忘れたことが
 ねがら。こいつが尋ねて来てから、お父も三吉もえれえ目にあっただ。やい、入るなっちに。
 帰れ、帰れッ」
 「おっ母、間違えるな、これは三郎だっちに。よく見てけれ、ほれ、三郎だべ」

 「お婆はいつからこげなことになってただ、おっ母」
 「一年ぐれえ前から急にひどくなってよ」
 「ふうん」
 「近頃じゃ自分の娘も見忘れてるだから」
 「そんなになるものかね」
 「何もさせねでテレビばっか見せてたのが悪かったかとも思うけどよ、なんせ齢だべ」
 「ああ、びっくりした。家に入るなと言われたときは驚いたなあ」
 「んだべ、俺もどげするべと思っただから」
  嫁と三郎の会話はチヨには聞こえなかった。チヨは涙をふくと、たちまち機嫌を取戻し、
 「おい、三郎に飯喰わしてやんべ、戦争で、ろくに喰ってねだから。よし俺が炊いてやっから
 待ってろ」
               

 三郎、山本家三代のロマンを繋ぐ




デモに向かう美智子に対して「警官を憎んではいけない。自分たちよりも条件の悪い、貧しい育ちの青年が多い。
その人たちを敵と思ってはいけない」         ー
母・光子による遺稿集『人しれず微笑まん』

 ≪三郎は煙草も吸わなかったし、他に趣味はなかった。子供の頃は絵が好きだったが、大学の芸術学部
  デザイン学科に入った途端から、色彩や形象よりも、大学紛争の方に興味が傾いてしまったのだ。
  学生運動の中で、三郎は喉が裂けるかと思うほどシュプレヒコールもやったし、インターも唄った。祖父も
  父も埋蔵金探しで死んだということなど誰も知らない環境だった。
  東京に集まってきている若者たちは誰も、暗い過去をひきずっていない。彼らは恐怖すべき未来に向かっ
  て、楽天的にただまっしぐらに走り出す。
  三郎はその仲間に入ったのだった。
  彼は、そうした青春が終わったのを病院のベットの中で悟ったつもりだったが、自分が再び同じものに向
  って突進していることには気がつかなかった≫


 「俺のお爺も、俺のお父も、戦争から帰って惚けてしまった。それで埋蔵金を掘ったという話だろう。
 家では誰も喋べらなかったが、俺は小さなころから耳にタコが出来るほど聞かされていたからな。
 小学校にはいじめっ子がいたからな、親から聞いた話を俺の耳に吹っこむのよ、おかげで俺は小せ
 え頃は、肩身をせまくして暮らしていた。小学校でも中学校でも大きな声一つ立てることができなか
 った。みんな俺のお爺や、俺のお父を碌でなしの恥さらしみてえに言ったがらな。俺も、ひょっとして
 お爺やお父みてえになっては大変だと思ったりしたものよ」

 「そげに分かってりゃ、なんで今になって掘るだか」

 「俺の考えが変わったのは病院でだった。鉄パイプで叩きにめされて、てっきり死んだと思っていた
 のが、息を吹き返したときだな、きっと。今から思えば、あんときだ、うん」

 (中略)

 「埋蔵金は浦島太郎の竜宮城なんだ。桃太郎なら鬼ヶ城だ。裸の王様が着たがった目に見えねえ
 織物は、結城紬よりファンタスティックじゃないか。お爺も、お父も、それに熱中したんだ俺ははっきり
 理解したのよ。金堀は恥でも何でもないんだ。日本の現状で資本主義や米帝の侵略と闘うより、もっ
 と純粋に理想的な闘争んんだ。ユートピアを探求することだからね」

 「何を寝言みてえなことを言うだ、三郎、よさねえか」

 「よさねえ。俺はお父がやったようにィ、機械で大仕掛けにするのはァ、好みじゃない。科学万能主義
 の時代は終わったのだしィ、一人でェ、この腕でやるつもりだ。お爺は工兵だったからァ、
穴掘りは旨
 えものだったてなあ」
  (*三郎の傍線部の口調は、現在の若者の口調と似ていませんか)

 ≪彼が掘っている場所は、観音堂のすぐ後ろである。三郎は埋蔵金の発掘が、これまではいつも墓地
  や宅地や古井戸に狙いがつけられていたのを盲点だと考えた。神仏に対する懼れからか、かつて
  祠や堂宇の下が掘られた例がなかった。墓ならば他人はあばけるのに、神の存在するところは手を
  つけない。それこそ巨額の黄金にとって恰好の隠匿場所ではないか。
  三郎の父親は小田林の金光寺を掘ったが、そのときも山内の神明神社は的から外していた。しかし、
  三吉が死んだあとでは誰言うとなく、それは神罰だったことにされてしまっている。≫


