和宮様御留』(かずのみやさまおとめ)は、有吉佐和子の長編小説。文芸雑誌群像』に1977年1月号から1978年3月号にかけて連載され、同年講談社から出版された。「和宮替え玉説」というショッキングなテーマが連載中から反響を呼び、単行本はベストセラーとなった。第20回毎日芸術賞受賞。1980年、1981年には竹下景子主演で舞台化され、2度テレビドラマ化され、しばしば舞台化されている。

京都所司代酒井忠義
観行院
和宮母子
孝明天皇や公家衆
女官たち

内容は
作者の創作した主人公の少女フキが、何も知らされないまま替え玉に仕立て上げられ、次第に精神の均衡を失っていく様子を描く。

作者は自らあとがきで、和宮降嫁を太平洋戦争と重ね合わせ、この作品を「赤紙一枚で招集され、何も知らされないまま軍隊にたたき込まれ、適性をもたぬままに狂死した若者たちへの鎮魂歌」だとも書いている。


主な登場人物



あらすじ
京の町方に生まれた捨て子のフキは、橋本邸の下女に入ってすぐ、観行院の命で桂の御所に赴く。意外にも御殿に上げられたフキは、その日から和宮の居室に潜み、そのお下がりを食べ、声も出せない毎日を送ることになる。文久元年(1861年4月21日、橋本邸に里帰りする和宮の輿にフキもともに乗り込んだが、帰りの輿に宮の姿はなく、それからフキは宮の替え玉として、「乳人(めのと)」少進にかしづかれながら、拝謁を受け、読めない字の手習いをし、茶道の稽古を通して慣れない行儀作法を身につけさせられる。庭田嗣子や能登命婦が自分の正体を知っているのではないかとおびえたフキは、閉じこめられ、がんじがらめに縛られた生活の中で本来の快活な性格を失っていく。京を出発したフキは、一行の中に唯一気を許していた少進がいないことに気づいて動揺し、食事ものどを通らなくなるが、長旅の経験がない観行院や周囲の女官はいずれも気が立っていて、フキへの配慮に心が行き届かない。11月10日板鼻本陣に着いたフキは、そこに京での後始末をすませて一行を追いかけてきた少進がいるのを見つけ、緊張の糸が切れる。「あて、宮さんやおへん」と泣き叫ぶフキを抱え途方に暮れた観行院らは、ついに岩倉具視を呼び入れ、その手配によって、新しい替え玉宇多絵が用意された。フキは新倉家に運び込まれるが、その翌朝、フキには思わぬ最期が待っていた。

?和宮替え玉説の主張する要因を考えよう
 

   
@彼女には実は左手がなかった、本当は替え玉だったといった噂があります。
A
左手がなかったと言われる根拠は、肖像画でいつも左手が書かれていないからです。さらに、1958年から1960年にかけて行われ た、徳川家の墓地発掘調査でのこと。和宮のお墓も調べたのですが、どうしても左手の手首から先が見つからなかったという報  告があります。
@Aのことから、彼女には左手がなかったのではないかと囁かれているのです。


もうひとつの噂である替え玉説は、有吉佐和子さんの小説である「和宮様御留」の中で語られています。

 この小説の中で、和宮は江戸にお嫁に行くのを嫌がったとあります。そこで和宮の替え玉を立てることに。その女性を和宮として降嫁させているのですが、有吉佐和子さんはフィクションではなく、小説は真実だと語っています。替え玉となった人の関係者に聞いた、日記の文体が変化した、だから事実だと主張している有吉さんですが、歴史学者からは反論されています。

 
さらに、家茂のお墓を発掘したときに見つかった女性の髪と、棺に納められた和宮の髪の色が一致しないとも言われていることから、替え玉説が囁かれるようになりました。
 徳川家の墓所発掘調査に関わった著者が、「骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと」という本を書いています。この著者宛に、和宮は明治4〜5年頃に賊に襲われて自害したのだという手紙が届いたそうです。和宮は明治10年に32歳の若さで亡くなっていますが、この手紙が事実なら政府は和宮の最期を隠していたということになります。

 

和宮の骨は何を語るか

和宮は芝増上寺内に夫家茂の墓と並んで埋葬されています。同じ墓域に葬られている正室は、和宮のみです。
他の正室たちのものは将軍墓の石垣下に営まれています。
 石槨そして石室の中の棺の形は寝棺で、三重の桧の木棺からなっています。天井部には銘石が置かれています。


 

