シェイクスピア『ハムレット』を意識した「非人情対決」です。「画工の非人情・余韻」の6章でも、それは続きます。
【Japanese talk of meiji ear
for chapter 6 of 『An archaeology of innovation』 Catherine
J Frieman
『Grass Pillow』 Natsume Souseki
I thought like this while climbing
the mountain road.
If I work wisdom, there will
be a misunderstanding.
If I point out sympaty, it
will be swept away obstinacy, it will be
swept away obstinacy.
I'm cramped if I'm willing.
Anyway, it is difficult for
people to live in the world.
When it becomes difficult for
me to, I want to move to a place where I
can live comfortably.
When I find it difficult to
live wherever I move Poety is born and pictures
can be made.
The one who created the human
world is neither a good nor a demon. After
all, he is an ordinary
person who flickers on both
side of the other three houses.
Even though it is difficult
for the world of people made by ordinary
people to live becouse, no
country of the afterlife.
The afterlife will be even
harder than the human world.
If a country that cannot be
moved is difficult to live in, we must relax
and make it easier to live in
a little more time, even
if it is a little more time.
The vocation of a poet is created
here, and the mission of a painter is here.
All artistic figures are precious
because they make the human world peaceful
and enrich the human
heart.
Poetry and paintings are the
ones that truly reflect the world that does
not are difficult to live in
from the world that is diffcult
to live in, or music and sculpture.
In detail, it doesn't have
to be copied.
If you just look at it, the
poetry will live and the song will spring
up.
Even if you don’t write down
your ideas, the rhythm of the wonderful poety
is memorable.
Even if Dancing does not smear
on the canvas, the gorgeousness of the five
colors is reflected in the
mind's eye.
However, it is enough if the
camera is clean and clear of the world where
the humanity is thin and the
custom are disturbed.
What a mystery creolization these are
!
Japan
I discoverry while reading
"An archaeology of innovation" 2022,1.19
Romania
「 ...........
Following Sofear, this dramatic tention allowed
for the rerationships between living and
dead
............ 」
ASHIO Copper Mine Poison Incident
True
civilization is
not,
to dispoil mountains.
not,
to ruin rivers.
not,
to destory villages.
and
not,
to kill people.
" An archaeology of innovation"
175p.
South Australia
was (and remains) a far-off, distant place
- geographically marginal
not just
to Cornwall or the Atlantic Cornish diaspora,
but also to the eastern
Australian
colonies.
Certainly, each
of these elements likely played a role in
fostering innovation and a
innovativeness
in Australia's nineteenthcentury mining communities.
【 push
- pull 】
Certainly,
each of these elements lilkely played a role
in fostering innovation and sence of
innovetativeness
in Austraria's nineteenthcentury mining communities.
The environment and
Landscape
were harsh, arid, and unmistakably foreign
to Cornish-born miners ( as well aas to their
Irish,
German, English, Scottish, and Chinese colleagues
).
This
would have provided the sort of "push"
factors that economists and archaeologists
look for
in
case of technological change and innovathion.
"Pull" factors were also in play,
since the unique
social
conditions of these geographically isolated
mining communities, and particulaly the community
and
ethnic cohesiveness that developed, seem
to have under-pinned a sence of solidarity
probably
linked
to the local interest in trade unionism.
Despite
Flemming of reserch demonstrating the complex
social and political factors that influence
cross-cultural
innovativeness, much of the archaeological
discours around this topic still seems to
default
to the simple economic/environnmental push-pull
factors discussed above. (Catherine.2021)
【The constitution of Japan 】
Artcle 13; - All
people are respected as individuals -
” All
of the people shall be respected as individuals,
their right to life, liberty, and the pursuit
of
happiness shall, to the extent that it does
not interfere with the public welfare, be
the
supreme
consideration in legislation and in other
governmental affairs.”
