『和宮御留』を鑑賞される方は、この作品が完結されるまでの事情をいろいろ知る努力と共に、有吉佐和子さんの何十倍もの努力で作品と真剣に向き合うことが肝要です。なぜなら、この作品は史実を参考にした想像世界であるからです。つまり、彼女はこの作品を通じてわれわれに向かって何かを教示したかったのでしょう。私は高田の馬場に注目しました。

岩倉具視

権中納言堀河康親(ほりかわやすちか)の子として京都で生まれ、13歳で岩倉家の養子になります。岩倉家は公家といっても身分が低く、貧しい生活を送りました。
しかし、関白鷹司政通(たかつかさまさみち)の和歌の弟子となり、29歳で孝明天皇(こうめいてんのう)の侍従に出世すると、朝廷で優れた政治力を発揮します。朝廷と幕府の協力を図る公武合体(こうぶがったい)派。

和宮

孝明天皇(こうめいてんのう)の妹で、5才のときに有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)と婚約します。
しかし、幕府の公武合体(こうぶがったい)策により、16才で同じ年の第14代将軍徳川家茂(とくがわいえもち)と結婚することになり、京都を離れて江戸城大奥に入ります。
家茂と仲良く暮らし始めた翌年から、家茂はしばしば上洛する(天皇に会うため京都に行く)ことになり、家茂と離れて過ごすことが多くなりました。

病気の家茂が三度目の上洛をした際は、和宮は心配して何度もお参りをし、京都に手紙や贈り物をしますが、1866年、家茂は病死してしまいます。僅か20歳でした。
家茂の死後、和宮の下に、家茂からのお土産の西陣織が届きます。


家茂の死後、和宮は出家して「静寛院(せいかんいん)」と名乗ります。拇指戦争中には朝廷に手紙を送り、天璋院篤姫(てんしょういんあつひめ)と共に、徳川家の存続を訴えました。江戸城開城後は、京都に戻りますが、再び東京で暮らすようになり、1877年、病気のため32歳の若さでその生涯を終えます。


篤姫

薩摩藩の一門の娘に生まれた篤姫は、17歳で藩主島津斉彬(しまづなりあきら)の養女となります。
薩摩を離れ、20歳で第13代将軍徳川家定(とくがわいえさだ)に嫁ぎ、正室(御台所)となります。
斉彬は後に篤姫について、「忍耐力があり怒ったことがない、大きな広い心の持ち主で、温和に見えて人と接するのがとても上手、御台所にはふさわしい人物」と言っています。

結婚して僅か2年、篤姫が22歳のときに夫家定が病死します。その後は「天璋院(てんしょういん)」と名のり、大奥で暮らし続けます。

(32歳のとき)、戊辰戦争(故郷の薩摩藩を含む新政府と旧幕府が戦った)が起こります。新政府軍が江戸城に迫ると、西郷隆盛(さいごうたかもり)に手紙を送るなど、静寛院宮(せいかんいんのみや)(和宮)と共に徳川家の存続のために力を尽くします。手紙には、徳川家に嫁いだからには「当家之土(徳川家の土)」となる、と書いてあります。