未解決事件 和歌山警察東署「鳥徳ビルに関する事件」


ようこそ

自殺じゃないと言い続けて 20年・・・・

3月11日の大地震で被害に遭われた方々を想うと 目の前の現実に付いて行けず助けられなか
った自分を責め 動く事もできず ただ色の無い景色に漂う匂いが身体に記憶し眠る事も食べる事
もできず 涙さえでない 生きてる事への自責の念に苦しみ1秒1秒 息をすることしか出来ない 
あの時の自分に重なります。でも 1秒1秒 息をしている自分を褒めてあげてください。
今は それだけで 充分です。これからも 苦しい事は これだけで収まらないかもしれませんが
 いつか 人のやさしさに嬉し涙を流す時が来る日もあると信じてほしいと 心からお祈り申し上げ
ます。康政の母


梅原猛博士によれば、
ルドルフ・オットーなどが語る、恐るべき人とは、横死の霊魂は、恐るべく力を持って
人間に祟りをくだす。しかし、その恐るべき死霊は、祀りようによっては、また、大いなる
恩恵をくだすのである。そういう死霊こそ、もっとも祀らなければならない死霊であったと
いえる。しかし、さまざまな偏見や無知のためにその説を喜ばない人もあり、また、さま
ざまな圧迫が降りっかってきたが、私は、それはもはやどうすることもできない真実であ
ると思う。

と、書かれています。我が意をえたりの感がございます、1999年12月の康政の生きていた世の
中の舞台と、安部信三総理の暗殺の舞台を比べてみますと、それは、いずれも日本が律令制度
を日本中に徹底していったマキャヴェリズムがいまだに「職務に忠実」な行政マンたちに引き継が
れてきており、われわれに日本を清き明るき世よとして満足させているような気がいたします。
しかるに、康政の死霊は、いまだにどこかをさまよっていると思いつつ、わたしたち夫婦は、いまを
生きるひとびとの知恵として、僅かなりともみなさまのご参考になればと念じながらこのホームペー
ジを立ち上げてみました。
何卒、拝読のほどよろしくお願い申し上げます。康政の父

H11年12月27日午後2時から4時頃康政を見かけた方、どんな小さな事でも
結構ですので、教えてください。よろしく おねがいします。


とりわけこの靴を犯行現場から我が家に入って洗面器の前に置いていった人間を
ご存じの方がいらしたらお教えねがいます。この事実確認こそ、殺人犯を浮かびあがらせるものです。


ICUで「生きたい」と頑張ってる康政に病院内で「自殺」と決めた書類に署名捺印を強要して来た警察官達。
警察官らは康政が息を引き取ってから一度も彼を見ることなく死因は病死となったまま手際よく火葬された。
康政の左目の張れあがった青あざと涙が今も生命のメッセージを伝えます。

 いわゆる和歌山の一般常識というのは「おらが町」の中で生きることの出来るルールを与えられ生きる人達
のみの常識で、このような人でなければ、和歌山に住めないといった常識である。つまり不人情対決の世である。
 このことは、1999年12月28日、日赤和歌山病院に乱入してきたある刑事の突発的な発言がその常識の意味
がなんたるかを実践している、「いつまでも行政に逆らっているからだ」という発言である。
 私たちの体験から感じたことは、彼ら(行政カムラ)は、上司からの言葉には忠実であり、人民は、刑罰の恐
怖と隣り合わせに生きるもの
だと頭みそを洗脳されている。この一般常識がなく国家は維持できないと思い込ん
でいるようである。
 従って私たちは、行政カムラたちの生きるべきルールを奪っていく、邪悪な心の価値転倒者であるが、彼らの我が
国の律令国家以来長年続いてきた常識という信仰に疑問をなげかけること、また、その信仰を持続しようとする者に
とっては、私たち夫婦は大いなる価値転倒者にほかならない。
 康政の死因は『自殺』にあらずと、いうわたしたち夫婦の主張が正しければ日本の神聖な警官像は瓦解する
であろう。そして、そのかわりに、左目に青あざができるほど殴られ、唇の裂傷痕が見られる康政のデスマスクが
浮上する。
 わたしたちの息子の痛ましい傷痕は、常識的な警官像に慣れた人から見れば、警官たちへの冒涜であり
常識への恐るべき否定であろう。