the Russian invasion 2022.3,1
p>Ethnographic situations can provide analogies
for labour division in salt production, but
this is not necessarily helpful for archaeological
situations. First, there are examples where men did the
work and others where it was regarded as
women’s work; second, though some of the
technologies are similar to what we can reconstruct
for European prehistory, others are quite
different.For instance, Godelier (1969: 12) found among
the Baruya that the initial tasks of gathering
the salt plants and burning them, and constructing
shelter for the ashes, were equally divided
between men and women, but the specialist
task of constructing the furnace, placing
the moulds in place, and evaporating the
brine, was strictly a male preserve. In parts of Mexico, saltmaking is considered
women’s activity, with the knowledge being passed down from mother
to daughter or granddaughter (Good 1995). By contrast, in Guatemala salt-making used to
be considered a male enterprise (Reina &
Monaghan 1981). These examples simply show
that there is no one way of dividing salt
making between the sexes in modern times;
the same is no doubt true for the ancient
world.It varied from place to place and period to
period.<
《Salt in Prehistoric Europe》
アングロサクソンとゲルマン人
ゲルマン人(ゲルマンじん、独: Germanen、羅: Germani)は、歴史的に古代から中世初期にかけて中央ヨーロッパからスカンジナビアにかけて居住した民族集団のことを指す。19世紀ごろからは現在のドイツ北部やデンマーク、スカンディナヴィア南部に居住し、インド・ヨーロッパ語族ゲルマン語派に属する言語を母語とした諸部族、または民族[1]とされることもあるが、「ゲルマン」の学術的定義は複数存在する
アングロ・サクソン人(アングロ・サクソンじん、Anglo-Saxons)は、5世紀頃、現在のドイツ北岸からグレートブリテン島南部に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称である[1]。この中でアングル人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いたため、現在も英米などの英語圏白人をアングロ・サクソン人と呼ぶ[2]。このようにドイツ起源の民族であるが、現在のドイツ圏の国民をアングロ・サクソン人と呼ぶことは原則的にない。ただし、ザクセン王国は20世紀初頭までドイツ帝国内に存続しており、現在も「ザクセン州」「ニーダーザクセン州」が残っているため、ドイツの地域住民としてのザクセン人(サクソン人)という名称は今も用いられる。
加羅・任那人にイノベーションされた和歌山人のこと
籠毛興 美籠母乳 布久思毛興 美夫君志持 此岳尓
菜採須皃 家告閑 名告紗根 虚見津 山跡乃國者 押奈戸手 吾許曽居 師吉名倍手 吾己曽座
我許背齒 告目 家呼毛名雄母 『萬葉集 巻一 の 一』
むかし、むかし日本人とイノベーションされた人々の墓が復元されていた、任那の墓と相似している。それは和歌山人の先祖であるといってもよい。あの松下幸之助氏の祖先の可能性も考えられる。しかし、現況は草茫々であり、萬葉集1番歌の雄略たちが菜採りを楽しんだような風景を偲ばせないのが残念。