 ≪うつき観音の後ろの穴は、もう随分深くなっていた。姉娘は大谷瀬からの帰り道に、その穴を覗きに
  行った。
  太い柱で櫓が組まれ、太いロープで縄梯子が作られている。穴のふちは土が盛られて、いよいよ穴
  の中を暗くしていた。今では掘ること以上に、掘った以上に、掘った土を外へ運び出す作業が大変に
  なっている≫
             
  小田林に嫁いでいる姉娘と、大谷瀬に嫁いでいる妹娘は、本来なら二人の母親の面倒を見る筈の嫁が
  入院したきりで少しもはかばかしくならないのを愚痴りながら、しかし今のところどうすることもできないと
  嘆きあった。
 ・チヨ、アルツハイマー病がひどくなる
  ≪チヨは家を出ると東へ東へと歩きだす。チヨの小さな躰や、
  老いた年齢を考えることの出来ないほど達者な早足である。闇の中であるのに、チヨは必ず東へ向かって
  歩く。誰の家に住んでいるのかさえ朧ろになっているのに、方向は決して間違わず、やがて鬼怒川の岸に
  立っている。上流にダムが出来てから、決して鬼のように怒ることのなくなった細く鋭い水の流れは、夜の
  中で銀色の蛇のように妖しく光り、躰をくねらせていた。チヨはいくら眺めても飽きなかった。あるときは川を
  見詰めて上流に歩いた。また、あるときは川に沿って下流に歩いた。目的がない証拠にはチヨの産まれ故郷
  である小森の部落さえ通りぬけることがあり、チヨの嫁ぎ先である中島の部落にきても足を止めることがない≫

       
 

  腸日ごとに九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、
 今は心の奥に凝り固まりて、一点の翳とのみみなりたれど、
  文読むごとに、物見るごとに、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、
 限りなき懐旧の情を喚び起して、幾度となく我が心を苦しむ。
  嗚呼、いかにいてか此の恨を銷せむ。
 若し外の恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後は、心地すがすがしくもなりなむ。
 これのみは余りに深く我が心に彫りつけられたれば、
 さはあらじと思えへど、

 
                                    『舞姫』 森鴎外より引用しました。
  
   【 来たれ!生涯学習講座 『舞姫』を読む〜時代の波に翻弄された―青年の悲劇
   2024 10/26(土)10:30〜12:00 大阪学院大学2号館 06-6381-8434
   講師 著名な『宿命』 沖野岩三郎 論者  福森祐一博士
 】
 アルツハイマーにてお家断絶した山本家の悲劇

 ≪チヨが辿り着いたのは大谷瀬の八尺堂だった。チヨはもちろん、そこでかって溺愛していた孫が埋蔵金を
  掘っていることなど知らなかった。しかしチヨの幼い頃と同じ佇まいを見せている観音さまの堂宇は、チヨの
  心を充分和ませるものがあった。チヨは一息ついて背後を振り返り、もうあの男の影もないことを知ると、懐

  かしそうに辺りを見廻した≫

  「お婆、出たぞ、埋蔵金が」
 三郎の気配で、チヨは孫の顔を振仰いで見た。
   、、、、、、(略)、、、、、、、。
  「お前、また出たな」
 チヨが金切り声をあげて叫んだ。
  「お婆、穴の中は黄金で一杯だ。見に来るか。見せてやろうか」
     ーチヨは孫と重田の見分けがつかないー
  
「お前は、いつまで俺げをうろついて仇するだ。俺が逃げてべいると思えば大間違えだぞ」
  「何を言ってるだ、お婆」
  「俺が逃げたのは鯉さまに遠慮しだからだ。もう逃げねぞ。こいつが、畜生め」
  「お婆、よせよ。なにするんだ」
  、、、、、、(略)、、、、、、
   ≪三郎が悲鳴をあげた。チヨの猛撃をかわしそこねて穴へ落ちるときだった。あいにく縄梯子
  は、その先に骨片を詰めた袋をしばって、上へ引き上げたばかりだった。もう一度、地の底
  から鈍い物音が聞こえた。続いてチヨも落ちたからだった。空の満月には雲一つかかってい
  なかったが、うつぎ観音堂の周りにはそれきり何も聞こえなかった。
  大地はチヨと同じように耳を塞いだらしい。秋であるのに虫の声も立たなかった≫