二品内親王諱親子幼称和宮
仁孝天皇第八皇女、生母正五位下守典侍橋本経子弘化三年丙午閏五月十日、外
祖父橋本實久第(てい)に降誕。文久元年四月宣して内親王と為し名を賜ふ。
是に先だち征夷大将軍徳川家茂尚(しょう)を請う。これを許す。十一月、江
戸に釐降(りんこう)し、明年二月十一日合の礼を行ふ。慶応二年十二月、
家茂薨す。薙髪して静寛院宮と号す。明治六年三月、二品に叙す。十年八月、
水腫を患ひ相模塔沢に病を養ふ。癒ず。九月二日、遂に客館に薨す。寿三十一
年。三月六日、柩を護り東京に還る。十三日増上寺故将軍の兆域に葬る。

     尚=天子の女子をめとる事。釐降=降嫁。
     合[「丞」の下に「厄」の中、ごうきん]=婚礼。兆域=墓所

和宮の遺体


身長〜143.4cmと、庶民の平均(145.6cm)よりも低い。

顔の形〜過狭顔型という非常に狭い面長だが、頭の鉢は大きい。いわゆる「お
  でこ」。黒い髪が生前のままに保存されていた。

鼻〜高く秀で、幾分しゃくれた鼻梁をしている。

顎〜上下顎とも狭いため、頤は著しく前に突出している。

歯〜反っ歯の度合いは徳川夫人たちの中で(調査した中で)最高。咬耗はきわ
  めて軽度で、奥歯に虫歯がある。歯石が多い。また、お歯黒が残っていた。

四肢骨〜骨の筋附着部が目立たず、筋肉が弱々しかったことがわかる。腕を上
  げるための三角筋の附着部の異常なまでの狭さは、三角筋の発達が一般庶
  民よりも弱かったことを示す。また、大腿骨の捻転角が57°と極度のう
  ちまただった。


 

和宮の生涯

弘化3(1846)年(1才)閏5月10日外祖父橋本実久邸にて誕生
     父・仁孝天皇(1800〜1846.1.26)
     母・典侍橋本経子(1826〜1865・父は権大納言橋本実久)

嘉永元(1848) (3才)8月 1日歳替
     歳替とは、生年の運勢や吉凶、官位昇進の都合などで、誕生日を変
     えること。和宮の場合には、実際の理由はわからないが、ひとつに
     は丙午の生まれだった為、もうひとつには生年を父天皇の生前に繰
     り上げる為ではないかとされている。歳替の結果、誕生日は弘化2年
     12月11日とされた。

嘉永4(1851) (6才)7月12日有栖川宮熾仁(たるひと)親王と婚約
     熾仁親王は、伏見・桂・閑院の三宮家と並ぶ世襲親王家のひとつ有栖
     川宮幟仁(たかひと)親王の王子。

(嘉永6(1853)ペリー来航)

(安政元(1854)日米和親条約調印)

安政3(1856) (11才)9月23日幕府婚儀支度料を贈進

安政5(1858) (13才)この年から皇女の降嫁策が献策される(降嫁
     策が持ち上がってから下向までのいきさつは稿を改めて述べます)
               井伊直弼大老就任、日米修好通商条約調印、
               安政大獄始まる、家茂将軍宣下

安政6(1859) (14才)4月27日明冬有栖川宮に入輿内定

万延元(1860) (15才)8月15日降嫁承諾
               8月26日有栖川宮との婚約解消
     形式としては先に有栖川宮から宮邸の狭隘などを理由に入輿の延期
     を請い、この日に勅許
               12月25日納采
               桜田門外の変起こる

文久元(1861) (16才)4月19日内親王宣下、名を親子と賜う
               10月20日京都出発
                              11月15日江戸到着
               12月11日江戸城へ入城
               対馬事件起こる、水戸浪士等英公使襲撃する

文久2(1862) (17才)2月11日婚儀
               坂下門外の変、幕政改革、生麦事件

文久3(1863) (18才)2月13日家茂京へ向かう(6月16日戻る)
               12月27日  〃   (翌5月20日戻る)
               8.18政変起こる

(元治元(1864)禁門の変、下関戦争起こる、第1次長州征伐)

慶応元(1865) (20才)5月16日家茂京へ向かう(不帰)
                8月10日母観行院死去
               第2次長州征伐発令

慶応2(1866) (21才)7月20日家茂大坂にて死去
               12月9日薙髪、静寛院と称する
               12月25日孝明天皇崩御
               薩長同盟成る、長州征伐開戦、慶喜将軍職へ

