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   『落語x文学』 【作家寄席集め】 出版記念パーティー 2023.6.17 (土) フォルテワジマ
 

 最近、コロナ感染者は以前と比較すると益々増えてきているのですが、総理大臣がマスクを取り外すや否や、右に倣えは日本民族の習性なのだろうか、、マスクを外しての会話が目立ち始めました。しかし、コロナで3年も経過したとは思えないほどの恩田会のメンバーの集合はただただ驚愕するばかり、これから恩田先生の指導のもと読書会を進めるにあたっての勇気付けを兼ねて関西を代表する芸能界の皆様が応援に駈けつけてくださいました。とくに桃山町の大スター文福師匠の新聞読河内音頭恩田節はとても即興だとは思えなくて、幾日も前からこの日にと、試行錯誤を繰り返し作っていたと考えられる傑作であり、そして、七つの膝を八重に折り精魂こめて血を吐くまでも務めてくださいました。ほんとうにうれしく思います。また、コロナ菌がだんだんと希釈されたのか、はたまた集団免疫ができているのかわかりませんが、みなさまのコロナ菌に対する恐れはすでに払拭されたようでした。また、尾花市長も駈けつけてくださり、文福師匠の河内音頭に「えんやこらせ〜の、どっこいせ」。このような親睦会は恩田先生あっての物種です、幸福感を満喫できました。加えて恩田会のみなさまに対して「読書会」へ参加する益々の勇気をくださいました。

   

             【尾花市長有吉記念館を語る】
 


 『こんにちは母さん 9月1日公開

     2003..6.26日 p.m2:00 有吉佐和子記念館1Fサロンに於いてドラマ『24の瞳』中「にっこり笑顔の志願兵」の役柄で登場された山田洋二作品の照明:土山正人(和歌山市立西浜中学出身)様が講師に招聘され故渥美きよしさんや山田洋二監督などの想い出話をきかせてくださいました。司会の恩田館長からの問いかけに一言一言丁寧な洗練された標準語で堂々と答える様子にさすが全国区の紀州人であると感じさせられました。加えて、来場者のみんなひとりひとりにに横浜名物のおいいしいお菓子を手土産に持参された気の遣われよう”みのるほど頭を垂れる稲穂か”と感服の体、お見事でした。

     

『芝桜』
 昭和44年『週刊新潮』 昭和45年4月


第一章 白米が一升五十銭になって全国的な米騒動が起こっている時代

  正子 阿茶丸(雛妓おしやく名)「母親が早く死んだところへ、父親が大きな借金をして自殺」49p
 「正子は性急なのである」 「雛妓おしやく」 「掬えないと分かっていても大きい金魚を追うのが趣味」 「鴇色ときいろの芝桜は今から水をやっても間にあわないのではないかと心もとなく思うほど細くつぼんで凋れきっていた」
 「花いじりをして心も和やかなものとなる」 「芝桜の代金も正子が払ったのだ。芝桜の糸のように細い根がやがて土の中に埋まった金魚の精気を吸い上げるのではないかと思うと、正子はしばらく言葉をうしなった」
 「一」

 「午前五時、どんなに夜が晩くても、この時間には飛び起きて、清元の稽古には出かける」「人目のある道を、背中にぴったり貼りついて歩いてくれた蔦代の親切が、まるで命の恩人のように有りがたく思えた」「金太郎」「津川家が 承知している相手なのだから、正子が抗える客ではなかったし、無理無体なことは何一つしない筋目の正しい客がついているというのは、正子にとって幸運以外の何者でもない、、、、、、そこで、初潮を見て、女になった。正子は、 幼いながらも覚悟をしなければならないところへ来ていた」 「理由も分からないのに正子の負けん気が鎌首を持ち上げてきた」41p「父親に対して、虚栄心の強い、意志の弱い臆病者だったという批判を懐き、母親については、生  きていながら娘を芸者に売りとばすなど、人間の仲間入りもできない女だと思っていた」50p「三」「槇村に歌舞伎役者が来る。それも当時全盛の河内屋が、」65p「四」「芳沢仙七が恋しかった。逢いたかった。これは恋に違いない 、と思った」「六」「江藤画が洋行している間、正子は芸者にとって旦那の留守というものがどういうものであることかということを知らされて、目から鱗が落ちたような気がした」96p「仙七兄さんは帰ったのか。」「七」「仙七兄さんと
 較べるとどうなんでしょうねえ」124p「八」「仙七の手が触れた左の腕は、誰にも当分は触らせまいと正子は決心していた」「だけど本当に何もなかったんだから、何もないんだわ。お蔦ちゃん信じてよ」「九」「浮気お印は小さいダイ ヤなんですね。一号から二号、三号と順にダイヤモンドの粒は小さくなるんですか」190p「一緒に雛妓出たんだから、一緒に一本になりたいわねえ、お蔦ちゃん」165p「十」「阿茶丸はら梅弥に」「十一」「お姐さん、お蔦ちゃんはそ んな悪い人じゃありません。私はお蔦ちゃんと一緒じゃありません。あれはお蔦ちゃんが私をかばってくれたんです」「十三」「私が待合の勘定をもてば仙七さん来てくれるかしらん」「十四」「祖母二人と祖父たちが、正子の父親が 残した借金の後始末の他に、祖母の生活費と、その面倒を見ている祖父と祖母に礼金として何がしかの金を支払えというのである」「十六」


 蔦代
 蔦丸 「大工の子に生まれた。父親(夫)に捨てられた母親は、生きて行くのに器量よしの娘を最大限に活用するのに、芸者にするという方便を選択」50p
 「ねえ、どうオ。一つだって花が凋れていないのよ。こんなに根本から枝先まで、びっしり花をつけて一度に咲かせるなんで大層な丹精だわよ見事だわえ」 
 「お墓を作ったげようと思ってね。金魚のお墓」 「正ちゃんは小学校をちゃんと出て字が読めるから分からないのよ。字の読めないものには、書くのも読むのも、そりゃ苦労なんだから」「阿や八さんに叱られたら、新聞紙の身代わり だと思えばいいのよ」「蔦代はいくら叱られてもおしろい刷毛をしつこく使って紅も黛も色濃くさした」 「花のお墓よ、いいでしょ、金魚らしくって」 「一」
 「正子より三十分も早くに起きると、近所の明神さまに詣でる」「後ろから蔦代が駈けてきて、ぴたっと正子の背に貼りついて歩き出した」「正子の汚したものを摘み洗いして、それをひろげて干しているところだった」 「不見転(みず  てん)」43p 「津川家に十円でもかりれば、返すときは五十円にもなってるわよ。牧村で受け取ったお金には利子なんぞつかないし、返さなくていいのよ」49p「親孝行、早起き、信心深く、花を愛す」 51p「三」「正ちゃんは何をやっ たって良いんだけどサ。私だからいけないんだろ」62p「四」「私は正ちゃんより苦労をしているからさ、私は一日だって早く芸者をやめようとしているからね」98p「代筆させておきながら、蔦代は悠々たるものだ。お座敷へ出ると、こ の蔦代が正子の家来のように見えるのだから世の中はまったくおかしい」100p「私はあなたを恋して候」117p「正ちゃんは首ったけなんだもの、ねえ」「どうして正子が仙七を好きで心の中でもうかなり思い詰めていることを蔦代は  知っというのだろう」「八」「お姐さんは派手にやりたいのよ。私は一本になるにも旦那がしったれだから、あ姐さんの思うようにできないからさ」「十」「さてと、ここで長居は無用よ、正ちゃん、お姐さんの前で私が弁じるから、まかし といて頂戴」「十三」「あのダイヤモンドを5百円で買い取ることにしてさ、、、、、、」「十四」「男なんて信じる相手じゃないわよ、正ちゃん,,,,,,」「十六」ガマ、「正ちゃんが傍に寄ると臭いってたけど、あの人腋臭があるのよ。私もびっ くりして息が詰まっちゃつた」「私、あの、大原っていうのと浮気してみたいわ」「十七」「旦那が落籍して下さるって言うんですけど、」「蔦代がかげ部屋をまわる芸者だということはもう土地では有名なことだったのだ」「長い間お世話 になりました。正ちゃんは一番の友達だったんだから、この後もおつきあいをさせてちょうだいねぇ」 「十八」

