『和宮様御留』(かずのみやさまおとめ)は、有吉佐和子の長編小説。文芸雑誌『群像』に1977年1月号から1978年3月号にかけて連載され、同年講談社から出版された。「和宮替え玉説」というショッキングなテーマが連載中から反響を呼び、単行本はベストセラーとなった。第20回毎日芸術賞受賞。1980年、1981年には竹下景子主演で舞台化され、2度テレビドラマ化され、しばしば舞台化されている。
・京都所司代酒井忠義
・観行院
・和宮母子
・孝明天皇や公家衆
・女官たち
内容は作者の創作した主人公の少女フキが、何も知らされないまま替え玉に仕立て上げられ、次第に精神の均衡を失っていく様子を描く。
作者は自らあとがきで、和宮降嫁を太平洋戦争と重ね合わせ、この作品を「赤紙一枚で招集され、何も知らされないまま軍隊にたたき込まれ、適性をもたぬままに狂死した若者たちへの鎮魂歌」だとも書いている。
主な登場人物
- フキ:和宮の育った橋本実麗(はしもとさねあきら)邸の下女。実麗の妹である観行院の目にとまり、和宮の替え玉として江戸へ下る。架空の人物。
- 宇多絵:高田村名主新倉覚左衛門の娘。板橋本陣でフキと入れ替わり、替え玉として大奥に入る。
- 観行院:和宮の生母。不自由な足を気にして降嫁を嫌がる和宮を守るため、独断で替え玉へのすりかえを決行する。
- 藤/少進:和宮の乳母。小説では和宮降嫁に当たって孝明天皇からたまわった名「少進」を藤の双子の妹のものと設定し、藤が和宮に随いて縁切寺萬徳寺(群馬県太田市)に逃れ、少進がフキの乳母役となったとする。(史実では少進と藤は同一人物、藤と土御門藤子は別人)
- 庭田嗣子:宮中女官。宰相典侍(さいしょうすけ)の称号を持つが、和宮様御附女官に指名され、抵抗するも逆らいきれず同行して江戸へ下る。
- 能登命婦:宮中女官。和宮の身辺の世話のため江戸下向を命ぜられ、いやいや応ずる。フキが替え玉ではないかと気づき、フキへの対応が次第にぞんざいになってゆく。
- 花園:江戸城大奥より派遣され、和宮降嫁に随行したお局。諸々の差配をめぐって庭田嗣子とさや当てを演ずる。
- 薮内竹猗(やぶのうち ちくい):茶道薮内流第8代家元。茶頭を務める西本願寺の門主広如上人の紹介で、和宮に茶道の指南をする。
あらすじ
京の町方に生まれた捨て子のフキは、橋本邸の下女に入ってすぐ、観行院の命で桂の御所に赴く。意外にも御殿に上げられたフキは、その日から和宮の居室に潜み、そのお下がりを食べ、声も出せない毎日を送ることになる。文久元年(1861年)4月21日、橋本邸に里帰りする和宮の輿にフキもともに乗り込んだが、帰りの輿に宮の姿はなく、それからフキは宮の替え玉として、「乳人(めのと)」少進にかしづかれながら、拝謁を受け、読めない字の手習いをし、茶道の稽古を通して慣れない行儀作法を身につけさせられる。庭田嗣子や能登命婦が自分の正体を知っているのではないかとおびえたフキは、閉じこめられ、がんじがらめに縛られた生活の中で本来の快活な性格を失っていく。京を出発したフキは、一行の中に唯一気を許していた少進がいないことに気づいて動揺し、食事ものどを通らなくなるが、長旅の経験がない観行院や周囲の女官はいずれも気が立っていて、フキへの配慮に心が行き届かない。11月10日、板鼻本陣に着いたフキは、そこに京での後始末をすませて一行を追いかけてきた少進がいるのを見つけ、緊張の糸が切れる。「あて、宮さんやおへん」と泣き叫ぶフキを抱え途方に暮れた観行院らは、ついに岩倉具視を呼び入れ、その手配によって、新しい替え玉宇多絵が用意された。フキは新倉家に運び込まれるが、その翌朝、フキには思わぬ最期が待っていた。
?和宮替え玉説の主張する要因を考えよう
@彼女には実は左手がなかった、本当は替え玉だったといった噂があります。
A左手がなかったと言われる根拠は、肖像画でいつも左手が書かれていないからです。さらに、1958年から1960年にかけて行われ た、徳川家の墓地発掘調査でのこと。和宮のお墓も調べたのですが、どうしても左手の手首から先が見つからなかったという報 告があります。
@Aのことから、彼女には左手がなかったのではないかと囁かれているのです。
もうひとつの噂である替え玉説は、有吉佐和子さんの小説である「和宮様御留」の中で語られています。
この小説の中で、和宮は江戸にお嫁に行くのを嫌がったとあります。そこで和宮の替え玉を立てることに。その女性を和宮として降嫁させているのですが、有吉佐和子さんはフィクションではなく、小説は真実だと語っています。替え玉となった人の関係者に聞いた、日記の文体が変化した、だから事実だと主張している有吉さんですが、歴史学者からは反論されています。
さらに、家茂のお墓を発掘したときに見つかった女性の髪と、棺に納められた和宮の髪の色が一致しないとも言われていることから、替え玉説が囁かれるようになりました。
徳川家の墓所発掘調査に関わった著者が、「骨は語る
徳川将軍・大名家の人びと」という本を書いています。この著者宛に、和宮は明治4〜5年頃に賊に襲われて自害したのだという手紙が届いたそうです。和宮は明治10年に32歳の若さで亡くなっていますが、この手紙が事実なら政府は和宮の最期を隠していたということになります。
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