 邪悪な心の持ち主よ、呪われよ。そういう呪いの声声が良識あるひとびとたちから湧き上がるのは、もとより覚
悟の上である。しかし、わたしたち夫婦は好んで常識を否定しない。真理の必然が、われわれ夫婦を導いてくれる
から、「そしたら、『自殺』ということで」という警官の言葉は、どうしようもない行政カムラの土地区画整理事業完遂
の合目的的な手段として逃れたくない手段であったと鑑みる。
 人間の死に対して真摯に対峙してみますと、

@殺人・事故死のような理不尽な死について、納得がいかない死、

A癌のように人が死を予期し覚悟する時間が許される死

Bわが身に何が起こったのかはわからず、突然に、瞬時に、死を迎えなければならなかった死

このような死の理由が考えられます。これらは一体なにが異なっているのでしょうか、もし大いなるものから問いかけら
れたら、私は躊躇することなくAを選びます。僅かでも死ぬことを受け入れ諦念することが可能だからです
 もちろん、死ねない。死んでも死にきれない。生きたい。なんとしてでも生きなければならないと、あきらめきれない
思いを抱いての死がありますなどが考えられますけれども然しながらこれらは理不尽な死ではありません。納得しな
いまでも死を意識することができます。
 ゆえに康政のような理不尽は死こそ、残酷な死はありません。少なくとも康政の事件はビルの3階から飛び降り自
殺を前提に処理されています。彼は死に至る何万分の一秒間にいったいどうして?と、思ったのではないでしょうか。
 きたいという思いより、いったいどうして?と、問わなければならない、この残忍さ、しかも、康政の死因がほか
でもない土地区画整理事業(小渕恵三内閣)を遂行するための合目的的な手段であると判断したとき生き残っ
たわれわれに課せられた宿題は、康政の気持ちを代弁することです。しかるにこのH・Pを立ち上げました。

2022.11.22  チャイルド デス レビュー CDR
          
 
           2022・11・29旬報社より出版

           「予防のための子どもの死因検証」に掲載される
           
           ”なぜ わが子が死ななければならなかったののか!?”
           ”どこかのタイミングで助けることができなかったのか!”  
           何年たっても その苦しみは変わりません。
           そして 事故でも事件でも被害者の多くが事実を知りたいと  
           苦しんでいる事を 息子を亡くして私は知りました。

           
           この取り組みが 日本でも当たり前のように検証され
           子どもたちの いのちが一人でも救われることを願います。

       
           多くの方々が 考えご尽力してくださった事を心より感謝しています。
 
  丸谷るみが2021から約一年間、フロントラインプレスの益田美樹さんに取材頂きまして
 わが子を亡くした悲しみ、そして、現在社会のシステムに対しての不満を訴えた一冊です。
 るみが、和歌山県知事はじめたくさんの方々にこの本を謹呈いたしました。その中におひと方
 のみ、この本に対するご感想を頂戴いたしました。2023年日本維新の会から県会議員候補
 として立候補された岡本としなが様です。とても誠実さの溢れ出た印象をかんじましたが、
 残念なことに維新の候補の中でたった一人のみ落選!他の候補者は全員当選!しました。
 ここに現在社会の闇が浮き彫りに出た気がします。
すべてが金銭目的の世の中ですね。

チャイルド デス レビューCDRへクリックしてくださいね。新しいウィンドウにて展開します。

資料.へのリンク(VIFM) Jssp(1)-Takisawa(1)pdf

るみの好きな歌集『小倉百人一首』
へのリンク
     父母の いのり掛けたる しらがみは 
          ながれもあつぬ みたまなりけり
                                                              

2020.12.29  肌を刺すような空気は あの日の時間が蘇る 
            丸谷 康政のような 理不尽な殺人が計画され実行されない事を願います
            息子の供養として  

2020.11.28   犯罪被害者週刊全国大会2020  (ハートバンド)
        2009年に講演させていただいて以来 遠方により毎年は参加できなかったけれど
        収まらないコロナ禍による オンラインで皆様のお蔭で 参加でき 第2部でも意見を言うことができました。