 津川の阿や八姐さん
 「蔦代には気をおつけ」「土いじりなんて芸者のすることじゃありませんよ。指が荒れるじゃないか。呼んでおいで」 「津川家の阿や八姐さんといえば有名なやかまし屋だ。芸者たちに躾のハゲシイ厳しいのを売りものにしている」
 一層いらだたしい思いでいた。「いいじゃないか、お金で縁が切れるものなら、あんたを生涯あてにする肉親をもたないだけでも気が楽ですよ」阿や八の方はひどく朗かに割切って、言われるだけの金額をぽいと投げて、正子の戸籍
 を阿や八の家に移した」「十六」

 「一」
 「聖天さま・成田さんを信心している」 「一層いらだたしい思いでいた」「二」「だから李下に冠を正さずと私がさんざ言っといた「マッピン&ウェップのダイヤモンドは阿や八が預かることになっていた」162p「十」

Mappin&Webbは英国に本社を置くジュエラー(宝石商)です。
1897年にはビクトリア女王より「王室御用達」の認定を受け、今でもMappin&Webbの職人が英国王室のクラウンジュエラー(王冠を作成する職人)として任命されています。
現在はジュエリーが中心ですが、もともとは銀器工房として有名でアンティークの世界ではたくさんのシルバー製品が残っています。多くの英国のジュエラーが英国内のみの展開にとどまっているのに対して、一時期は国際的な展開をおこなっていた英国で最も成功した世界的なブランドです。「でも私はいいんです。ダイヤがなくたって一本になればそれで有りがたいんですから。正ちゃんだけダイヤモンドはめて頂戴な。私はいいのよ、正ちゃんの気持ちだけで」「お姐さん、お蔦ちゃんにもはめてあげてください。でなくちゃ私一人派手なことしてお茶屋まわりはできません」 「正子はただ三カラットの石にこだわり続けていた。この石が、まるで田舎の沢庵石のように正子に重圧を加えている。その夜の夢で、正子はたらたらと汗を流した」「十一」「それが奥さんより大きいっていうダイヤモンドかい」 「大学教授の抱月が須磨子一人のために妻子も名誉もなげうったからこそ、須磨子も後を追ったのでしょう」 「昨夜の蔦代の言葉通り、仙七にずっと前から恋こがれていたのがわかってくる」「十二」

島村 抱月(しまむら ほうげつ、1871年2月28日明治4年1月10日〉- 1918年大正7年〉11月5日)
『早稲田文学』1906年(明治39年)1月に「囚はれたる文芸」を発表、1906年坪内逍遥とともに文芸協会を設立、2月17日芝紅葉館で発会式、「妹背山」「沓手鳥孤城落月」「新曲浦島」を上演。『早稲田文学』1908年1月に「文芸上の自然主義」を発表した。1909年(明治42年)には協会附属の演劇研究所において本格的に新劇運動をはじめる。しかし1913年(大正2年)に妻子ある抱月と研究所看板女優の松井須磨子との恋愛沙汰が醜聞となったことで逍遥との関係が悪化。これで抱月は文芸協会を辞めることになり、須磨子は研究所を退所処分となった。同年、抱月は須磨子とともに劇団・芸術座を結成。翌1914年(大正3年)にトルストイの小説を基に抱月が脚色した『復活』の舞台が評判になり、各地で興行が行われた。須磨子が歌う劇中歌『カチューシャの唄』はレコードにも吹き込まれて大ヒット曲になり、新劇の大衆化に貢献した。1915年(大正4年)、須磨子とともにロシア帝国ウラジオストクを訪れ、須磨子とロシアの劇団との合同公演をプーシキン劇場で行い大好評を博した。しかしその成功も束の間、1918年(大正7年)、抱月は世界的に大流行していたスペイン風邪に罹患し、さらに急性肺炎を併発し、東京市牛込区横寺町(現・東京都新宿区横寺町)の芸術倶楽部の居室で急死した。戒名は安祥院実相抱月居士[3]。須磨子は抱月の死後も芸術座の公演を続けたが、やがて抱月の後を追って自殺。芸術座も解散になった。


 小万
(鶴もと)
  「十年もすれば三人組(蔦こ・正子・小万)の時代が来るんじゃないかしらねえ」「二」「小万の旦那というのは近頃のしてきた造船会社の社長で三菱造船の系統」68p「鶴弥、一本の名になって製薬会社の社長が旦那となる」   十七」

 江藤
  「まだ子供じゃないか、本人にその気が起こるまで、僕は手出しをしたくにんだよ」68p「欲心一途だが巧に江藤の虚栄心もついて三カラットのルビーにぐるりとダイヤを巻いたのが用意された」70p「芸者屋の一軒や二軒買える」
  「留守が心配というわけではないがね、あれはまだ子供のことだからね、よろしく頼むよ」「六」「河内屋が死んだってねえ」 「君の恋人は、さぞ力を落としているだろうが、どうだい?」152p「芳沢仙七の楽屋が梅の模様dあふれ  るようになったということを耳にしtからは、ここらでそろそろ正子の浮気をういきらせていまいたくなった」「十五」


 芳沢三延の息子延二郎と弟子の芳沢仙七
  「だけどさ、河内屋は年だし病気だからもうどうだっていいけど、あの仙七まで放っておく手はないわねえ」77p「仙七は役者だが、躾の巌しい河内屋の部屋育ちなので、こういうことに悪ずれした男ではない。その上、根が無口な  のだ。正子を呼ぶまでは知恵が働いたのだけれども、それから先はどうしていいのか、顔を見ただけでしばらく感動している。かれは一九歳であった。正子十五歳」81p「五」「芝居に来たら、お寄りよ」87p芳沢三延は聖路加へ入  院して、いつまで生きられるかは時間の問題だというとき、親の贔屓が子供へそのまま移っているということもあった」121p「振られるのじゃないかと思っていたよ」「十三」
  