(慶応3(1867)大政奉還、王政復古)

明治元(1868) (23才)1月21日徳川家家名の存続を朝廷に嘆願
               戊辰戦争開戦、五ヶ条御誓文

明治2(1869) (24才)1月18日京へ向かう
               戊辰戦争終結、版籍奉還

明治7(1874) (29才)6月24日東京へ向かう

明治10(1877)(32才)8月7日脚気治療のため箱根塔ノ沢へ行く
               9月2日塔ノ沢にて死去
               9月6日遺骸帰京
               9月13日葬儀


皇女の降嫁策が建議されてから和宮に決定し、江戸へ下向するまでには、ど
のような動きがあったのでしょうか。詳しく見ていきます。


皇女降嫁策の発端

皇女の降嫁案は、ほぼ同時期に二つの経路でその交渉が始まっていました。
安政5年、秋の事です。
 この年3月、日米修好通商条約の調印に勅許を得られなかったあたりから、
朝廷と幕府との間の不和が目立つようになりました。家定の継嗣問題でも、紀
伊藩主徳川慶福を推すいわゆる南紀派(幕府上層部)と水戸徳川斉昭の息子で
ある一橋慶喜を推す一橋派(斉昭・松平慶永・島津斉彬らと彼らが入説した朝
廷内部)が対立しています。
 しかし4月、大老として就任した井伊直弼は強硬に条約調印、慶福の将軍就
任(=家茂)を実現すると共に一橋派を圧迫、その後安政の大獄へとなだれ込
んでゆきます。それに対して朝廷側は幕閣改造・慶喜擁立の勅書を下し、また
幕府擁護の巨頭である関白九条尚忠に辞表を出させ、家茂の将軍宣下を延ばし
て対抗します。
 それらを見て幕府は、外交事情を説明するために上洛予定だった老中間部詮
勝を急遽京に向かわせて条約勅許の奏請、一橋派志士弾圧を行います。
 このように朝幕間が一触即発の状況の中で、皇女降嫁策は建議されたのです

◇関白九条尚忠−大老井伊直弼ライン

安政5(1858)年8月、京都方面の入説工作を担当していた彦根藩士、
井伊の腹心であった長野主膳は、九条家の家臣・島田左近から皇女縁組の内談
を受けていました。翌月、長野は江戸にいる彦根藩公用人・宇津木六之丞に手
紙でそのことを伝えています。
 そこには、一橋派と、彼らの影響で政治の表舞台に出てこようとする朝廷内
の動向を述べた後で、その動きを押さえつける為に禁中並公家諸法度を厳重に
守らせる事・皇女を降嫁する事、その代わり経済的援助を行う事が書かれてい
ます。
 それを受けた六之丞は直弼の意を受け、主膳にその周旋を依頼します。
 朝幕の融和を図り、幕府中心の公武合体(つまり朝廷には政治に口を出させ
ない)を実現する為の皇女降嫁策が、ここに始まったわけです。

さて、この時「皇女」とは誰の事だったのでしょう。

・仁孝天皇皇女 敏宮(ときのみや)文政12(1829)生れ 30才
 ・  〃    和宮       弘化 3(1846)生れ 13才
 ・孝明天皇皇女 富貴宮(ふきのみや)安政5(2858)生れ  0才
 この3人のうち、まず敏宮は、13才の家茂とは年齢的に釣り合わず、和
宮は熾仁親王との婚約が成っていましたし、富貴宮は6月に生まれたばかり
です。

3人ともに決定的な決めてはありませんが、この時点では富貴宮が候補と
してあがっていたようです。政略結婚ですから、年齢的に多少の無理があっ
ても関係ありませんし、富貴宮は現天皇の皇女である上、その母は関白九条
尚忠の娘です。議奏中山忠能の日記には(翌年5月25日付)、

≪大樹妻、御直宮之内を以て、富貴宮を申し下すべき処、御幼稚之間、和宮を申
し下すべき哉之旨内評ある由也
              (『中山忠能履歴資料』〜『和宮』より引用)