大陸からわが国へ流れついた人々の伝説を書いた書物は記紀をはじめ様々あるが、中でも特に『古代倭王の正体』という小林惠子氏の書いた文章が正鵠を得ていると理解するのでそれを紹介してみたい。五五四年(欽明十五)の出来事である。
《・・・・・・何も知らない聖王(欽明天皇)は餘昌を救援するため、五五四年七月、自ら兵を率いて出陣途中、名もない新羅の伏兵に殺された。しかも斬首だったので聖王自身は大いに嘆いたという。(中略)・・・・・・私見では餘昌は聖王の跡目を継いで百済の威コ王になり、同時に敏達天皇として倭王を兼任する。しかし、『日本書紀』では、聖王死後も欽明朝が続いたことになっている。倭国の稲目(曽我)は聖王の死後も欽明朝が続いていることにして、百済の威コ王が倭王を兼任することを許さなかった。稲目は餘昌に一抹の疑いを持っていたのかもしれない。
稲目が餘昌を疑ったのは当然だった。餘昌は新羅と内通していた可能性がある。北漢山(ソウル市)は長年百済と新羅が帰属を巡って争っていた。ところが聖王が殺された翌五五五年真興王は北漢山(ソウル)を新羅のものであることを確定している。真興王は餘昌を説得して聖王を殺し、餘昌の百済王即位を支持する条件として北漢山(ソウル)を確保したのかも知れない。聖王(欽明天皇)が殺されると、聖王には子がいたにもかかわらず、元子とある遺徳王が百済王を継承した。(元子とあるときは血統の繋がらない継承をいう。)
継体の嫡男の欽明は早くから百済王になっていたが、弟の真興王が新羅王になったときから、加羅・任那の帰属を巡って争った。そこに高句麗の内紛が起きたのだが、両者は協力して小天人側に立った。小天人側が破れ、一族は倭国に亡命した。》と、ある。
> 7月9日 (紀伊風土記の丘館長講座)の受講生から出たマレーの質問について、<
マレー人(マレーじん)とは、本来はマレー半島、スマトラ島東海岸、ボルネオ島沿岸部などに住んでマレー語を話し、マレー人と自称する人々(民族)のことを指し、マレー語ではムラユ Melayu と呼ぶ。漢字では馬来人と表記した。移住により南アフリカの人種構成にも影響を与えた。広義にはマレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、フィリピン、タイ南部、カンボジアの一部など東南アジア島嶼部(マレー諸島)の国々に住む人々の総称であるが、これは人種的な意味(南方系古モンゴロイドのインドシナ人種とオーストラロイドの混血であるインドネシア・マレー人種)で用いることが多い。
プロトマレーはオーストロネシア人を起源としており、起元前2500年〜紀元前1500年の間の長期にわたる移動の末、マレー半島に移住した。 The Encyclopedia of Malaysia: Early Historyには、マレー人の起源について、3つの説が記載されている
雲南説(メコン川移住説)(1889年出版)- プロトマレーは雲南に起源を持つという説は R.H Geldern, J.H.C Kern, J.R Foster, J.R Logen, Slamet Muljana, Asmah Haji Omarによって支持されている。この仮説を支持する他の証拠として、マレー半島で見つかったの石器が中央アジアのものとよく似ていること、マレー人の習慣がアッサム地方の習慣によく似ていることがある。
船乗り説(スンダ説)(1965年出版)- プロトマレーは海洋事情に精通し、かつ農業技術を持った船乗りであると信じられている。彼らは広大な海洋を島から島へ長距離航海し、今日のニュージーランド、マダガスカルまで至った。そして、彼らは2000年近くにわたり、案内役、船員、労働者としてインド人、ペルシャ人、中国人の貿易に従事した。長年にわたって、彼らは多くの土地に定住し、多くの文化、信仰を取り入れた。
台湾説(1997年出版)- 中国南部からの集団の移住が6000年前にあり、一部が台湾に移動(今日の台湾先住民がその台湾子孫)し、その後フィリピン、ボルネオ(およそ4500年前)(今日のダヤク族他)に至った。この集団はさらに分かれ、スラウェシ、ジャワ、スマトラへ至った。彼らはオーストロネシア語族に属す言語を話す。マレー半島に至ったのは最後であり、およそ3000年前のことである。ボルネオからは一部集団が
Campa(今日のベトナム中南部)に約4500年前に移住した。ドンソン文化の担い手やホアビンヒアン文化の担い手がベトナムやカンボジアから移住してきた痕跡も存在する。これらの集団はみな、台湾起源の遺伝子と言語を有しており、台湾(先住民)の集団は中国南部に起源をたどることができる<。
第二波マレー人