. 小森
  かかりは全部小森が以って、しかも負けた分はとられない。「だって勝つまいとしているじゃありませんか」「一番負けたもの同士、罰として接吻することにしない」「ひどいことを言うなあ、どうせ俺はしがない褌かつぎだよ  」「十八」
 

 第二章 まだら猫

 
柳原白蓮 
『芝桜』は白蓮がモデルか。

 東京に生まれた。父・前光が華やかな鹿鳴館で誕生の知らせを聞いたことから「Y子」と名付けられる。母の奥津りょうは没落した新見正興の娘で、前光ののひとりで柳橋芸妓であった。Y子は生後7日目に柳原家に引き取られ、前光の正妻・初子の次女として入籍される。前光の本邸には側室の「梅」(元は柳原愛子の侍女)がおり、子のない梅はY子の引き取りを願っていたが、正妻の初子がそれを阻止すべくY子を自分の手元に引き取ったという。生母・りょうは1888年明治21年)、Y子3歳の時に病死している。
 1910年(明治43年)11月、上野精養軒でY子と九州炭鉱王・伊藤伝右衛門との見合いが行われた。仲介者は得能通要三菱鉱業門司支店長で柳原家とも関わりがある高田正久。Y子は当日、それを見合いだとは知らされていなかった。伝右衛門は50歳、炭鉱労働者からの叩き上げであり、学問はなく、妻を亡くした直後であった。
 Y子はまず家風の改革に取り組み、言葉遣いや家族間・使用人との間の呼び方を改め、朝食をパン食に切り替えた。自分なりの母の務めとして、静子と初枝には最先端の教育を受けさせるべく、自分の母校である東洋英和女学校へ編入学させ、婿を自分の縁続きから世話をした。八郎も後にY子の縁者である冷泉家から妻を迎えている。
 1921年(大正10年)8月、京都での逢瀬でY子は龍介の子をみごもった。姦通罪のあった男尊女卑のこの時代に、道ならぬ恋は命がけであった。Y子は伊藤家を出る覚悟を決めて、秋の上京の際に家出を決行する準備のために、伝右衛門のお気に入りで博多花柳界で名高い芸妓であった舟子を、大金の4千円で身請けして、9月29日に廃業届が出された。おゆうと同じように、小間使いとして呼び寄せて、自分の身代わりの人身御供として舟子を伝右衛門の妾にしたのである。【白蓮事件(びゃくれんじけん)は、大正時代の1921年(大正10年)10月20日、筑豊炭鉱王・伊藤伝右衛門の妻で、歌人として知られる柳原白蓮(伊藤Y子「あきこ」)が滞在先の東京で出奔し、社会運動家で法学士宮崎龍介駆け落ちした事件である。新聞紙上で妻白蓮から夫への絶縁状が公開され、それに対して夫・伝右衛門から反論文が掲載されるマスコミのスクープ合戦となり、センセーショナルに報じられた
 1923年(大正12年)9月の関東大震災をきっかけに、駆け落ち騒動の最中に生まれた長男・香織と共に宮崎家の人となったY子は、それまで経験したことのない経済的困窮に直面する。弁護士となっていた龍介は結核が再発して病床に伏し、宮崎家には父滔天が残した莫大な借金があった。龍介が動けなかった3年間はY子の筆一本で家計を支えた。1925年(大正14年)9月、長女の蕗苳(ふき)が誕生する。この頃、吉原遊廓から脱出した花魁森光子が宮崎家に駆け込んで助けを求めている。労働総同盟の協力を得て、光子の自由廃業を手助けした。その後も娼婦の救済活動は続けられ、1928年昭和3年)にも吉原から子持ちの娼妓が宮崎家に駆け込んでいる。苦界にあった女性たちに白蓮は憧れの存在であった。この活動は暴力団に狙われる危険なものであったが、Y子にはかつて伊藤家でおゆうや舟子ら同性を犠牲にした罪の意識があり、娼婦の救済はその罪滅ぼしもあったと見られる。


一、阿や八六十四歳にて死ぬ。正子二十二歳、蔦代二十三歳再開。蔦代ガマ谷村に三太朗をてこする。 正子に芸者に復活する意志を告白。
 
 
 「、、、、、、お蔦ちゃんがいなくなった次の年かしら、柳原白蓮が御殿を飛び出したじゃないの。私はあのときは感激したり悩んだりだったわよ。華族のお嬢さんにできることが、どうして私に出来ないのかと思ってね。お金と義理に  縛り付けられて、いまだに仙七兄さんとはどうにもならないんだから情けなくなっちゃう」
 ◎筑紫の女王』伊藤Y子 伝右衛門氏に絶縁状を送り 東京駅から突然姿を晦(くら)ませす 愛人宮崎法学士と新生活? 

 「私がいなくなったら困る困るって旦那が言うものだから、それなら三太郎を連れてきたりいいでしょう」

二、蔦代、さくらと改名して津川から返り咲く。鶴弥の対抗心を?き立てる。
 
「そのひとなら津川家の看板貸すだけなのよ。もとの三人組がまた揃うわけだわね。鶴弥さんには特別よろしくって御挨拶するつもりだったわ、朋輩のよしみよ、変な評判は断ってたら消しといて頂戴よ、頼んどくわ」

三、さくらの蔦代はさされた盃はするすると飲み干していたが、昔の蔦代と違って人が変わったように無口で、蓮っぱなことを言うではなく、ひどく取りすましている

四、正代、仙七と夫婦の約束をする。蔦代猫を飼う


五、まだら猫が津川家の飼猫になりすます頃、控えの芸者たちの間に蔦代の勢力が浸透してきていた

 
 「月末になって、お茶屋からまわってくる芸者の花代を締めてみると、蔦代か来る前と後では驚くほど金額がハネあかっている」

 蔦代「純粋だの、恋愛だのって、曲者よ、結婚なんて純粋なんかじゃ続かないんじゃないかしらん。男と女がひとつ屋根の下で暮らすというのは、正ちゃん、本当に妙なものなんだから」