2019 9.9 重陽の節句 康政の誕生日に詠んだ詩 父より
             四時関意是重陽
             丸谷長子的誕生
             長子夭折一五歳
             春夏秋冬盡故郷   

2024.1.15 『草原の風』から

 呂母

  徐州の最北に位置する瑯邪軍は、その東部が海に臨んでいる。
  海に近い県のひとつに海曲県があり、そこに酒の醸造をおこなって財を築いた家があった。
 主人が亡くなったあと家の経営をおこなったのは妻であり、この人が呂母とよばれる。呂母の子は、育、といい、
 かれは国内で官途について、「游徼]と、なった。
  游徼は、郷の治安をつかさどる吏人である。ただしこまかなことをいえば、この任命は、県ではなく郡または国が
 おこなうはずなので、呂母の子が県吏、であったはずはないのであるが、なぜか『後漢書』にはそう書かれている。
  この游徼である育が小さな罪を犯した。罪状については、まったく不明である。実家が酒の専売制に抵触したので
 あれば、呂母も逮捕されるはずであるが、そうならなかったということは、別件であったと思われる。呂母にとっては
 子が犯した罪は軽く、たいした処罰もおかなわれないだろうと予想した。しかしながら裁定をおこなう県宰(県令)は、
 「死罪に処する」
 と、のべた。
  呂馬は泣きわめいた。
 「殺人も偸盗もおこなわなかった息子が、なぜ死刑になるのか」
  県宰は法を遵用したといったが、呂母は納得しなかった。県の最高権力者である県宰が誅殺した、とみた。

  子が死刑に処せられた日から、呂母は復讐鬼となった。
  ーーーーーーーー県宰を殺すさなければ、恨みははれない。人に仁を説き、徳行を勧める儒教でさえ、仇討ちを容認
 している。だが呂母は庶人であり、しかも女であるため、官界にいる者を討つことは用意うではない。

                 (中略)

 、、、、、、要するに王莽の政治はわかりにくいのである。善政が、わかりやすい政治をいうのであれば、わかりにくい
 政治は悪政である。呂馬の子を殺したのも、法のわかりにくさである。漢の時代の法では、呂母の子が犯した罪は、
 死罪にあてはまらないどころか、わずかな罪ですむ。
 「やろうぜ、呂母を援けようや」
  現政府に反感をいだいているかれらは一斉に叫んだ。この叫びが、じつは、革命に続がる声であったのだが、彼らに
 そのような自覚はない。呂母は喜び、蔵をあけて、武器をみせた。
 「こりゃ、すげえ。ひといくさできるぜ」
  武器をとった若者たちの」目つきが変わった。
  この数十人が、それぞれ仲間をさそい、同意した者たちが、他の者を誘うという増えかたをしたため、集団はほどなく
 数百から数千という人数で形成された。かれらは呂母に同情すると同時に政府と制度を忌み嫌っていた。数百人が集合
 した時点で、
 「この人数が県内にとどまっていると、吏人に目をつけられる」と、
 恐れ、海岸へ移り、そこから遠くない島へ渡った。その後島へ渡るものがふえにふえたということである。
 「呂母を将軍と呼ぼうや」
 みなにそういわれた呂母は、笑って、
 「よし、わたしが将軍だ」
 と、宣言した。たしかに武器をもつ数千人はもはや兵であり、この集団は師旅 (古代中国の 軍隊 の 編制 で、
五〇〇人を旅、五旅を師としたところから) 軍隊。. 転じて、 戦争 。.
といってよい。呂母将軍を護る勇者たちは自らを
 「猛虎」と、
 称した。
  かれらは機をみて一気に海曲県を襲い、県宰を捕らえた。県宰の属吏たちは上司のために命乞いをした。が、呂母は
  耳を貸さなかった。
 「我が子は小罪を犯した。しかし、死罪には当たらなかった。それなのに死刑になったのは、県宰に殺されたといってよい。
 人を殺したものは、死刑になるのさ。いまさら生命乞いをして、何になるのか」
  呂母は県宰の首を斬った。 庶民である女が県の長官に復讐をはたした。強烈な怨念は、不可能を可能にした。さっそく
 呂母は子の墓に県宰の首を捧げ、島へ引き揚げた。