とあることからも、わかります。

安政5年はこの直後から安政大獄が起こり、九条−井伊ラインでの急
速な展開はありませんでした。


◇左大臣近衛忠煕(ただひろ)−京都所司代酒井忠義ライン

 こちらは安政5年10月1日近衛忠煕邸での酒井忠義と前内大臣三条実万
(さねむつ)3名での意見交換に始まります。
 その中で忠煕は、京都西町奉行所与力・加納繁三郎の意見を紹介します。そ
の意見とは「和宮が降嫁すれば、幕府は天下に公武合体の実を示せるし、条約
破棄の方策も立てられるだろう」というものでした。その意見に忠煕は有栖川
宮との婚約が無ければ可能性もあると答えた、という話をします。
 ここに、もうひとつの皇女降嫁策が建議されはじめたのです。

しかし、注意しなくてはいけないのは、九条−井伊ラインとはその意図が異
なるという事です。片や朝廷を押さえつける為の方策としてのものでしたが、
こちらには、朝幕間の緊張を緩和し朝廷の安泰を図るという意図があります。
また、忠煕、実万ともに朝廷での一橋派の中心人物でもありましたから、自分
たちの保身を考えての事でもあったのでしょう。
 ところがその後、忠煕、実万とも失脚し、近衛−酒井ラインは自然消滅とな
り、九条−井伊ラインが残ります。


◆降嫁策本格論議始まる

安政6年、政局の動揺が収まる頃、上記中山忠能日記にもあるように朝廷内
でも降嫁問題が論議され、和宮の存在が注目されるようになりました。8月に
は孝明天皇の皇女富貴宮が亡くなり、降嫁する皇女候補は和宮の他にはいない
という状況を迎えます。(しかし有栖川宮との婚約はそのままであり、この年
4月には明冬の入輿が内定しています)
 また、幕府側でも、家茂が紀伊藩主時代からあった、伏見宮貞教(さだのり)
親王の妹則子との縁談も正式に打ち切り、皇女を迎える準備を整え始めました。

万延元年2月、酒井忠義は数度にわたって家臣を橋本実麗(さねあきら・観
行院の兄、和宮には伯父)邸に遣わせ、正式な降嫁奏請の前に周旋を依頼して
いました。翌月の桜田門外の変にて井伊が殺害された事で、降嫁策は朝廷を押
さえつける為のものから、反幕運動を緩和する為のものへとその目的を転化さ
せながらも進行してゆきます。
 そして4月、幕府はいよいよ和宮降嫁の正式な奏請を行います。1日、老中
連署の奉書を忠義のもとへ送り、関白尚忠への申し入れを命じました。尚忠が
これに接したのは12日でしたが内奏するには早いと判断し、とどめていまし
たが幕府側からの催促もあり、最終的に天皇に奏上した時には5月1日になっ
ていたのです。


◆孝明天皇の降嫁承諾まで

5月1日、幕府からの和宮降嫁の請願が、関白九条尚忠を経て孝明天皇のも
とに届きました。

 しかし、天皇の返事は予想通りの拒絶です。
 その理由は第1に和宮は有栖川宮と婚約をしているので、これを破談にはで
きない事、第2に和宮は先帝の皇女、また妹宮といっても異腹なので義理合い
上天皇の思い通りにはいかない事、第3に和宮は年少なので、関東には夷人が
いる事を聞いて恐怖している事というものでした。ただし、これを断った事で
朝幕関係がますます悪化することを恐れ、縁談の謝絶は幕府に対して隔心を持
っているわけではないとも付け足しています。

さてこの返事を受けた酒井忠義は、これを幕府に報告せず、一存で再度の奏
請を行います。その中で和宮が丙午の生まれなのを有栖川宮が内心不満に思っ
ている事、この拒絶が公武一和に悪影響をもたらす事などを説いて再考を願い
ましたが、今回も拒絶されてしまいます。
 5月26日には幕府から重ねて奏請するようにとの沙汰があり、尚忠を経て
6月4日、天皇に上奏されました。その中で幕府は、この縁組みは公武一和を
内外に示す為であるとともに、人心を一致させ、攘夷を実行する為に重大な意
味をもつものと説いています。
 幕府はまた、和宮の母観行院と伯父の橋本実麗の反対が勅許の降りない要因
のひとつではないかとし、二人の叔母で徳川家慶に仕えていた勝光院に、二人
を説得させています。結果実麗は、降嫁については天皇の思し召しに従うと言
上しました。
 この頃には、幕府に協調的ではなく公武一和の妨げになるという理由で、議
奏徳大寺公純(きんいと)が辞職を余儀なくされています。これも朝廷内を押
さえる為の見せしめといったものだったのでしょう。