六、仙七、芳沢歌仙を襲名

 ガマ谷村「津川家」の若菜の世話を申し出る。

七、若菜、「津川家」からの暖簾で「若津川」という芸者の姐さんとして門出をする

 正子仙七のため芸者を辞めることにする

八、江藤に花柳界の力が働き困惑、蔦代さくらに旦那がつき「花津川」をもつ

九、正子木挽町の宿屋を物色する

十、歌仙、正子をがっかりさせる

 「芳沢三延の浮気の首尾に、歌仙と正子が手をかす」

十一、蔦代、三毛を迎えに来る

 「小森と卓を囲む」

十二、小森、正代、蔦代徹夜マージャンをする

 「正子、江藤との別れを考える」
 
十三、三延とさくらに正子全身の血を凍らせる


 「正子歌仙との別れをkんがえる」 さくらと江藤の陰謀と推理ししながら下巻へ、

   『芝桜』       下巻 

十四、正子芸者をやめる


 「小森と出会い、小料理屋で会食」

 「なに、俺は役者じゃないから、そう粋にはいかないやね。駆け落ちさ」

十五、正子、江藤に「長い間、お世話になりました」と言う

  
 江藤「槇村、金襴の間」の一幕を正子に喋ってしまう」
 
十六、正子、梅弥を廃業する

 「とにかく正子は小森が好きだった。江藤にも歌仙にもない魅力があった」
 「、、、、、、つまり蔦代には何もやらないのだと、正子は改めて意固地な自分を確かめていた」

  第三章  針千本

一、 大正から昭和へ 小森と離婚し、「喜村」という四谷に五部屋の旅館を買う。正子28歳


 「鶴もとさまと仰言る方がお見えでございます」「蔦代のさくらが、今は待合九重のの経営者になっている」「蔦代が脅迫がましいことを言わないにもかかわらず、鶴弥は自分の弱みを握られているものだから、わが影に怯えて、つい つい蔦代の言いなりになっていたものらしい」 「美美しく飾り立てた鶴弥が、まるで傷ついた極楽鳥のように痛々しく見えたのが,目の奥に残っている。あの驕慢で、ときめいていた鶴代が、泣いて訴えて正子の助力を仰ごうという  のは、よくよくのことだ」

二、正子、蔦代が留守なので祖母と話す。

三、正子、蔦代から猫をもらう

四、蔦代、正子宅を訪問

五、蔦代、正子に賃借人を紹介する

六、弥千代の上手に蔦代が来て、鶴弥、正子という順に雀卓を囲む


 「、、、、、、弥千代ちゃんを養女にもらえないかしら?」

七、正子、鶴弥」蔦代の麻雀目的に気が付く

八、蔦代、正子と昔馴染みの友達となる
 
 「世間はおそろしい不景気だというのに、正子のところは逆に客が増えている」

九、正子、蔦代お揃いのきもので芝居見物

十、正子、山田一人と情事。

十一、鶴弥の旦那が他界。

 「右へ意義へと草木もなびいているのだ。この趨勢は一人や二人の政治家で抑えたりまとめたり出来るものではないよ。たいへんなことになるだろう」

 「井上さんが殺されたとき、もうそういうことを言ってらしたわ。そしたら団さんでしょう?犬養さんでしょう?」

              左から、井上準之助・團琢磨・犬養毅
血盟団事件
(けつめいだんじけん)は、1932年昭和7年)2月から3月にかけて発生した連続テロ(政治暗殺)事件。血盟団と呼ばれる暗殺団によって政財界の要人が多数狙われ、井上準之助團琢磨が暗殺された。当時の右翼運動史の流れの中に位置づけて言及されることが多い。

井上 準之助(いのうえ じゅんのすけ、1869年5月6日明治2年3月25日)- 1932年昭和7年)2月9日)は、日本財政家日本銀行第9、11代総裁。山本濱口第2次若槻内閣大蔵大臣に就任。帝大卒業後に山本達雄の勧めで日本銀行に入行。日銀では高橋是清の知遇を受け営業局長にまで昇進。ニューヨークへの転勤を経て横浜正金銀行に招かれ、のちに高橋の計らいで古巣の日銀の総裁に任命される。日銀総裁時代に起きた昭和金融恐慌の際には高橋と共に混乱の収拾にあたった。第2次山本内閣で大蔵大臣を務めた際は関東大震災の混乱の中でモラトリアムを断行する。経済界でも辣腕を振るい、第二の「渋沢」と称される存在となった。

金解禁(きんかいきん)、あるいは、金輸出解禁(きんゆしゅつかいきん)とは、金貨及び金地金の輸出許可制を廃止して金本位制に復帰すること。あるいは、流通貨幣(略称:通貨)の発行国が、本位貨幣(正貨)に戻ること。日本においては、1930年昭和5年)に浜口内閣によって行われた金解禁[1]を指し、それに加えて翌年の犬養内閣による金輸出禁止[2]に至る一連の経済政策をまとめて指すこともある。日本においては新貨条例制定前から、伊藤博文吉田清成といった金本位制を主張する勢力がくすぶっていた。 第一次世界大戦以前の主要国はほとんどが金本位制を取っており、兌換紙幣を自由に金に交換することが可能であった。ところが、大戦勃発後、金の国外流出が危惧されるようになり、1917年大正6年)9月10日アメリカが金への兌換の一時停止と輸出禁止を発表した。2日後の9月12日には日本政府も「金貨幣又ハ金地金輸出取締ニ関スル件」(大正6年大蔵省令第28号)を出して金輸出の許可制を導入した。だが、実際には許可が出されることはなく、事実上の輸出禁止となった。

團 琢磨(だん たくま、1858年9月7日安政5年8月1日) - 1932年昭和7年)3月5日)は、日本工学者実業家爵位男爵マサチューセッツ工科大学鉱山学を学び、三井三池炭鉱の経営を行う。経営を成功させ、三井財閥の総帥となった。三井合名会社理事長、日本工業倶楽部初代理事長などを歴任した。1917年(大正6年)、日本工業倶楽部を設立し初代理事長に就任する。1922年(大正11年)、井上準之助日本経済聯盟会を設立し、翌年に同理事長、1928年昭和3年)には同会長となり、名実ともに日本経財界の旗振り役となる。また、同年には多年の功労により男爵位を授爵している。しかし、昭和金融恐慌の際、三井がドルを買い占めたことを批判され、財閥に対する非難の矢面に立つことになった。1932年(昭和7年)3月5日午前11時半頃、東京日本橋三越本店寄り三井本館入り口で、待ち伏せしていた血盟団の菱沼五郎から狙撃された。護衛には陸軍の予備役が付いていたが、狙撃時には自動車に乗っており、これを防ぐことは出来なかった。団は銀行の医務室に運ばれて、駆けつけた医師らによる手当を受けたが、同日午後12時20分、死亡が確認された(血盟団事件