  この行為は、呂母にとっては正義に仗ったものであるが、王朝あるいは地方政府にとっては、れっきとした叛乱である。
 皇帝である王莽へは、その叛乱集団を形成している人数が、伝聞のなかでふくらんだせいだ、「万」であると報告された。
  叛乱の首謀者が女であると知った王莽は、いきなり怒気をみせず、事由を問うたあと、意外にも、赦す、といった。

  儒教の教義は国の制度を踰えることがある。なぜなら儒教は、べつのみかたをすれば、家族至上主義であり、家族とは
 父母が存在しなければ成り立たないがゆえに、父母がもっとも尊貴なのである。
  皇帝や王がいるので家族があるわけではないという観点から、父母の尊さは皇帝をもうわまわる。儒教の信奉者である
 王莽はそのことを充分に認識しており、呂母の叛乱を正当な個人的復讐とみた。それゆえ赦す、といった。


     兵車行 杜甫

 車はとどろき、馬はいななく  出征兵士の腰には弓と矢 父母や妻子は走って来て見送る
 

 
舞い上がるほこりに咸陽橋も(かすんで)見えない 衣にすがり、地団駄踏んで、道をさえぎって泣く
 
 泣き声はまっすぐに(天に向かって)上り、大空の果てを突き刺す 道の傍を通り過ぎる者が、出征兵士に問えば
 

 徴兵がしきりにあるのです、と言うばかり 
 
 ある者は十五歳から北方黄河を守り ある者は四十歳になっても西方で屯田兵となっている

 

 出征するとき、村長が頭を黒い布で包んでくれる 帰って来れば白髪で、また辺境を守る
 

 遠い国境地帯、流血は(おびただしく)海となるも 漢の武帝は国土を広げる気持ちを今でも捨てない
 

 聞いているだろう 
漢の山東地方の二百州は どこも荒れ果て茨が茂る
 

 たとえ気丈な婦人が鋤(すき)や鍬(くわ)を取っても 
稲は田畑のあぜ道に生え、東も西も分からないほど(に荒れている)
 

 ましてや苦戦に耐える(と評判の)秦兵(長安地方の兵士)は 
戦争にかり出されること、犬や鶏と変わらない
 

 ご老人が尋ねて下さっても 
出征兵士がどうして恨みを申し上げることができよう
 

 ましてや今年の冬などは 
今でも関西の土地(函谷関から西、つまり長安地方)から徴兵は続いている
 

 
県の役人が租税を出せとせいても 租税はどこから出てくるのだろう
 

 ようやく分かったことは、男を生むのは悪いことで いっそ女を生むのがいいと
 
 女を生めば、まだしも隣村に嫁にやれる 男を生んだら、(屍は戦場の)雑草に埋もれてしまう
 
 
ごらんなさい 青海のほとり 古来から(戦死者の)白骨を拾い集める人はいない
 
 亡くなったばかりの兵士の霊魂は怨みもだえ 亡くなって月日のたった兵士の霊魂は泣いている
 
 空が曇り、雨がしとしと降るとき、(聞こえるのは)戦死者の魂がむせび泣く声


            2024..1.18                                   獻給我的妻子和兒子  光生 書




 

2019年
UN Women(ユーエヌ ウイメン)「ジェンダー平等と女性のエンパワーメントの国連機関」の
SCGI(セーフティーズ・グローバル・インシアティブ)「女性と女児への暴力のないセーフティ世界計画」
に堺市は参加表明し、「すべての女性や子供にとって安全安心な町づくり」を目標に様々な取り組みをしている
その一つとして数年「生命のメッセージ展」を開催しています。


「誰もが安心して暮らせるまち堺へ」

わが子を横死したrumiの叫び声を是非ともお聞きください。
YouYubeビデオ
新しいウインドウで再生します。(最後のほうに出演しています)

2018年 www.city.sakai.lg.jp/shisei/jinken/.../jigyoannai/.../inochi-70sirasagisai.html