以上のような幕府側の動きの中で、孝明天皇は今度ばかりは頭ごなしに拒絶
できず、岩倉具視に諮問しました。具視は官職は低かったものの、当時は堂上
第一の策士といわれ、またその実姉・堀河紀子が天皇の寵を得ていた事もあり
天皇の信任が厚かったようです。
 具視はこう提言します。今こそ朝権回復の機会だが、武力討伐などを起こし
ては諸外国に侵略される恐れがある。ここは名を捨て実を採るべきだ。条約破
棄・攘夷の実行を幕府がするのなら、降嫁を認めてもよいのではないか。
 そして6月20日に天皇は、公武一和の為ならば許さないでもないが、その
前に、外国との通商を止め、鎖国を復旧すれば、速やかに縁談を進めよう、と
いう回答を与えます。和宮は朝廷側からも、政略の手段として利用されること
となったのです。

これに対して幕府は7月4日、外交も拒絶するとして和宮の降嫁を三たび奏
請しましたがこれは具体的な内容がないとして、却下されます。そこで29日
には攘夷の実行を誓約した奉答書を提出しますが、その中で幕府は、武備を充
実した後、外交を絶つつもりでいるが、武備の充実には人心一致、その為には
公武一和が必要であること、和宮の降嫁こそがそれらの前提になることを説い
ています。

つまり朝廷は、攘夷してくんなきゃ和宮はあげないよと言い、幕府は、攘夷
してあげるから和宮ちょうだいと言っているわけです。

◆和宮降嫁拒否から承諾へ

8月6日、天皇は和宮の降嫁を決意します。
 7日、和宮を説得するように命じられた実麗は、いやいやながらその任につ
きました。以前から天皇にもこの縁談の固辞を伝え、認められたと思っていた
和宮の当惑した様子は、実麗の日記にも記されています。

御迷惑御困りの御様子、誠に恐れ入り候事共、筆頭に尽くし難し
                  (『橋本実麗日記』〜『和宮』より

 翌日には勾当内侍・高野房子に説得させますが、

≪何とぞ、此義は恐入候へ共、幾重にも御断り申上度まいらせ候。御上御そば御
はなれ申上、遥々まいり候事、まことに心細く御察し戴き度、呉々も恐入候へ
共、よろしく願入まいらせ候
       (『静寛院宮御文通留』か?〜『江戸城大奥の女たち』より)

という書を呈して固く拒否します。また、観行院に説得させようとしましたが、
和宮が不承知なのだから説得はできない、和宮の意志を尊重して欲しいと逆に
願われます。

 一度受けると言った縁談を今更拒否する事は出来ません。天皇は困り果てて
しまいました。議奏・久我建通は、どうしても和宮が固辞するのなら、安政6
年に誕生した天皇の皇女、寿万宮(2才・母は堀河紀子)を降嫁させるという
策を献じます。それを受けて天皇は13日、尚忠に宸翰を与えます。その写し
はすぐに和宮の許にも届けられました。

≪関東へは信義を失い候間、一向急ぎ候儀なれば寿万宮にては如何哉、幼年にて
好まざる哉、一人之女子故少々は哀憐も加り候得共、公武一和之儀夫には替え
難く、天下之為に候得ば尤も熟談に及ぶべく早々内定と存じ候。夫も整わず、
且和宮も堅く理わると相成り候はゞ実々致し方なく、関東に対して信儀を失い
候訳柄故、一決(譲位の御決心をさす)候儀もこれあり候
                    (『尚忠公記』〜『和宮』より)≫

天皇に譲位の決心がある事を知った和宮は、実麗から追い打ちをかけるよう
な話を聞かされます。それは、和宮降嫁に同意をしないばかりか辞退を勧める
実麗には落飾、観行院には蟄居を命ずる事が内定したというものでした。九条
家家臣島田左近らが流したデマだったのですが、和宮の首を縦に振らせるには
充分なものでした。

8月14日、和宮は降嫁に承諾の決意を固めました。実麗は日記にこう書い
ています。

≪関東御縁一件予丹誠を尽くすと雖も、終に御請思召治定也。寔(まこと)に心
外無念之儀筆頭に尽くし難し、是非なき次第也
                  (『橋本実麗日記』〜『和宮』より