第二波マレー人は青銅器時代にプロトマレーに続いてやってきたオーストロネシア人である。彼らはより高度な農耕技術と冶金に関する新たな知識を携えていた。第二波マレー人は、先住者とは異なり遊牧民ではなく、en:kampongに定住した。彼らの暮らしは普段は河川沿いや海岸沿いに適合したものであり、概して、自給自足を行っていた。 紀元前1世紀の終わりまでに、kampongsは外の世界との交易を開始した[13]。第二波マレー人は今日のマレー人の直接の祖先と考えられている。
現代のマレー人の遺伝子研究は、マレー人が複雑な遺伝的混合を経ていることを示している。遺伝子分析からは、マレー人は遺伝的に多様であり、内部の集団間で相当な変異があることが明らかになった。変異は長期間にわたる地理的隔離と独立した混合によっておこった可能性が考えられる。研究からは、典型的な単一の遺伝子構成ではなく、4つの祖先(オーストロネシア人、プロトマレー、東アジア人、南アジア人)に由来する構成成分をもつことが示されている。マレー人の遺伝子を構成する最も大きな成分はオーストロネシア系先住民とプロトマレー由来のものである[15]。オーストロネシア人の構成成分は台湾のアミ族やアタヤル族の人々と関連があり、東南アジア人のオーストロネシア系成分の遺伝子分析からは「出台湾」説が支持される。一方でその成分の多くは土着のものであり、台湾由来のものはもっと少ないと主張する人もいる。プロトマレーは雲南から移住してきたことが遺伝的に証明されており、それは4000-6000年前である。南アジア人 インド人との混合は古代(インドネシア・マレー人の一部では2250年前と推定されている)と考えられる。一方で東アジア人(中国人)との混合は最近(100-200年前)と考えられるが、ジャワでは一部15世紀よりも前に起こったようである。その他にも少数の構成成分として、ネグリト(マレー半島の先住民)や中央アジア人やヨーロッパ人があり、彼らとの混合は175-1,500年前に起こったと推定される 。マレー人内においても、マレー半島の南部と北部で遺伝的にクラスターが異なっている。
言葉に残る海洋民族の足跡
私たちが何気なく話している日本語のなかにも、オーストロネシア人が残してくれた置き土産があります。この記事でも使った「人々」や「いろいろ」「日々」といった、言葉を重ねることで強調や複数形を表す語法は、日本語とオーストロネシア諸語の分かりやすい共通点でしょう。例えばインドネシア語で本は「buku」、複数の本は「buku-buku」です。フィリピンのタガログ語で「日」を意味する「araw」を重ねて「araw-araw」とすれば「毎日」になります。
ほかにも音韻や接頭辞の存在、語彙での共通点についても国内外の研究者から指摘されていて、韓国語に通じる北方の言語とオーストロネシア系の言葉が融合して日本語が出来上がったという説がかなり有力です。
日常生活のなかで、誰かが「日本人なのによくフィリピン人と間違われるんだよね」とぼやく場面に出くわすことは珍しくありませんが、それが不思議でないことはもうお分かりですね。「内向き」と言われて久しい我々日本人の中にも、カヌーに乗ってマダガスカルやイースターに到達した海洋民族の血が流れているのです。
何所尓可 船泊為良武 安礼乃埼 榜多味行之 棚無小舟 萬葉集1−58
昨日7月9日に続き10日も紀伊風土記の丘の講座に参加しました。
和歌山県元教育丁の黒石氏の横穴式石室のお話を拝聴しました。そして、日本にもコーンウォールによく似た形状をした墓のあることに気付きました。塚穴山古墳といって天理高校の敷地の埋蔵物です。アーチェリーの練習場がありその矢で身体を射貫かれないように注意が必要です。
また、最大のトピックスは、和歌山県教育丁瀬谷氏の昭和40年に関西大学が発掘調査済みの寺内18号墳から子どもの石棺らしきものをみつけたという秘話でした。これは国の許可を得られれば、中の様子も調べることが可能になります。このように学芸員たちが一生懸命調査をすれば、関西大学などが発掘調査を完了していると述べている古墳の中に新たな発見があるのですね。感激、感激、。 そこで一首献上。
新 年乃始乃 波都波流能 家布敷流古墳 伊夜之家餘其騰
<
※塚穴山古墳は、天理高校の敷地になります。墳丘に立ち入る際には必ず一声かけましょう。
I wold cotend that selection is not an event,
but a multi-stranded and drawnout ptoces
that plays out in the social sphere as much
as the economic or technorogicalones (nomore
assassination!)。
阿部晋三が暗殺されたそのときわたしは伊藤博文の暗殺がだぶった.
●伊藤博文とは