2017年の開催は国連にも報告されました。
      大勢の来場者感想文からは 生きてることへの感謝、被害者への理解、安全運転への自覚
      そして もっと子どもたちにも伝えてほしいなどなど ニュースではわからない身近な問題として
      心に留めてくださっていました。

      私たちは 亡きメッセンジャーたちのいのちが未来を生きるいのちに役立てられ いのちの尊厳が
      尊重される 健康なこころづくり まちづくり 社会づくりを願っています。
      そして 被害者の痛みや苦しみが救われることを願っています。

2016年 和歌山刑務所にて 矯正教育として 手づくりの紙芝居をしました。


2015.9.9(康政の誕生日に)
  「なみだ」
あかつきに 立ち昇る霧の神々しさ・・・・(誕生)・・・よろこびの涙
黒雲広がるいなびかり 降りやまぬ雨 あめ・・・(別れ)・・・失意のなみだ
静かに佇む木々におふる露・・・・(現在)天から降ったあなたのなみだ?私の身体からにじみでたなみだ?


在りし日

 



 

                         
 

               「生命のメッセージ展」IN和歌山            

              2004年10月9日(土)〜10日(日)
              和歌山県和歌山市にて開催 致しました。

「生命のメッセージ展」IN和歌山での遺族の声が、法務省から矯正教育に役立てたいと依頼を頂き
被害者の声を伝えたいと言う康政の思いが一つの形になったことを喜んでいます。
和歌山開催の詳細は このページ下の「生命のメッセージ展」をクリックしてください。

 

炎の女丸谷るみ闘病生活の記録



発端
2021.令和3年  3.1 伊奈胃腸科で診察

           3.2 お尻から出血したので 和歌山県立医大へ行く 柴田先生「盲腸切ったことある」「・・・・・?」

           3.5 三谷Dr. 「ストーマにしましょう」と強く言われたが「元に戻してほしい」と言う屋や否や、松田Dr.田宮Dr.が横から出てきて
              OKしてくれた!よかつた!三谷Drに「あなたがして下さるのですか?と聞くと、「私はしませ隣に居る先生です」との事で、
              「松田Dr来てくれた。本当に感謝だ」そして、2022年2月3日第2回手術。永野Dr.に感謝だ」

              ロボットで手術してくれるのは年の若い人、体力のある人など手術に成功率高い人でなければ中々使ってくれないようだ。
              ありがたいことだった。

              康はマット5万円もするの買っておいてくれたり、Dr達へのお礼、第1回、第2回とも、
              パジャマ、おむつ、パット、ストマ―に関わる薬、入院中には病室へ来てくれたり、コロナ中でなかなか入院さえ出来ない中で
              中々使ってもらえないロボット、手縫い、早期の入院と、どれもこれもあるはずのない治療介護を受けた。
          
              康の存在は大きい! 何よりも誰よりも幸せになってほしいのに、パートナーを探す努力が足らないんだ!

           と、書いてあった2021年3月22日〜2022年2月3日の間の記録を見つけました。


2021.令和3年 3.1   伊奈胃腸科から和歌山県立医大を紹介される

          3.22  和歌山県立医大付属病院消化器外科で直腸の摘出手術をうけストマ―(人口肛門)を付けるが肛門を残す

          4.13   娘の「ゼローダってそんなキツイ薬やないで」の一言で、ゼローダのモルモットになる 体重44.5s

          4.24   ゼローダを5.月7日まで服用させられる
   
          5.15   ゼローダを6月4日まで服用させられる (娘の手前頑張る) 体重44s

          6.26   ゼローダを7月9日まで服用させられる 体重44.5s

          7.10    眩暈のためゼローダを休む

          8.7    ゼローダを8月20日まで飲む  体重48s

          8.28    ゼローダを9月10日まで飲む  体重49s

          9..18    ゼローダを10月1日まで飲む  (肛門より粘液緑色から茶色のが出だした)体重45s

          9.15    マキクリニックで吐き気止めの点滴をいれる (足痛続く) 体重47s

          9.30日   ゼローダを11月18日まで飲む 体重47s (肛門からタンのようなものが出た)

          11.26日   内視鏡検査を希望する

          12.5日  イオンモールにてミニメッセージ展開催 康政のオブジェ後で由美子さんが新幹線で持ってきた
                  共子さんとお茶をする



2022. 令和4年 1月1日  「今年はどんな年になるんだろう 2度目の手術後はどんな生活になるのだろう M,Drに感謝!