 トーマス・ウッドロウ・ウィルソン(英語:Thomas Woodrow Wilson1856年12月28日 - 1924年2月3日[1])は、アメリカ合衆国政治家政治学者。第28代アメリカ合衆国大統領を務めた。ホワイトハウスで連続2期を務めた2人目の民主党の大統領である。「行政学の父」とも呼ばれる。進歩主義運動の指導者として1902年から1910年までプリンストン大学の総長を務め、1911年から1913年までニュージャージー州知事を務めた。1912年アメリカ合衆国大統領選挙では共和党セオドア・ルーズベルトウィリアム・ハワード・タフトの支持に分裂し、結果として民主党候補であったウィルソンが大統領に当選した。名誉学位では無く、実際の学問上の業績によって取得した博士号を持つ唯一の大統領である。ウィルソンはニュー・フリーダムと呼ばれる進歩主義的国内改革を実行した。企業独占を支えた高率の関税を引き下げるなど、改革の意志を鮮明にした。一方、外交では共和党政権時代の「棍棒外交」・「ドル外交」を批判し、「宣教師外交」を主張したが実態は何も変わらず、中南米諸国から反発を招いた。ウィルソン政権下でハイチが保護国となりドミニカも軍政下に置かれた。また、メキシコ革命の際はアメリカ軍を派遣してベラクルスを武力占領し、革命に干渉した。1917年にウィルソンは南北戦争以来初の徴兵を実施し、自由公債を発行して何十億ドルもの戦費を調達した。戦時産業局英語版を設置し、労働組合の成長を促進した他、リーバー法(戦後廃止)を通して農業と食糧生産を監督し、鉄道の監督を引き継いだ。さらに最初の連邦レベルの麻薬取締法を制定し、反戦運動を抑圧した。ウィルソンは1917年から18年にかけて国を覆った反ドイツ感情を奨励することはなかったが、それを抑え込もうとすることもなかったし、その動きを止めることもしなかった。
 
 「この戦争はどうしてもやめさせなければならない。貧乏人ほどそうおもっているよ。自分たちの生命にかかわる事だからね」 [僕は非合法左翼さ」

十二、 犬養政治に対する経済論

  
「一口には説明しにくいが、犬養内閣は金輸出の再禁止でインフレを煽ったでしょう。それが一部財界のドル買いや見越し輸入と結びついて、彼らは大きな利益をおさめたんですよ」

 「注射で眠らせたから、祟りの心配はないわよ、正ちゃんお経もあげてるし」******意味ありげ!

十三、小林多喜二が殺された頃
こばやし多喜二名前:小林多喜二(こばやし たきじ)
出身地:秋田県北秋田郡下川沿村(現・大館市)生誕:1903年10月13日死没:1933年2月20日享年:29歳(拷問)

 「それはいいねえ。雑草で知らぬうちに根をはって、立ち木を枯らすなんて、理想的な花だなあ」
 山田の『中央公論』とは、
  1899年(明治32年)1月に『中央公論』と改題した。次第に宗教色はなくなり、小説や評論などを掲載するようになった。明治末に入社した滝田樗陰は、芥川龍之介菊池寛をいち早く起用した。1905年(明治38年)、『中央公論』に文芸欄を設置。これによって大幅に部数を伸ばした功績から、1912年(大正元年)編集主幹となる。もともと『中央公論』は浄土真宗本願寺派系の宗教雑誌だったが、社長の麻田駒之助から編集を全面的に任された樗陰は、文芸欄や政治評論の充実を図った。すでに大物作家であった夏目漱石森?外や、新進作家であった芥川龍之介を執筆陣に引き入れた。
 文士の書画を集める趣味があり、特に漱石から大量の書画を得ている。樗陰は東大在学中は夏目漱石の講義を受けており、1909年(明治42年)、漱石が大学の講義録を元にした『文学評論』を出版する際には森田草平とともにその清書を担当している[3]。その後も木曜会の常連となっていて、夏目鏡子の『漱石の思ひ出』によると、漱石が亡くなる一年ほど前から、木曜日には毎週、他の門下生が来る前に訪れ、「紙をどっさり持ち込んで来て、自分で墨をおすりになり、毛氈を敷き、紙を展べて、いっさいの準備をととのえて、さあ、先生お書きくださいといったぐあいに、ほとんど手を持たんばかりにして書や絵をお書かせになったものです。(中略)そうして二、三時間の間というもの、ほとんど休みなしに何かとお書かせになるのでした」という。
 
十四、正子蔦代に絶好を言う


 第四章 かぼちゃの花
 
 一、正子四十二、蔦子四十三

 二、降参

 
 「玉音の声は能の子方の声に似ていた」

 三、
 「おっかさんをここに呼ばせてほしいの」


 四.、
 蔦代、正子に山田一人の消息をたずねる


 五、
 木村正子邸にMPの乱入、蔦代正子を名乗る


 六、
 蔦代警察へ正子として連行される


 七、 

 蔦代、留置場から帰る

 八
 西田蔦代さんは、こちらですか安川誠といいます


 九、蔦代、西田と濡れ場


 十、正代、芝桜を見て蔦代を鮮やかに思い出す


 日本自由党(にほんじゆうとう)は、1945年昭和20年)から1948年(昭和23年)まで存在した政党1945年(昭和20年)10月、旧立憲政友会(正統派)系の鳩山一郎河野一郎芦田均らを中心に、旧立憲民政党に属していた三木武吉らも参加して結党。直接の母体となったのは政党解消後に旧政友会正統派の翼賛政治に批判的な議員が中心となって結成した会派・同交会である



  『乱舞』

            
            乱舞が上梓されたのは、昭和42年2月。有吉佐和子が「花岡青洲の妻」で女流文学賞(第6回)を受賞した年である。
            同年に、『婦人公論』に連載した「出雲の阿国」は婦人公論読者賞を、『文藝春秋』に連載の「海暗」は文芸春秋読者賞を獲得した。
            つまり、「乱舞」は、小生の生まれた昭和31年度上半期の芥川賞候補となった「地歌」以来、「紀ノ川」「助左衛門四代記」「香華」等の
            作品を発表し着々と文壇の地位を築いてきた彼女が、
            『花岡青洲の妻』によってひとつの頂点に至り着いたそのみずみずしい筆によって紡がれた作品である。


                             ー春秋ー

                           
                    桜花の巻は、風の曲。
                    弥生なかばの空うららかに、延べも山路も時めきて、実にのどかなる春の色・・・・・・。

                    紅葉の巻は、雨の曲。
                    薗生の籬に香とむる、菊の葉露もいつしかに、おのづからなる秋の色。手染の糸の立田姫、
                    織出綿うさぐさに、人の心の靡くまで・・・・・・。


 
       

      一章 二章 人物紹介


第二京浜国道沿いの、小さな病院はすぐにみつかった。、、、、、、
サンダーバードはもろにトラックに突き当たって鼻先を醜く潰してしまい、濃緑色のトラックの前でシルバーホワイトの瀟洒な車体は痛々しいほど惨めに見えた。
舗道が雨で濡れていたわけでもないのに、タイヤが滑ったとは考えられない。 「止まっていたトラックにぶつけたとはね、まったく訳がわからないな」「荷を下しているときだったそうですよ」
「八時四十二分でしょう。明るいくらい明るいですよ。あの大きなトラックが見えない筈はないでしょう」