     

 認知症になりにくい人の特徴

          岐阜大学連携大学院脳病態解析学分野 教授(客員)
                     矢野 大仁(やの ひろひと) 先生

 スマホが影響する認知症
 近年は「スマホ依存症」が社会問題となっていますが、
IT機器を長時間使用することで脳機能が低下してしまう
ことが分かっています。

 スマホの使用時間が長いほど脳は疲労してしまい、記憶したり思い出す機能が
弱まってしまいます。これらはデジタル認知症と言われ、要注意と言えるでしょう。


 アルツハイマー協会(Alzheimer's Association)は認知症リスクを減らすために
 改善するべき生活スタイルを10項目を提唱しています。

週1回以上友人や知人と交流している方は、活動能力障害や死亡のリスクが低い

・学習活動や趣味などの知的活動は脳に良い刺激にを与えることができるので、
認知症リスクを軽減できます


・掃除や買い物などをこなすことで自立した生活を送れるので
「自分のことは自分で行う」意思を持ちましょう。


自分で調理をするなどといった簡単な家事も脳に良い影響を与えるので、
積極的にこなすようにしてください。


   

 『紀ノ川』
 紀の川によって大いなる特徴づけられた地域の場合、紀ノ川が周辺に住んでいるひとびとに影響をあたえているようです。
紀ノ川の沿岸に住んでいる九度山の豊乃や花にとっては、紀ノ川が氏族の現在、過去。未来を表徴しています。
たとえば、ロシアのポドカメンナヤ・ツングス川の沿岸に住むエペンキ族にとっても川が氏族の現在、過去、未来を表徴しているらしい。川の中流の沿岸に生きている者の霊魂は死後下流にある死者の国へ連れていかれると聞くが、けれども死者の影の霊は逆に上流のほうへ行って大きなテントの中で再生するチャンスを待っているという。しかし、川は氏族の継続に関わるだけでなく、氏族の地域説にも関係するらしい、氏族の地域は山脈や川の流れによって他の氏族の領域から区切られたトナカイ放牧の領域らしい。(Friedrich,1966,p.186-195)
           
                    
   和歌山市からロードバイクで九度山へ向かい13号線の丘を駆け上がると、眼下に紀ノ川が広がる。
   この風景は私の疲れた躰を癒してくれる。Things Will Work Out!と、   2023年6月撮影

  
                     写真の撮影位置は川の右側に背山があり右側に妹山が存在している所で、女側からの展望。


≪・・・・・・豊乃の叔父が紀本の新家を建てて、その息子に川向こうから嫁とった途端、家運が衰え一家悉く死に絶えた話を例にとって、
  「そら妙寺から九度山へ嫁に来たよってあかなんだのや。万葉にある妹背山の歌を信貴さんも知っていよ、背山は笠田の荘にある。
   その向いっ側に妹山がある。いうたら紀ノ川の此方は女子で彼方は男や、新家は逆やったよってにあないなことになったけどの、
   妹山のある岸から背山へ嫁に行けば、なな障りがあるもんで、え」≫

 村瀬説
 『万葉集』妹山、背山を詠んだ歌に歌の意味と異なる考察を見つけました。万葉集紀伊国の背山・妹山は、城山・鉢伏山の二峰から
 なる「背山」がそれであった。
村瀬博士の妹山・背山」へのリンク先です。


  真谷家の次男の「紀ノ川」感

 ・ 生命力
  「おまはん(文緒)のお母さんは、それやな、云うてみれば紀ノ川や。悠々と流れよって、見かけは静かで優しゅうて美しい。やけど、
   水流に添う弱い川は全部自分に包今含する気や。そのかわり見込みのある強い川には、全体で流れ込む気魄がある。昔、今の
   河口よりずっと北にある木ノ本あたりへ流れとったんやで、それが南へ流れる勢いのいい川があって、紀ノ川はそこへ全力を注い
   だんで、流れそのものが方向を変えてしもうたんや」

      

                
     
                  「わしが見込みのある強い川ちゅうたんは誰のことやと思う」 、、、、、さて、どなたでしょうか。
   

 横様の死

  『紀の川』は国民に有名な作品です。その内容は、豊乃から花に嘱託された女紋を子供に託す必然性を理解させる教育であると思いきや、花の代になるとへ と変わりました。ここに家紋にたいして、有吉佐和子さんの伝統を刷新するといったこだわりを見ました。このことは第三部にて彼女がT.Sエリオットの影響を受けているところがあります。そして、彼の言葉を引用しているのをみれば明白です。
           「伝統というものは、前のものを否定し、つぎのものがそれを否定するという形でのみ伝えられるものだ」
 T.Sエリオットの詩へリンク