           1月14日 手術の為の検査 (レントゲン、心電図、採血、心電図、肺、尿、etc.
(立ちっぱなしや冷えると肛門が痛くなる)

           1月29日 お墓参り

           2月1日  医大入院 主治医 永野翔太郎、中村有貴氏 ナース 西川 糸野さん

           2月3日 手術日 手術後 永野dr.に夫からの手紙。

           2月10日 退院

           2月18日  消化器外科受診 永野Dr.

以後、肺に癌が出来たと言って、肩から点滴を入れるための手術を受け、48時間点滴などをおこなうが、るみは益々弱っていくことになる。
その資料を康が持ち去り、「知らん」で通している。「沈黙は共犯者」と云い聞かせても「知らん」。


2024年 2月8日 丸谷 るみ  直腸摘出にて永眠。 3回目の手術のあと、「お父さん、3回目の手術のとき 手術室に一緒に入って 
出たのも同時だった 同じくらいの身長の男性を探して!」

 
2月12日 丸谷本家の菩提寺法蓮寺にて葬儀の際には
       たくさんのみなさまのお参りにお礼申し上げます。

 




看取り屋の石田医師曰く、「ここまで頑張った方はじめて」と言わしめた、るみの最後のメッセージ」

       発 願 文

 願わくは弟子等 命終の時に望んで、心顛倒せず、心錯乱せず、心失念せず。 身心に諸の苦痛なく、
 
 心身快楽にして、禅定に入るが如く、証衆現前したまい、仏の本願に乗じて、阿弥陀仏国に上品往生

 せしめたまえ。彼の国に至り巳って、六陣通を得て、十方界に入(かえ)って苦の衆生を救摂せん。

 我が願も亦是の如くならん。発願し巳んぬ。至心に阿弥陀仏に帰命したてまつる。

    
 あなたは 
0413881

昨日: 4 今日: 10

 人目の訪問者です。(2000.8.25から)

生きる

marutani yasumasa

                  

写真 丸谷康政

                                               
 康政の和歌山市立城東中学校卒業アルバムの写真です。
  私は卒業写真を見ながらポロポロ涙をながしました。
 けっして演技してできる笑顔ではありません。
  康政は土地区画整理事業の権力闘争とはうらはらに学生生活を楽しんでいたようです。
 ただ、この笑顔は中学3年生の冬12月27日に何かに脅かされたような表情に変化しました。
  
 城東中学にいままでこのような笑顔を見せ卒業アルバムに登場した子供さんは、
 卒業アルバムの中にはたして何人いたでしょうか。
  
 しかし、家内の身内からは、「何か隠し事があるのじゃないだろうか」、 
  「康政の良いことばかり言わんと陰に隠れて悪い事やっていたそうだ」との発言を拝聴しました。
 何も隠すようなことをしていないからこそ、屈託なく、自然ないい顔なのである。
                                                     
 あたかも独裁権力者のような表情が硬く、暗い顔であるのは、
  人殺しを含め、後ろめたい悪行を積み上げた結果が顔に表れるからです。
                 
 これが人相というものでしょうか、そんな人は笑えません。
  康政の笑顔は人間として生きた証しなのです。
       

               

       「生きる」

丸谷康政 15歳 Yasumasa Marutani
15歳の息子 丸谷康政が死んでしまう!と言う恐怖といったい
息子に何が起こったのか信じられない26時間の出来事でした。