伊藤博文は1841年(天保12)9月2日、周防国熊毛郡の農家に生まれた。幼名は利助、のち俊輔。父十蔵が足軽の伊藤家を継いだため、士分となり、吉田松陰の松下村塾に学び、兄貴分の高杉晋作とともに尊王攘夷運動を行うも、藩命によってイギリスに留学。ロンドンで米英仏蘭四国連合艦隊の長州藩攻撃を知って帰国、藩主らに開国への転換を説いた。高杉の挙兵に加わって藩内の勢力争いに勝ち抜き明治維新を迎える。 明治政府の外国事務掛、参与兼外国事務局判事、兵庫県知事から大蔵少輔兼民部少輔となり貨幣制度の改革を行った。征韓論争では大久保利通、木戸孝允を支持し、士族反乱や西南戦争後、大久保の後を受けて内務卿、1885年には太政官にかえて内閣制度を創設し、初代首相に就任した。その後4回首相に就任し、退任後も元老として明治国家の建設を主導、政党政治を構想して1900年(明治33)には立憲政友会を結成し、その総裁となるとともに華族としては最高位の公爵に任じられた。 日清日露の戦役を乗り切り1905年韓国統監府が設置されると、初代統監に就任する。そして運命の明治42年(1909)10月26日、伊藤は満州・朝鮮問題について、ロシア蔵相ウラジミール・ココツェフと非公式会談に臨むため、ハルビン駅に到着した。日本側の列車を訪れたココツェフと歓談、宴席が用意されたロシア側列車に移動しようとしたとき、3発の銃弾が伊藤の胸腹部を貫いた。直ちに駅舎に運び込まれ、医師が応急手当てを行ったが、30分後に逝去した。享年68。狙撃犯は韓国の独立運動家、安重根だった。 彼は今回の安倍元首相暗殺犯と同じように群衆に紛れて接近し、至近距離から発砲した後に逃走も抵抗もせず逮捕された。当時、韓国は日本の保護国となっており、これを統治する韓国統監が伊藤だったため、独立運動家は伊藤を目の敵にしていたのだった。 しかし、皮肉なことに伊藤自身は日韓の併合には消極的であり、彼の死後に後を継いだ寺内正毅統監と李完用首相によって「韓国併合ニ関スル条約」が締結されたのだった。韓国独立を願った暗殺が、逆に日韓併合を進めたことになる。ただ、当時の大日本帝国政府は韓国の李王家を日本の皇族に準ずる扱いとし、大規模な経済支援とインフラの整備、京城帝国大学を筆頭とする教育の充実を図り、李朝300年の停滞が一挙に近代化したことは否めない。 一方では、古くからの独立国としてのプライド高い朝鮮半島の人々を政治的文化的に併合したことで今に残る反感をかっている。苦労人の伊藤にはそういった機微がわかっていて、あえて保護国以上の関係は望まなかったのだろう。 安重根によるブローニング拳銃の弾丸は小口径であり、心臓や脳などの急所は外れていたために伊藤が亡くなるまでに、少し時間があった。伊藤は犯人が独立運動家と聞いて「なんと馬鹿な奴だ」と言ったという。 現代であれば、すぐに救命救急センターに搬送して手術ができたであろうから残念でならない。安重根の思い込みがなく、仮に銃撃を受けても伊藤の生命が助かっていれば現代にいたる日韓日朝関係も違ったものになっていたかもしれない。
その一方で『乙未事変(閔妃暗殺事件のこと)』もわれわれは決して忘却してはならない。1895年10月8日
● その原因として注目されたい。
近鉄西大寺駅 南口駅前広場について
(1) 区画整理の変遷
昭和63年当時、大和西大寺駅南側は計画的ではないミニ開発が進行していたが、市の区画整理により、平成3年に本格的な整備工事に着手し、駅周辺の仮換地ではマンションや住宅が多数建設される。
?(1)近鉄駅北地区第一種市街地再開発事業
昭和63年4月1日
都市計画決定
平成10年3月
建設省が策定した公共事業再評価実施要項に基づき再評価を実施。
平成10年12月
市として事業の見直しを奈良県公共事業評価監視委員会に諮問。
平成11年3月24日
奈良県公共事業評価監視委員会により事業の中止が承認。委員会から再開発に代わるべき計画を検討するよう指摘を受ける。
平成22年8月3日
北口駅前広場について約5,000平方メートルから約4,000平方メートルに都市計画変更。
(2)近鉄西大寺駅北口駅前広場事業
平成24年12月24日
奈良県知事が事業を認可
令和5年3月31日
北口駅前広場完成予定
(3)南北自由通路事業
平成29年11月
南北自由通路着工
令和元年6月
南口駅前広場着工
令和2年4月
南北自由通路一部供用開始
令和3年3月
南北自由通路完成
令和5年3月
北口駅前広場完了(予定)
近鉄西大寺駅南土地区画整理事業完了(予定)
Shinzo's speech is from the standpoint of
a real estate company or the standpoint of
aboriginal people that is the question.
国際ソロプチミスト奈良は、奈良市が今春整備を完了した近鉄大和西大寺駅南口駅前広場に時計塔を寄贈した。9日、贈呈式が行われ、高松洋子会長が仲川げん市長に目録を手渡した。
仲川市長は「時計塔は県内観光のターミナル駅としてふさわしいもの。ありがたい」と話した。
時計塔は台座を含めて約260万円。太陽光発電を利用した電波時計で電池交換などは不要だという。
※高市早苗氏のコメント!