 また、第2章では、文緒の晋の夭折をはじめ花の親族の死をとりあげていますが、なかでも浩策とウメの長女御園が自殺したこといついて書かれています。この箇所を読み過ごしますと「自殺」と判断されたことに疑問を感じる読者は少ないとおもいますが、有吉さんはこの「自殺」という結論で済まされていた当時の検死のあり方について問題提起していたのではなかろうか。そのことに拘泥するのは同じ体験をさせられた読者だけであろう。

 ≪敬策と花が和歌山に帰って間もなく、六十谷に思いがけぬ不幸が起こった。新池の浩策の娘が、鳴滝川に落ちて死んだのである。十八歳になる御園が、朝家を出たまま戻らず、
  心配するウメと怒っている浩策のもとに、翌朝になって水死体が上がった報せが届いた。
                  
 自殺とは思われず、他殺の疑いも検死の結果は薄れた、晩春の宵、川べりを歩いて、ふとあやまって足を滑らして落ちたのだろうという推測が残った。しかし、鳴滝川は有功村では大字園部(みなし判決)林真澄死刑囚のヒ素事件発生の場所と楠見村を流れる川である。六十谷から離れたこの川のふちを、御園が何故この夜にかぎって歩いたのか、不思議であった≫

 ・・・・・・・すでにこのころから合目的的な「嘱託殺人」があったことを仄めかしています。明治時代の文豪夏目漱石も『吾輩は猫である』のなかでこのことを読者になげかけています。
そして、1999年12月29日が命日の丸谷康政の母もこの世の不条理にたいして問いかけました。
 
    [「いのちの言葉プロジェクト」の冊子内の発言へのリンク 
    全国を駆けた丸谷るみの警察に対するお願いをご覧ください。

 

    花の終末

  祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
 おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。
 猛き者もつひには滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

 遠く異朝をとぶらへば、秦の趙高(てうかう)、漢の王莽(わうまう)、梁の朱忌(しうい)、唐の祿山(ろくさん)、これら は皆旧主先皇の政 にも従はず、樂しみをきはめ、諌めをも思ひ入れず、天下の乱れん事を悟らずして、民間の愁ふる ところを知らざつしかば、久し  からずして、亡じにし者どもなり。

 近く本朝をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼、これらはおごれる心も猛き事も、皆とり どりにこそあ りしかども、ま近くは、六波羅の入道前太政大臣平朝臣清盛公と申しし人のありさま、伝えへ承るこそ 、心もことばも及ばれね。



 
祇園精舎の鐘の音には、諸行無常(=全ての現象は刻々に変化して同じ状態ではないこと)を示す響きがある。
 (釈迦入滅の時、枯れて白くなったという)沙羅双樹の花の色は、盛んな者も必ず衰えるという道理を表している。
 
権勢を誇っている人も長くは続かない、まるで春の夜のゆめのよう(にはかないもの)である。
 
勇ましく猛々しい者も結局は滅んでしまう、全く風の前の塵と同じである。



 遠く中国にその例を尋ね求めると、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱忌、唐の祿山、
 これらは皆もと仕えていた主君や先の皇帝の統治にも従わず、楽しみの限りを尽くし、他人の諌言をも心にとどめず、 天下が乱れるであろうことを悟らないで、人民の嘆くとろこを理解しなかったので、まもなく、滅びてしまった者たち である。


 近くわが国の例を調べてみると、承平の(平)将門、天慶の(藤原)純友、康和の(源)義親、平治の(藤原)信頼、これらは 思い上がった心も猛々しいことも、皆それぞれはなはだしかったけれども、最近の例は、六波羅の入道こと前太政大臣 平朝臣清盛公と申しあげた人の様子は、伝えお聞きするにつけても、心で(想像すること)も言葉で(表現すること)も出 来ない(ひどい)ありさまである。
 


レポート1

 花は己の人生を『平家物語』の前文に相似させて回想していたのでしょう。諸行無常といえばそれで一括できるでしょうが、花の人生は世界的公共事業の戦争が分岐点でした。

                    
                   


  第二次世界大戦の世界中での死者数は6000万から8000万人。

  

  1. ソ連 2,660万人
  2. 中国 1,320万人
  3. ドイツ 690万人
  4. ポーランド 600万人
  5. インドネシア 400万人以上
  6. 日本 310万人
  7. ベトナム 200万人以上
  8. ユーゴスラビア 170万人
  9. インド 150万人
  10. オーストリア 120万人
  11. フィリピン 110万人
  12. フランス 60万人
  13. イタリア 45万人
  14. イギリス 40万人
  15. アメリカ 30万人