15日、和宮は承諾の言上とともに、以下の5ケ条を守る事を願い出ました。

一、明後年先帝十七回忌の御陵参拝を終えてから江戸に下向すること。また先
 帝御年回の 度毎に天皇の御機嫌伺を兼ね御陵参拝のため上洛すること。
一、入輿後も和宮の身辺は万事御所の風儀を遵守すること。
一、江戸城内の生活になじむまで、御所の女官一名を御側附として拝借すること。
 また三仲間(下級の女官)三名を随従させること。
一、御用の際には橋本実麗を江戸に下向させること。
一、御用の際には上臈あるいは年寄(侍女の職名)を使者として上洛させるこ
 と。
                           (『和宮』より)

 18日には降嫁勅許の内定が幕府に伝えられましたがこの時天皇は重ねて条
件を提示しています。
(1)和宮の出した5ケ条を守る事
(2)鎖国の回復は必ずする事
(3)幕府が強要しての縁談ではなく、公武熟談の上で決まったということを
   天下に知らしめること
(4)外国との貿易で庶民が窮乏しているので撫育策をたてること
(5)降嫁後の和宮の待遇はその前に内奏すること
(6)有栖川宮への措置を考える事

 同日に天皇は尚忠に、有栖川宮との婚約解消の手続きをとることを命じます。
有栖川宮家からの入輿延期願い、その勅許、という形で、26日、婚約は解消
されました。

 引き続き、幕府からの正式な降嫁奏請となるはずなのですが、またもや壁に
ぶちあたってしまったのです。


幕府から正式な奏請を出すだけというところまでこぎつけた降嫁策は、またも
や暗礁に乗り上げてしまいました。


◆降嫁勅許まで

幕府としては、なるべく早い時期の和宮の下向を望んでいました。ところが
和宮から出された条件には「明後年」とあったことから、問題となったのです。
 そこで9月5日幕府は、他の条件は全て承諾するが明後年という時期だけは
承諾できない、その時には上洛の計らいをするから、本年11月には下向をし
ていただきたいと請願します。理由として、大奥に主人(現将軍の正室)が不
在なのはよくないということ、もし明年の婚儀にするとなれば今度は将軍の年
廻りが悪く不吉であるから等をあげていますが、内実は反幕府勢力に備える為
の公武一和の体制を早く作り上げたかったからでしょう。

 それに対して天皇は、和宮の意向と幕府の希望を容れ、明年春(4、5月)
の下向を和宮にすすめます。しかし和宮はかたくなに拒否したため、再度寿万
宮の降嫁案を提示しますが、拒否されてしまいました。しかしその後、周囲の
説得などにより、10月5日、明春の下向を承諾するに至ります。翌日、天皇
は幕府に下向の時期を伝えると共に、和宮の希望5ケ条と天皇からの7ケ条の
要望への返答を求めます。

 さていやいやながら明春の下向を決意した和宮を天皇は宸翰を送ってなぐさ
めます。それに対して和宮は、以下のような返書を差し出しました。

御書かしこまり拝見申し上げまいらせ候。弥(いよいよ)御機嫌よく成らせら
れ、めで度ありがたくまいらせ候。左様候得ば此間は大すけ・長橋御使にて関
東へ下向の事段々御断申し上げ候得共度々申し参り候に付、御上にもかれこれ
御心配遊ばし戴き、御あつき思召さまの程段々伺ひ、誠に恐れ入りまいらせ候
まゝ、天下泰平の為め、誠にいやいやの事、余儀なく御受け申し上げ候事にお
わしまし候。来年は関東にて年割悪きよし申し参り候まゝ私も同様気掛りの事
ながら、准后さま御入内長(偶数)の御年にてあらせられ候御吉例をもつて、
此度仰せ立らられきりの思召のよし、何も承り辱(かたじけなが)り存じ候。
段々御あつき御挨拶ども伺ひ入り辱りまいらせ候。弥治定の上は願ひ度事ども
御座候御事相成り候御事は御承知も遊ばし候よし、なを申し上げ候へばよろし
く願ひまいらせ候。また下向いたし遠方とて御兄だいの御中御きりあそばされ
候御事はあらせられず、御杖になり戴き参らせ候よし、御厚き思召さま深く辱
りまいらせ候。猶よろしく願ひ置きまいらせ候。又御上より思召よりの御事仰
せられ、且つ仰せ立てられ候事在らせられ候せつは、私より取計ひの事何も伺
ひ置き候得共。これは御わけ柄により心得居り候事と存じまいらせ候。かしく。
 猶時候御用心あらせられ候様ぞんじ上げまいらせ候。めで度かしく。
                         かず上
    御請口上     誰ぞ申し給へ
                   (『岩倉公実記』〜『和宮』より)