《ご自身の美談に利用されるのはどうかと思います。医療者が家族でない一部下の判断で蘇生を決めることはありません。医師がご家族と連絡取れるまでor到着までご家族が希望された場合、蘇生処置します。》
しかし、1999年12月28日丸谷康政が日赤において、家内が到着したとき、国境なき医師団参加の医師すでに蘇生をされていた。『アジャパーWEST』第3号の記事の中で書いている。
この画像を彼のツィッターの他の動画と比較しながらみれば、警備員たちは必ずや安倍晋三氏の暗殺は必然の行為だと判断できることでしょう。
No one told Mr. Abe that he would be killed.
讃岐狭<岑>嶋視石中死人柿本朝臣人麻呂作歌一首[并短歌]万葉集220
この柿本人麻呂の長歌は、考古学的に参考となるだろう。
玉藻吉 讃岐國者 國柄加 雖見不飽 神柄加 幾許貴寸
天地 日月與共 満将行 神乃御面跡 次来 中乃水門従
<船>浮而 吾榜来者 時風 雲居尓吹尓 奥見者
跡位浪立 邊見者 白浪散動 鯨魚取 海乎恐 行<船>乃
梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭<岑>之嶋乃
荒礒面尓 廬作而見者 浪音乃 茂濱邊乎 敷妙乃
枕尓為而 荒床 自伏君之 家知者 徃而毛将告
妻知者 来毛問益乎 玉桙之 道太尓不知 欝悒久
待加戀良武 愛伎妻等者
玉藻よし 讃岐の国は 国からか 見れども飽かぬ
神からか ここだ貴き 天地 日月とともに 足り行かむ
神の御面と 継ぎ来る 那珂の港ゆ 船浮けて 我が漕ぎ来れば
時つ風 雲居に吹くに 沖見れば とゐ波立ち 辺見れば
白波騒く 鯨魚取り 海を畏み 行く船の 梶引き折りて
をちこちの 島は多けど 名ぐはし 狭岑の島の
荒磯面に 廬りて見れば 波の音の 繁き浜辺を 敷栲の 枕になして 荒床に
ころ臥す君が 家知らば 行きても告げむ 妻知らば 来も問はましを
玉桙の 道だに知らず おほほしく 待ちか恋ふらむ
はしき妻らは
藻が美しい讃岐の国は風光明媚な土地柄、見れども見れども飽きがこない。神々しい風格が備わっていて、天地も日月も貴く満ち足りている。神のように美しい顔を備えている。その那珂の港から船を浮かべて漕いでやってきた。すると時ならぬ風が雲の浮かぶ辺りから吹いてきた。沖の方を見ると波がうねり立ち、岸辺には白波が騒ぎ立っている。その恐ろしい海を梶が折れんばかりに船を漕ぎ進める。あちこちに多くの島が浮かんでいるが、霊妙な名を持つ狭岑の島(沙弥島)の荒磯に漕ぎつけてみた。すると、波音が激しい浜辺に真っ白な石を枕にしてその荒れ床に横たわっている人がいるではないか。この人の家が分かっていれば、行って告げ知らせもしように。妻が知ればやって来て声をかけようものを。が、ここに来る道も知らない妻はぼんやりと待ちに待っているだろうな愛しい妻は。
2022 08 04
昭和の終わり!