康政はICU(集中治療室)の中で”生きたい”と精一杯頑張っ
ている時、消毒用エプロンも付けず警察手帳も持たない6人の私
服の警察官が調書に署名、捺印しなさいと言ってきました。
ICUにずかずかと「土足」で入り込む非常識な警察官
「それでは自殺ということで」と最後のむごい一言・・・・
私はこの残酷で冷血な警察の言動 行動を忘れる事ができません
「康政は死ぬ前に警察の書類で先に殺されてしもたわ」
それが私の感想です。
命より「上司の命令だから」 「仕事に忠実でね」と言う警察官
後で分かった事ですが 警察の書類には言った事とは全く違う言
葉が記入され 救急隊の書類にも私は会ってもいない 見てもい
ない救急隊員との会話文が記載されている事が判明しました。
息子のケガの状態は警察官が言うビルの3階から転落したものとは
思えないものでした。司法解剖もしてもらえませんでした。
「なぜ してくれなかったのですか?」と聞くと「警察は24時間
しか権利がないのです。お宅の息子さんは2時間オーバーして生き
たからです」と説明されました。
そんな納得の行かないたくさんの疑問を再捜査要望書にまとめて
提出しましたが、1年余り経った今も警察からは何の連絡も返答も
ありません。

この様に息子を亡くして初めて、被害に遭った者が警察の心無い
捜査で真実を知る事ができない現実を知りました。
私は今もICUで見た息子の涙を思い出す度、心がつぶれそうな
思いです。真実が解らないから、今も心はあの日から進めない。

                              丸谷康政 母
“To Live”

Yasumasa Marutani 15 years old


“I feel mortified…. Behavior of police officers at the hospital has 
come back, whenever I recall the moment my wife and a daughter have 
sent my son off as they have placed the lunch box into his coffin.”

  While my son struggled to live in ICU room, 6 police officers 
without police credentials came in and said “Here’s a record of 
investigation. Please sign and place a seal.”  We refused their 
request, and then they told us that it should be a suicide case, and 
left the hospital.

  “Yasumasa has been killed upon the face of the document even he is 
still alive.”  Even now, I cannot forget that fear.

  As having observed a puffy bruise on his left eye, nose breeding and 
clamped lips, those could not be caused by jump from the third floor 
which was reported by police department. After his death, the 
explanation from the police department regarded the incident as a 
suicide case though no picture had been taken or no investigation had 
been performed.

   With False report, there were no eye witness, no suicide note, no 
autopsy and no anatomy and when we made plea for investigation, police 
officers told us strictly that they had judged the case by instinct 
and experiences.


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PJニュース

野球少年丸谷君の「飛び降り自殺」は、警察捜査の怠慢か

【PJニュース 08月31日】− 昨今、事件における警察の初動ミスや警察捜査の怠慢が問題視されている。今から約7年前の1999年12月28日、和歌山市内の中学に通う15歳の野球少年、丸谷康政君は、自宅近くのビルから転落し、病院に運ばれた後、死亡した。管轄の警察は、丸谷君の死を「ビルからの飛び降り自殺」と断定した。しかし、丸谷君のご両親は、息子は「自殺なんかじゃない」と、事件から7年経過した今も、訴え続けている。

 丸谷君の死を巡って、警察の初動ミスや面倒だから捜査をしたくないという警察の怠慢などはなかったのだろうか。記者は昨年8月、丸谷君のご両親に、息子さんが死亡した直後の思い、息子さんが死亡された後に遺族として起こした行動などについて取材した。今回は、丸谷君が死亡した直後の警察の初動捜査の実態について、ご両親に当時の状況を聞いてみた。

 −事件当日、誰から息子さんの死を「自殺」だと聞かされたのですか。
 「息子が救急車で病院に運ばれ、ICUで医師が治療にあたってくださっているときに、警察手帳を持たない6人の警察官たちから、『自殺』を認める書類に署名捺印を要求されました」

 −そのときは、息子さん、医師にICUで治療してもらっているときですよね。
 「そうです。まだ、息子は生きているときに、『自殺』としての調書をとられたのです」

 −拒否はしなかったのですか。
 「拒否をすると、息子の着衣を貸してほしいと言われました。なぜ、自殺と言う書類が出来あがっているのに着衣が今頃必要なのですか。着衣を見るならこの場で見てくださいといい、警察官たちは、私の要求を一旦、了解してはくれたのですが、結局、息子の着衣の入った袋を持って、車で走り去ってしまいました」