 八代目猿寿郎の父親は先代家元である。生後すぐに引き取られ先代の梶川月に育てられた。産みの母とは以来顔を合わせていない筈。大阪で芸者をしていた母は戦後死んでいる。

  
梶川猿寿郎   家元

  梶川寿々    日本舞踊の師匠。稽古が厳しい。当代家元夫人の母親、先代家元の愛人、先代家元の子の御母堂。先年還暦をすました。
            「寿太郎のお弟子さんたちがお香料の勘定をしていたわ」(米小村、美津子同席)
            「梅弥の奴、死んじまえばよかったんだ。家元を殺して、よくものうのうと生きていられるよ」「畜生、美津子は元々は私の弟子なんだよ。
            千春づきの弟子が、なんであの連中の部屋にいるんだ。糸代をやって、呼び出してやろうか」
            
            千春の父が、亡き猿寿郎のの父であり、生きていれば秋子の舅となった筈である。この不思議さえ、寿々の一世一代の知恵と押しが
            招いたものであった。寿々の二人の娘は、姉(秋子)は今の家元夫人に、妹(千春)は先代家元の娘に納まったのである。秋子の夫が
            急死するまで、寿々は得意の絶頂にあった。
  
 梶川千春    踊り上手、30すぎ、ペティという10歳の娘がいる。 
            「私が妹じゃなくて養女じゃないとして、私の踊りと振付と私の弟子を考えて頂戴と言ってるのよッ」

  崎山勤      千春の夫「梶川家の夫婦養子」 
  

  梶川秋子    月) 怜悧な家元夫人。猿寿郎から生母を恋しいとは聞いてない、子供を家元に奪われてからの女の消息を詳しく知る者は東京にはいない筈。
            異母兄弟がいるのかどうか分からず。浜松にいる筈の夫が第二京浜国道で交通事故をおこした理由は女かしらん。
             猿寿郎は風邪一つひかずに突然死んだのだ。何もかも勝手が違って見えた。
            「秋子は、愛を告白しながら、猿寿郎お出現で消えていった崎山のことを邂逅していた、その男性が妹婿として秋子の見近に十年も前からいた」
            物心ついてから、家元の血が流れている妹と、踊り下手の秋子は長い間いつも水をあけられて生きてきた。

  梶川美津子   親兄弟以外の身内といえば、猿寿郎の子供だが、美津子の娘は家元家には出入り皆無、よりて、連絡不可能。

  内弟子順子   順子が告げに来たのと、もう一人の内弟子がハイヤーの来たのを知らせに来たのが同時。

  大垣先生     「誰が乗っていたんです」そっと目礼しただけで、もう触れなかった。

  米小村      (米舟)芸者屋の女将、梶川流古手の名取り。びっくりして飛んできたんでございますけれどもねえなんとか(梅弥)助かりそうなんでございますよ

  梶川寿太郎   門弟中最高齢の現役、先代の弟子。猿寿郎より10歳以上年上、振付の才能では家元に一歩譲が古いものの守り方では右に出る者はないと自他共に許す
            「ただ今から、お家元のご霊前で流儀の跡目についてご相談したく存じます」
            「千春さんが先代のお血筋だというのはまあ今となっては確かめのないことですがそれをとやかく言うのは今更らしいから、これはやめておこうじゃないですか」


  糸代       秋子十三のときから面倒を見ていた古い名取り、美津子より三歳年長。寿々の腹心、

  美杉公栄    美杉流家元

  梅弥        十九歳、「止めないでよ、私も一緒に死にたかった。私も一緒に死にたかったのよ」

       
  
三章
  梶川寿太郎と寿々の対立 

 
秋子にとって寿太郎は年に一度の梶川流大会で顔をあわせる程度なので、彼の肚のなかを知る由はない。
家元、それは流儀の元締であることの他に、財政的にも流れを汲むものから確実な所得を得ることのできる立場である。
家元、それは経済的に優位であり、流儀内に及ぼす強大さを持つ以外にも輝かしい地位を示すことができた。
家元、それはこの近代社会にあっては、じつに不思議な存在といわねばならない。

 
 
寿々の執念    「千春を分家させて、分家の家元にしてしまう。私(秋子)の弟子と千春の弟子を合わせれば、フン、寿太郎や紋之介に負けるものか
            秋子が私について来るかどうかは、今からよく考えたほうがいいよ」

梶川喜船     「私はガクってものがないから、難かしい理屈はわかりませんけれどもねえ、家元というのはしち面倒なことはぬきにして血筋が世襲っていうんですか
           それで継ぐのが一番無難なことじゃないのかしらん、亡くなられた家元は七代目の胤だったんですからねえ」

梶川美津子    「お亡くなりになる七日前に頂いたものでございます。三重子は、お家元のご本名から一字頂いてお家元自ら名付けて下さった名前でしたけれども、
            この名取り免状も、寿太郎お師匠さんのお取り立てにもかかわらず、お家元から直々に頂いた形になっております。
            それは、寿太郎お師匠さんもお承知の上でございました。
 
梶川花       「、、、、、、市田三重子に、梶川花を許すものなり、昭和四十年三月二十一日 梶川流八世家元 梶川猿寿郎、 印 」

梶川秋子(月)   「、、、、、、梶川流はしばらく、今までの通りに続けていて下さい。何も変えてはいけません。しばらく、ほんの、半年の間です」
            
梶川花の存在は、秋子には全く予期しない出来事であっただけではない。そんなこ とを言えば梅弥が妊娠していたことも、小紋が何者かということも、
            つまり、猿寿郎の死後に出現した人々はすべて秋子の予期したことではなかった。だが中で、梶川花という女の存在は、秋子の心を最も動転させた。

   寿也      寿太郎「、、、、、、お家元を産んだお方が、ここにおられる寿也さんです」寿太郎は、最後の切り札を出し、その効果を見極めて、自身を確立していた。
            家元の娘と家元の生母を擁して、彼は事実上の家元
の実権をほしいままにすることができると確信していた。    

  梶川秋子     「千春が家元になるというのは、まったくの筋ちがいです。千春が私を姉だと思っていてくれるのなら、私を助けて、
            新しい家元が一人立ちするまでの補佐役を勤めてくれるのが本当だと私は思っています。それは何も特別のことじゃないでしよう。
            主人がなくなるまで、千春も母さんもずっとそれをやっていたんだから、おなじことを続けていればいいんですよ。
            一番大切なことは梶川流がちりちりばらばらにならないようにすることなんでしょうからね」

             「崎山さん、あなたが千春にも流儀をまとめる責任がることを説いてくれるのでなくては先行で私と千春が決裂することになってしまいますよ」

 

「匂う家元」 華麗な振袖を着た娘が舞扇をかざしてたち、その背後には一人の老婆(寿也)がつつましい後見姿で座っている。「梶川花よ、でかでかと出ているわ。次代の家元だって書いてるわ」

  
          