7月30日 発熱して娘に付き添われコロナ感染のpcrを受けると陰性。 その後点滴を受けることができた。ところが、、、、、その後クリニックとの問題で医師や娘の医療感と以前私を診てくださった医師たちとの相違がある。とりわけ娘は看護師をしてから、自分を医師と勘違いしているようだ。何を考えているのかわからない。令和の医療はこいつらが主導するのか、。
組織された資本主義
ーやったもん勝ち!ー棄民(奴婢)たちの見えない抹殺者たちは誰だ。
● 古代奈良の都市化
石舞台古墳をはじめとする奈良の都市化は1956年頃から始まったように記憶している。(ちなみに100万円を1年間郵便局へ定期預金するとその利子が複利で8万あった時代である。》
後にも述べるが安倍晋三さんの演説した地点は都市計画道路の計画地。このころから西大寺駅は交通の要所であった。《・・・・・・大阪や京都から私鉄でほぼ30分、奈良県にはいり、西大寺駅で下車する。東へ10分も歩くと平城京だ。駅からの道路の両側には商店がたちならび、奈良市西都のショッピングセンターとなっている。宮跡の周辺は住宅地で埋めつくされつつある。二十五年まえ、平城宮跡の本格的発掘調査が開始されたころ、駅から宮跡までの道は、ほとんどが水田と畠のなかだった。二十五年間の変貌は大きい。この都市化のなかで、平城宮跡は二度破壊の危機に直面した。(中略)》ここに19567年4月18日の参議員文教委員会の内容がある。
小林武参議院議長 ・・・・・・委員長ならびに文部大臣に特に申し入れておきたいのですが、・・・・・・平城宮の問題については、・・・・・・東一坊大路のところの道路が、調査によって多少くいちがって、実際はもっと別にそれが折れ曲がっておるという・・・・・・従来の文献上にあける場合の史跡というものが変化をきたしておることが明らかになっておるようにおもう。・・・・・・後刻私のほうでお伺いして。・・・・・・文化財保護委員会にいきましたら、あれはこうなっておるという事情だけは、はっきり説明していただきたい。・・・・・・(1967年6月22日参議院文教委員会)
小林武参議院議長。・・・・・・このバイパスが問題なのは、・・・・・・平城宮跡のわきのほうに、東一坊のところに、発掘によって新たな予想しない事実がおこったんでしょう。その点についてひとつ説明してもらいたい。
村山松雄文化財保護委員会事務局長 国道二十四号バイパス問題は、だいたい、昭和三十九年ごろから話がありまして、・・・・・・昨年ごろの結論では、平城宮跡のそばに道路を通すとすれば、・・・・・・平城宮跡東側のの旧東一坊大路は、古来これは道路であるから、それを拡張して近代的な道路にするということは、被害を最小限度にとどめる路線設定としてはまあ一番いいのではないかということで、道路建設計画につきましては基本的に了承いたしまして、路線予定地の調査を開始したわけであります。調査の結果
・・・・・・この東一坊大路は、ある時期道路以外のものに転用されておる疑いがある。・・・・・・平城京そのものが・・・・・・従来、境界と考えられたところを越えて、東側に広がっている可能性がある。・・・・・・現在路線を変更するというようなことについて、必ずしも断定せずに、さらに調査を進めて、道路を作るとすれば、一番無難なところはどこか、という線でやってまいろうと思っているのが現実であります。
小林武参議院議長・・・・・・建設省は・・・・・・奈良の平城宮のバイパスの問題はどういう考えをもっているのですか。
三輪健二郎建設省道路局長 24号線の奈良バイパスにつきましては、・・・・・・いろいろな各案について検討した結果、現在の線が一番いいというところで、・・・・・・バイパスをつくるということになったしだいでございます。現在われわれの考えとしては、その線でぜひバイパスをやらしていただきたい。そういうふうに考えております。(1967年7月20日参議院建設委員会)
大森久治参議院議員(近畿電気工事取締役1961年)・・・・・・奈良バイパスの場合には・・・・・・この工事をすでに進めることに話が決まっておるのであります。しかるに、しかるに、・・・・・・建設省はいまだに右顧左眄しておるということは、どういう理由であるか承りたい。
三輪健二郎建設省道路局長・・・・・・文化財保護委員会と打ち合わせをしてできるだけ早く、これを推進をはかっていきたいと考えております。
● 平城京の実態
あをによし 奈良の都は咲く花の 匂ふがごとく
今盛りなり
平城京に始まり、結局は平城京に戻ることになるこの一連の遷都を行ったのは、この時代を代表する天皇、聖武天皇(在位724-749)である。
【
平城京(710)ー山背恭仁京(740)ー難波宮(744)ー近江紫香楽宮(744)ー平城京(745)】
長屋王の変(729)藤原四子の病死(737)藤原広嗣の乱(740)橘諸兄の失脚(756)などの政変に影響力を及ぼすこと