 −警察官たちが持ち去った息子さんの着衣は、その後、遺族のもとに、返還されたのですか
 「はい、返してもらいました」

 −息子さんの治療にあたった医師からは、何か説明を受けましたか。
 「医師に『先生、殴られたキズと そうでないキズと見分けられませんか?』と訪ねると『警察がビルの3階から転落したと言っていますから』と、私の質問には、まともな答えがかえってきませんでした」

 −息子さんは12月28日にビルから転落し、治療の甲斐なく死亡されたのはいつですか。
 「息子は翌日の29日、息を引き取りました。死因は『病死』となっています」

 −死因が病死とは、死体検案書の死因の項に病死にチェックが入っているということですか。
 「死体検案書の文字を二重線で消し、死亡診断書となっていました。死因の種類は@病死及び自然死に丸印が入っていました。死因の原因は脳挫傷、頭部打撲です」

 −司法解剖はしなかったのですか。
 「司法解剖はされませんでした。警察の説明によると、司法解剖しなかったのは、『警察は24時間しか司法解剖する権利がない、息子さんは2時間オーバーして生きたから』と言われました」

 −通常、警察は死体検案時に、死体の写真を撮りますが、その写真を警察から見せてもらうことはできましたか。
 「警察は、死亡した息子をみていないし、写真を一枚も撮っていませんでした。私たち遺族が撮った息子の腫れた青アザや、血のついた顔写真を見せると、警察は『写真を撮っていないので、1枚くれませんか?』といわれました」

 −ご両親は、警察に息子さんの写真をあげたのですか。
 「いいえ。生きてる息子に死亡を認めさす警察を信用できませんでしたからあげませんでした」

 −治療にあたった医師には、その後、詳しい話を聞く機会はあったのですか。
 「3年半経ったころ、医師と話しをする機会がありました。もっとも、何度も面談をお願いして、一カ月かかって、やっと話しを聞くことができました」

 −医師と話をして、何か、新たな事実は分かりましたか。
 「3年半たって出てきた息子のレントゲンの名前は『A』となっていました。事件直後、レントゲンを見ながら『先生、この首の後ろから脊髄に向かって突き刺さった針はなんですか?』と質問したレントゲンがなかったので、『あのレントゲンはどこにあるのですか』と聞くと「そんな物は初めからありません、異議があるのなら正式な手続きをしてから来てください」との事でした」

 −事件直後の息子さんのレントゲンを再度、見せてもらえなかったのですか。
 「見せてもらえませんでした。でも、その時、医師は、今まで見せてくれなかったレントゲンを、たくさん出してきました。月日が過ぎても医師があのレントゲンを隠さなければならない理由を考えると、警察への度重なる不信が確実になって行くばかりで、体が固まって動けなくなってしまいました」

 −事件から7年経過した今、警察や医師に対する思いは、どのようなものでしょうか。
 「現場に立つ人の気持ち次第で、どんなに医学や捜査科学が進歩しても私達の所にまで届かず、真実が捻じ曲げられてしまうことがあるのだということも、わかりました」

 「息子は、歯型が残るほど くちびるを噛み締めていました。くちびるの状態から、息子がどんな恐怖や痛みに遭ったのかと思うと悲しみが募るばかりです。ですが、ただ、単に悲しいだけでは済まないことを、息子の死を通して出会った私たち遺族と同じ体験をした被害者から、学ばせていただきました。遺族の主張は、いつまでも訴え続ける必要があると思っています」【了】

H.11年(1999年)12月29日                   
息子、丸谷康政(15歳)が亡くなりました。            
警察からは「ビルの3階から飛び降り自殺」と言われましたが 
息子の体の状態、状況からは あまりにも納得できないのも 
でした。ICUで治療中の息子に対する警察の行動に疑問を  
持った私達は この事件の真実を追究する為 そして この 
事件に関わった警察官の人達に「もっと命を大切に扱って  
ほしい」と言う思いを込めて また たくさんの方々には    
自分の大切な人を守る為に この「鳥徳ビルに関する事件」
を役立ててもらえる事を息子、康政の供養と思い このHPを
開きました。    
「自殺」とされましたが・・・・
生命のメッセージ
生命の手記
生きる 「わが子とともに歩いた道」
有吉佐和子文学
『花岡青洲の妻』『恍惚の人』
地唄
江口の里

孟姜女考

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