15才という若さで未知の世界に入って行かなくてはならなかったのですから、
どんなに不安だったでしょう。

 しかし周辺は降嫁へと進んでゆきます。10月9日、降嫁が正式に奏請され、
18日には勅許が下りました。

◆和宮下向日程決定までの長い道のり

ところが勅許が下りて半月も経たないうちにまたもや問題が起こります。12
月1日、プロシア・スイス・ベルギーとの通商条約の締結を奏上したところ、
天皇は和宮降嫁を破談にすると、激怒しました。鎖国回復を前提として勅許を
与えたというのに今度は新条約の締結というのですから、朝廷内が騒然となる
のは当然でしょう。
 そこで朝儀の結果、降嫁を三年延期する事を決定し、酒井忠義に通達しよう
としますが、それらを察していた忠義は病気と偽り面会せず、ひそかに関白尚
忠に収拾を依頼します。最終的に天皇はすべて尚忠に委ねる事となり、9日に
この事態は解決しました。

12月21日には幕府から降嫁勅許のお礼として金品を献上、25日に納采
の礼を行います。
 明けて文久元(1861)年、3月にはいよいよ和宮下向を迎えるはずだっ
たのです。
しかし正月前後から、世情が騒然としてきました。
 関白以下朝廷内の要人が幕府から賄賂を受けてこの縁談を天皇に強要した、
あるいは生来の有事に備えて幕府が和宮を人質にする、下向途中を襲撃して和
宮を奪い取るといった噂がしきりと流れる中で、万延元(1860)年12月
5日、アメリカ公使館員だったヒュースケンが薩摩藩士らによって殺害されま
した。1、2月頃には、水戸藩内に浪士が集合するなどの動きが頻繁になった
為、万が一の事を恐れ、3月2日、今度は幕府側から、下向の延期を願い出ま
す。情勢が好転し次第の下向を願うというものでした。
 5月には水戸浪士らがイギリス公使を襲撃するといった事件もありましたが、
浪士取締も一段落したということで、7月2日、幕府は9、10月の下向希望
を申し入れました。
しかし和宮は、秋の下向では明春の先帝十七回忌まで日がない為その時の上
洛が不可能ではないかとして、十七回忌が終わった後の下向を希望します。天
皇も和宮に同情し下向の延期を尚忠に命じますが、その旨を忠義に伝える時に、
なぜか天皇は実は破談を望んでいるとのだと説明してしまいました。驚いた忠
義は激しい抗議をもって下向の延長を一蹴します。天下の為の縁談なのを知っ
ていながら、一度決定した事を和宮の気持ちだけを考えて変更するのは道理に
かなわず、不信感を抱かれることであると天皇に抗議すると共に、尚忠には、
もし婚約を解消すれば外交に関する約束は取り消すかもしれないし、天下が乱
れた上に和宮は他家とも縁組みできない、関白以下の責任重いと抗議します。
 その結果、天皇は忠義の強気な返答にまた激怒、降嫁の破談を内議しました。
 しかし朝廷の重臣らは天皇の考えには賛成しなかった為、ようやく天皇も折
れ、8月5日、下向の日程が10月中下旬と決定、9月8日には10月3日の
首途(かどで)の儀、20日の出発が決定します。
 首途の儀とは、長期の旅行の際に、出発前に支度を整えて神社に参拝、旅の
平安を祈るものです。
◆和宮江戸へ
和宮の周辺では下向へ向けての準備が始まります。4月には内親王宣下が行
われ、親子という諱を天皇から賜りました。その後生まれ育った橋本邸を訪問、
また初めての遠出として石清水八幡宮に参詣もしています。
 下向日程が正式に決定してからも修学院離宮や賀茂両社・北野神社を参詣す
るなどの日々を過ごします。10月3日には祇園社へ詣でて首途の儀を行い、
15日に天皇に暇乞し、20日の出発を迎えました。

 京都から江戸までに掛かった日程は25日、中山道は前代未聞の行列を迎え
ることとなりました。
 そのすさまじさを道中の護衛と備品の使用量を例に見てみましょう。

護衛:輿を警護するもの12藩
   沿道の警護に当たるもの29藩
   名古屋藩の場合 輿の警護人数1,030人
           枝道間道の警護人数426人
           旅館の警護人数64人
備品:太田宿(岐阜県美濃加茂市)の場合
   人馬7,856人 280匹
   布団7,440枚 枕1,380個
   飯椀8,060人前 汁椀5,210人前 膳1,040人前
   皿2,110人前 通い盆535枚