四章 
週刊誌の記事の波紋 紋之介、小紋親子を成駒屋連れて行き子供を部屋子にする。 月、花、小紋三つ巴戦  計事は蜜なるをもってよしとす、千秋の野心
                  
        【子を産まなかった妻というのは、いったい何なのだろうか。子を持つ女は、妻の座を持たなくても、こんなにも世俗を超越して生きることが出来ていまうのか】
                  
        ・美津子の子どもは、秋子が妻になる前から二人は関係があって、子どもが出来たのは秋子が妻となった後である。
                  
        ・小紋には夫がいて、二人の子どもには明らかに猿寿郎の胤と分かる息子いるという不思議は、秋子の想像を上回る事実である。
                  
        ・梅弥の子どもは前者に較べると、何故か新鮮d、文字通り無垢の生命である。
   
 紋之助      「あないなことを、元締め格の寿太郎のお師匠はんがやんなさるんやったら、わっしらもおちおち大阪で踊ってられしませんがな、
            東京の皆さんも、よほど紐締め直していっかりして頂きとおます」
   
    千春      「でもね、母さん、紋之介さんたちは家元のイの字も口に出していないんですよ。自分の弟子筋の者を部屋子にしてもらう口ききをしただけだと、訊けば言うでしょうよ。
             成駒屋さんは、もともと梅玉さん系の関西の役者なんですから」
             「先夫の子を連れて再婚し、二度目の夫の子を産まない」
   
  小米村      「新富町さん、近々に温習会を出すというお話ですねえ」
 
   寿太郎      「奥さん、いや、この度はまことに面目ない、私としたことが、と言いたいような失敗でした、どうぞ悪く思わないでください」変わり身が早い。

  橋本雅竜     「家元には生前度々会う機会はあったが、あなたは舞台姿だけで、前から一度はゆっくり食事でもしてみたいと思っていたのですよ」
             諦念 道理をさとる心、真理を諦観する心。を持ち合わせた人物。
 
            


五章  秋子、橋本雅竜・橋本の孫・江戸盛造・江戸夫人・小金頼近・小金夫人(雲井いと)・と会食する
 

  梶川千春、江戸さんが後援会長におなりになったそうじゃないですか
  
  内山    NTOテレビ社長、若手財界人、マスコミに顔が売れている。

 江戸盛造  「これは失敗ったな、なにしろ内山が一緒に来て頼むものだから、、、、、、」

 小金井夫人と江戸夫人は秋子の敵なのか味方なのか、さっぱり分からなかったけれども、橋本雅竜、小金頼近、江戸盛造の好意には疑う余地がなかった。

六章    秋子と『月光』ー梶川月のためにー (小金頼近)作

千春の絢爛たる舞台と、屏風二双だけの簡素な秋子の一人舞と、どちらが、会の観衆に印象を灼きつけることができるだろうか。
 


還暦を過ぎたる寿々、『八重霞賎機帯』を一人稽古する..母と娘の恩讐の彼方、



伊藤万治という男は大蔵省の身分の低い役人で女に惚れやすい性格である。
ある時愛知に里帰りするが、その帰りに静岡で賤機(しずはた)という遊女と恋仲になる。
賤機の身請けには莫大は金が必要であったが金を借り、2人は夫婦同然の暮らしをする。
しかし借金返済の催促を執拗に受け、さらに弥右衛門、政次郎という男が横恋慕する。
ハッピー・エンドになるが男にとって都合の良いような結末である。






                             静岡県 賎機[(しずはた)山古墳と馬具


愛知県に住む伊藤万治という男は、明治になり、妻のお峰、妹のお民と共に東京へ出る。
四谷の西方寺という寺の法蓮という僧侶の元に寄宿しながら、大蔵省の低い身分の役人として勤める。

明治12年、暑中の休みで法蓮と連れ立って愛知に里帰りをする。
法蓮と共に行ったのは、万治に女遊びをされては困るという妻の策略であった。

 
里帰りをし、法蓮とともに名古屋の街を見物し、東京へ戻る途中に静岡へ立ち寄った。
ここで万治は二丁町の千葉楼という遊郭に勤める賤機(しずはた)という遊女と恋仲になる。

賤機は22〜23歳の島田髷をしたいい女で、元は武家の娘であった。
賤機はすっかり万治に夢中になり、身請けしてくれないと死んでしまうというが、それには150両という金が要る。

法蓮が1人先に東京に戻るが、もちろん金がそんな大金が出来る訳がない。
静岡の万治には「カネデキヌ」と電報を送った。

 
万治と賤機はお千代婆ァから100両という金を借り、魚屋に居候して二人、夫婦同然の暮らしをする。
やがてお千代からは借金を返せという催促をしつこく受ける。

 
お千代には飯島という親類がおり、その飯島の家に弥右衛門という者が寄宿している。
弥右衛門は、賤機と万治が共に暮らしていることを知っていたのだが、それでも賤機に惚れてしまう。

お千代は賤機に弥右衛門と付き合って欲しいと言い、賤機には300両の金を渡す。
しばらくの間、賤機は弥右衛門の相手になる。賤機はすべては金が目当てだ、必ず帰るので我慢して欲しいと万治に話す。

 
賤機が飯島の家で弥右衛門の相手をしていると、この家で法律を学ぶ書生の山田政次郎という男が賤機を連れ出す。
この政次郎もまた賤機にぞっこんであった。政次郎は賤機に、せめて一夜だけでも共にすごして欲しいと迫るが、いやがる賤機は逃げ出してしまう。

政次郎は賤機を必死に探すが、夜更けになって堀端で首を吊った女性の遺体を見つける。
賤機は自害してしまったと思い込む政次郎。弥右衛門に伝え、警察と共に確認するが、首を吊っていたのは賤機とは似ても似つかぬ女性であった。

それでは賤機はどこへ行ってしまったのか。

 
法蓮、万治の妻のお峰、妹のお民がそろって東京から静岡へとやってくる。
この場に賤機が現われ、お峰とすっかり打ち解ける。2人は東京で共に万治に尽くそうということになる。
またお民の姿を見た弥右衛門は一目惚れし、この2人もまためでたく夫婦になる。

東京へ戻った万治だが、知人・友人の尽力で免職にはならず、長期の休職として大蔵省に復帰することができた。
万治、お峰、そしてお賤と名を変えた賤機は3人仲良く暮らす。

 
明治16年、妻のお峰は亡くなる。万治は大蔵省を辞職し、賤機と共に名古屋・長者町に移って呉服屋を開く。
お賤の着けていた帯は、大層評判になり「賤機帯」と呼ばれたと言う。