民間人の被害者数は3800万人から5500万人。この内、飢饉や病気によるものは1300万人から2000万人。
軍人関係者の被害者数は2200万人から2500万人。
こちらも同じく食糧不足や病気など戦闘以外での死者数を含む。
ソ連の死者数が2660万人と他国と比べて抜きんでて多い。

ソ連は1923年生まれの男性の8割以上が死んだとされている。

      
この結果から判断すれば、ソ連という国の実態が推測できるのではないだろうか。


レポート2

農地改革(のうちかいかく)は、農地をめぐる所有者の変更や法制度の変更などの土地改革政策。農地解体あるいは農地開放とも称する。
特に第二次世界大戦直後の一時期、資本主義圏の東アジア(日本、韓国、台湾)、社会主義のもとで人民公社制に移行した中国、社会主義的要請から実施された東欧諸国などで農地改革が行われた 、これらの第二次世界大戦直後の東アジアや東欧諸国の農地改革は、いずれも当初は小土地所有の散布(形式的小農創出策)という方法がとられた( 野田公夫「農地改革の歴史的意義 : 比較史的視点から」『農林業問題研究』第33巻第2号、富民協会、1997年9月、47-56頁、

特に第二次世界大戦直後の一時期、資本主義圏の東アジア(日本、韓国、台湾)、社会主義のもとで人民公社制に移行した中国、社会主義的要請から実施された東欧諸国などで農地改革が行われた。(野田公夫「農地改革の歴史的意義 : 比較史的視点から」『農林業問題研究』第33巻第2号、富民協会、1997年9月、47-56頁、

これらの第二次世界大戦直後の東アジアや東欧諸国の農地改革は、いずれも当初は小土地所有の散布(形式的小農創出策)という方法がとられた
(野田公夫「農地改革の歴史的意義 : 比較史的視点から」『農林業問題研究』第33巻第2号、富民協会、1997年9月、47-56頁、

しかし、その後、小土地所有による自作農体制が結実したのは日本など一部の東アジア諸国のみで、東欧諸国では社会主義的な大経営化、中国では人民公社制に至る集団化の道をたどった


 日本の農地解放
1947年昭和22年)に起きたGHQ革命の一環。 指示を受けた日本政府が実施したGHQの決定した農地解放政策、支配階級である地主を一掃し、隷属する小作人を自立させた革命。元々、日本の官僚の間には地主小作人からの収奪を原因とする農村の疲弊を打開するために地主制度を改正する案はあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く、実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる
なお、太平洋戦争終結以降アメリカの施政権下となった沖縄県および鹿児島県奄美群島などでは、農地改革は行われなかった。

1945年(昭和20年)10月幣原内閣の農林大臣となった松村謙三が就任直後の記者会見で「農地制度の基本は自作農をたくさん作ることだ」と発言。この時点ではGHQの指示はなく、農林省担当者による農地改革案の説明に対しGHQは"no objection(異議なし)"と答える。法律(第一次農地改革法)原案は松村の大臣就任の4日後には出来上がり、その1カ月後国会への法案が上程された(農林省には戦前からの準備があった)
12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。

農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、237万人の地主から買収され、475万人の小作人に売り渡された。しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった

この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主-小作人体制は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから不徹底であったとされる。

この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条第3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条第3項でいう正当な補償とは市場価格とは異なるという解釈がされ、請求は棄却された。また、元小作人らが取得した土地は、特に首都圏郊外においては住宅地やマンション用地として売りに出されるケースがあり、結果的に農業家の減少も招いた。

レポート3

土地区画整理事業(とちくかくせいりじぎょう)とは、日本においては土地区画整理法昭和29年法律第119号)によって、「都市計画区域内の土地について公共施設の整備改善及び宅地の利用の増進を図るために行われる、土地の区画形質の変更及び公共施設の新設又は変更に関する事業」である。
土地区画整理法自体はドイツ法律やその他の法律を参考に造られた制度であるが、その後は国内で主に発展してきた。災害復興や駅前整備、郊外の宅地造成など多くの事例がある。
ドイツで1902年明治35年)制定のアディケス法の場合、施行区域の35パーセント(施行区域の50%以上を所有する土地所有者が申請した場合は40%)までは、公共用地として無償で公共団体が取得できるものとしていた。

保留地その他の特別の定をする土地の明細