 さて、道中は浪士の襲撃に遭うこともなく11月15日に江戸に到着、ひと
まず九段の清水邸に入りました。
 いよいよ江戸城に入城、家茂との婚儀が待っているのですが、そこに至るま
でにも又、ひと悶着起こります。
御所風VS.江戸風あるいは嫁対姑?
和宮の側近、宰相典侍庭田嗣子の11月15日、江戸到着の日の日記を見て
みましょう。
≪今日より大分の城の風儀を致す、宮さま御輿も女陸尺(ろくしゃく〜かごかき)
御玄関へかき上げ候由、何事も大分むつかしく相成り候。(中略)今日より伺
かた江戸の風儀に致し候やと花ぞの殿(幕府老女)申され候へ共、何分京都の
御風と仰せ出られ御座候御事故、矢はり京御風に伺はされ候由返答致し候
                  (『和宮御側日記』〜『和宮』より)≫
和宮が降嫁を承諾する条件に、万事御所風の生活を守る事、という一条があ
りましたが、到着のその日からこのありさまです。同行して来ていた橋本実麗
らが幕府方の役人、大奥の女中らと交渉をしても、御所風にするなどという事
は聞いていない、とはぐらかされてしまいます。
 江戸到着直後に和宮が風邪を引き、23日の予定だった入城を延期、29日
にやっと快癒し、翌月11日の入城と決まりますが、この風邪も実は朝幕間の
不協和音をその間に解決する為の口実だったようです。

 また、先帝十七回忌に上洛するという約束も、道中筋の困窮・難渋を理由と
して明後年(文久3年)まで延期させられています。
 和宮の侍女たちへの待遇にも不誠実ものがあり、不平不満はつのったようで
す。部屋や食事も厳しいもので、泣き暮らす下女たちもいましたし、少し後の
ことですが、庭田嗣子や命婦の能登といった側近の女官たちすら江戸城内では
日当たりの悪い部屋しか与えられていなかったという状況でした。

 しかし11日には入城、江戸城内での生活が始まります。文久2(1862)
年2月11日に家茂との婚儀も行われました。
 その直前くらいだったかと思われますが、和宮からは姑に当たる、天璋院と
の初対面もまた、和宮の側からしてみると屈辱的なものでした。それは、天璋
院が上座に、茵(しとね)の上に座ったのに対して、和宮は下座に座らせられ
茵の用意もないというものでした。一般的な嫁姑という関係なら当然の事かも
しれませんが、公家の世界なら天璋院と和宮は対座して茵の準備も同様にする
べきものでした。
 和宮の側からしてみると、和宮だけの問題ではなく、朝廷の威信に関わるこ
とですから根の深い問題だったでしょう。
 また、結婚後の和宮に対する呼び名が、「御台所」とされたことも和宮側の
反発を招き、のちに「宮様」という呼び名になったというようなこともありま
した。
 和宮と天璋院との対立については、勝海舟も書いています。

≪和宮と天璋院とは、はじめは大層仲が悪かった。会いなさるまではネ。お附き
のせいだよ。それで、あちらでもすれば、こちらでもというように、張り合う
ものだから、入費が掛って困ってしまったのサ。
                         (『海舟座談』より)
天璋院と和宮とは初めは仲が悪るくてね。なに、お附きのせゐだよ。初め和宮
が入らした時に、御土産の包み紙に「天璋院へ」とあつたさうな。いくら上様
でも徳川氏に入らしては姑だ。書ずての法は無いといつて、お附きが不平をい
つたさうな。夫であつちですれば、こつちでもするといふやうに競つて、それ
はひどかつたよ。
                    (『海舟余波』〜『和宮』より≫
※『海舟座談』の緒言に「この書、題して「海舟余波」という。」という一文
があるので、『海舟座談』『海舟余波』は同じものかと思われますが、『和宮』
から引いたこの一文は、『勝海舟全集11』に収録されている『海舟座談』の
中に見あたりませんでした。
天璋院はこの年26才、気性の激しい女性であったとも言われています。そ
れに加えて海舟の逸話にあるように、側近たちが敵対意識を持っていたでしょ
うから、なかなか難しいものだったろうと思われます。

Money distributed by the Tokugawa to the nobles in order to acquire Princess Kazunomiya
Unable to return to her parents' home, Princess Kazunomiya reluctantly agreed to accompany her on the journey eastward.

庭田嗣子、不承、不詳へのリンク
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