梶川秋子 「それなら母さん、一度私のを見てくださいよ。誰に見てもらいようなくて、鏡ばかりでは心細くなってたところなんです」

梶川寿々 「いいともね。私も気にしていたところだよ。小金さんのものだっていうじゃないか」
       「ふふん」
       「いいね。驚いたよ」

、、、、、、寿々の言うことは一々もっともだった。先代猿寿郎の愛を享けながら、女出入りの多い家元h一時も心の休まるときはなかったのだろうと思うと
秋子は寿々の半生を彷彿しながら肯いていた。秋子も妻ではあっても、同じ苦しみを知らなかったわけではない。こういうところで、通いあうものを持つ母
と子であった。

梶川寿々 「千春にこの稽古は見せられないね」
       「秋子は古典は何を出すつもりだい?」
 鏡獅子


その内容は大奥の正月七日の「御鏡餅曳き」の日、そこへ奥女中たちがお小姓の弥生を引っ張り出し、弥生に踊るよう勧める。弥生は最初拒むもしまいには致し方なく、踊りを見せる。
ところが踊るうちに、その場にあった獅子頭を手にすると獅子頭には魂が宿っていて、弥生の体を無理やり引きずりながらどこかへ行ってしまう。
やがて獅子の精が現われ、胡蝶とともに牡丹の花に遊び狂うというものである。獅子の姿は白のカシラに法被半切という本行()の『石橋』に倣った扮装となっている。

「御鏡餅曳き」とは、諸家諸侯より献上された正月の鏡餅を「お舟」と称するそりに載せ、それを御膳所の役人や下男たちが大奥の中で引回し、また引回すにあたって
賑やかな音曲や仮装などの余興を伴うという行事で、普段は将軍以外男子禁制の場所もこの日は御鏡餅曳きとして立入る事が出来た(『風俗画報』)。
獅子頭はその余興に使われる小道具のひとつで、お小姓という御台所に仕える若い腰元が余興として一曲踊らされるというのが『鏡獅子』の場面設定である
(ただし実際の御鏡餅曳きではこのようなことはありえなかったという)。御鏡餅曳きの日に現われた獅子なので『鏡獅子』という。

このお小姓弥生と獅子の精を團十郎が演じたが、このとき一緒の舞台に出ていた胡蝶が市川実子(のちの二代目市川翠扇)と市川富貴子(のちの市川旭梅)で
いずれも團十郎の娘たちである。
歌舞伎では女歌舞伎の禁止以来、女子が男の役者とともに舞台に立つことはなかったが、このときの團十郎の娘たちはその前例を破ったことでも知られる。

弥生が持つ獅子は「手獅子」と呼ばれる小さなもので、これを片手で持って踊る。初演時にはこの手獅子は台に載せ、これを舞台上手の適当とされる所に置くだけだったようだが
現在では上手に祭壇を設けその上に手獅子が置かれる。
また初演の時には
用人という侍ふたりと、「お末」と呼ばれる雑用をこなす身分の低い女中ふたりが最初に出てせりふの後、お末たちがお小姓弥生を上手より引き出しているが、
のちにこれらお末は打掛姿の身分の高そうな老女と中老という奥女中たちとなっている」
九代目團十郎はこの『鏡獅子』を一度しか演じておらず、その後大正3年(1914年)に市川翠扇から『鏡獅子』の振付けを教わった六代目尾上菊五郎が演じ、以後自身の当り芸とした。
六代目菊五郎没後もほかの役者によって演じられ今日に至っている。



小紋の子、正は『山姥』を出す

都で山姥の山めぐりを題材にした曲舞を舞って名声を得た、百ひゃくま山姥(百万山姥、百魔山姥)という名の遊女(ツレ)が、信濃国善光寺に詣でようと、都を出発する。

従者ら(ワキ、ワキツレ)が、その供をしている。一行は、志賀の浦から
北陸道を進み、愛発山安宅、砺波山を経て、越中国越後国の国境にある境川にたどり着く。
[従者ら]ありがたい弥陀の光明を頼りとして、善光寺を訪ねよう。
[従者]これは都に住む者です。また、こちらにおられますお方は、百ま山姥といって、世に知られた曲舞の舞手でいらっしゃいます。
 このようにお名前をお呼びするいわれというのは、山姥が山めぐりをするという話を、曲舞にしてお謡いになっていることから、都の者たちが呼び習わしているのです。
 さて、近頃、百ま山姥が善光寺へお参りしたいということを伺いましたので、私がお供申し上げ、今、
信濃国善光寺へと急いでいるところです。
[中略]
[従者]お急ぎになりましたので、早くも越後国越中国の境を流れる境川にお着きになりました。しばらくこちらにお待ちになって、さらに道の事情をお尋ねになるのがよいでしょう。


七章 秋の梶川流大会 千春分家を立てる決心


 、、、、、、しかし秋子さん、今度出来る国立劇場は、日本舞踊は家元しか加盟できないそうですよ。、、、、、、国立劇場に出ると出ないとでは、舞踊家の格が違うんだそうですね、
紋之介も大阪で別派家元になるんだそうですね。


八章 秋子,別派、分家家元を披露する。 梅弥、男児を死産。


梶川千春 「姉ちゃん、紋之介さんにも許可したのだったら、私にも許可して貰えるわね、私は分家するつもりよ」

梶川秋子 「寿太郎お師匠さん、あなたは血縁でもなんでもないのですから分家はご無理ですわ、紋之介さんと同じように別派になさらなくては」

美津子と、故家元の生母と、梶川花の三人は、土壇場で振り捨てられた恨みから、稽古にも顔を見せなくなった。


獅子物の古典である「枕獅子」をもとにつくられたのが「鏡獅子」。
九代目市川団十郎が初演の新歌舞伎十八番のひとつですが、六代目尾上菊五郎の名演によって不動の地位を確立しました。
「しかし、土台は江戸時代の「枕獅子」とあまり変わることがなく、曲も歌詞も同じなので、ただ初代瀬川菊之助が傾城姿で踊ったのを
「鏡獅子」では、大奥の小姓に改作してあるだけだ。だから、歌詞も、かなり色っぽい」

前半は、将軍さまお気にいりの初々しい女小姓「弥生」。後半は、勇壮で力強い獅子の精。
ガラッと変わる二役を、一人の踊り手が描き分ける大曲。

お正月の将軍家のお城。初釜のお手前をしていた、女小姓の弥生が、座興におどりをお目にかけるよう、大広間に呼び出されます。

ふくさをもったまま登場する弥生。

深々と一礼し(客席を将軍の座に見立てて)、田植え唄、おぼろ月夜にホトトギスが飛ぶ情景、紅白のぼたんが咲き誇る様子など、
身ぶり、手ぶり、扇を用いて、一心に踊りこんでいきます。


踊りおさめに、神棚にまつってある手獅子を持って舞う弥生。
その獅子の精霊が、弥生にとりついたように、動きの自由を奪い、弥生をどこかへ連れさってしまいます。

飛びかう二羽の蝶とともに、ふたたび姿を現したとき、弥生は白いたてがみの獅子と一体化しています。
神々しい雰囲気のうちに幕が下りる。

                                             https://youtu.be/A7d76TyPCp0