平城京の京城内においてこれまで発掘調査を実施した地点にうち、坪のなかの宅地割りの状況を推定できる手がかりがえられたのは、左京四条四坊をふくめて、わずか十五か所ほどにすぎない。その原因の ひとつとして、発掘調査が各種の開発事業の事前に実施されたものがほとんどであり、独自の計画をたてにくいし、小規模なものが多くならざるを得ない事がある。加えて、これまでの京域内の発掘調査で街路 の実態を追求することによって、平城京都市計画を解明しようとした意図が強力にはたらいたことにもよる。ゆえに、坪の中央部分よりについては、坪の周辺と街路との関係の判明するところを重点的に発掘調査 しようとする傾向があった。しかも、その15か所ほどのデータは、平城宮に近い北よりのものが多く、京の南辺に近いものは僅少で、その中間付近も少なく、とくに六条や七条については、宅地割が判明した例は 皆無なのである。このような僅かなデータにより、平城京の宅地割の実態をうかがわざるをえない実情である、
平城京のなかに居住、あるいは籍をおいていた人物で、その名前と場所が判明しているものは、わずか110名ほどにすぎない。多くは『正倉院文書』から復原できるものである。そのうち、位をもつものは、51 名.五位以上の高官は、五条以北に限定され、六条以南には居ない。しかし、六位以下の官位のものが五条以北に居なかったわけではない。その例として、782年(天平二十)に左京一条三坊に居た正七位下の 大原真人今城なる人物が奴婢を売買した記録を残している。ここは平城宮に近く、京の最北辺の地で、正七位下の官位をもつふつうの人が殿上人でもないのに住んでいたとは考えにくい。事実この大原真人今 城は、下級官吏などにあらず、今城王と呼称された王族で、天武天皇の孫で最後に従五位の官位を得ている。あるいは、無為の平民らしいものの記録も五条以北にある。そのなかには、従者や召使など、高位高 官の生活を支えるためにそこに居住していたものも多かったと思うのであり、ゆえに六位以下、あるいは無官のものが五条以北に住んでいたと記録されていることはそれほどの問題ではなかろう。それより、五位 以上の官位の者たちが六条以南に記録されていないことに着目すべきであろう。
わずかな発掘調査データと文献資料とではあるが、両者のしめすところがこのように符号するにであるから、さらに敷衍すれば、平城京の宅地の基準を考察する際に、藤原京の宅地支給基準として詔勅のなか で示されているものを参考にしてよいと、あるいは、京域内に本籍をもつ人物では、無論例外もあろうが、ほぼその本籍地が居住地と一致している可能性が高いこと、これら二点の推測の参考となることだろう。
● 阿部晋三氏の演説内容は、道路拡大に賛成派であったのか、反対派に有利であったのかが問題である。
2022年(令和4年)7月8日11時31分頃、奈良県奈良市の近鉄大和西大寺駅北口付近にて、元内閣総理大臣の安倍晋三が選挙演説中に銃撃され死亡した。銃撃犯は統一教会と阿部晋三氏を関連してその同期としているが、私の考えでは、見えない声の力が働いているのだと感ずる。最近になり現場がどういう場所なのか少し報道し始めた、安倍晋三氏が報道のことをプロパガンダと言っていたのをおもいだす。そのプロパガンダによれば、
《市は事件前から駅周辺の整備事業を進めていた。市は事件後、ガードレール周辺を歩道にして慰霊碑を設ける案や、緑地帯にして現場を保存する案を検討。有識者や地域住民にも考えを聞いていた。その結果、事件を想起させるようなものは置かないでほしいという声が多く集まったほか、歩行者や車の通行に支障となるような整備は避けるべきだとの意見が寄せられた。こうした意見を踏まえ、市は2023年3月の完了を目指している従来の整備計画を変更せず、車道にすることを決めたという。一方、近くの歩道は拡幅して花壇を設け、事件を追悼する人が黙とうをささげやすくするとした。》
と、ある。どうやら安倍晋三氏がやってきたところは、行政のシンジケートたちが暗躍する場所だったのである。いったい誰がヒットマンを雇ったのか?
その時の様子をフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)は詳しくわれわれに対して知らしてくれている。
事件当日は第26回参議院議員通常選挙(2022年6月22日公示[16]・7月10日投開票[17])の選挙期間中で、安倍は連日、自由民主党(以下、自民党)公認の立候補者の応援演説を行っていた[18]。
安倍は7月8日夕方に長野駅前で、長野県選挙区に出馬した自民党の新人・松山三四六の応援に入る予定であった[19][20]。ところが、6日に松山の女性問題や金銭トラブルを週刊誌2誌が電子版で記事にした[21][22]ことから、7日、応援演説は取り止めとなった。終盤の情勢調査で立憲民主党や日本維新の会の候補との接戦が報じられていた奈良県選挙区が選ばれ、安倍の遊説先は長野から奈良に変更された[23][24]。7日12時50分頃、自民党奈良県連[注 3]は、奈良県警にその旨を伝えた[1][26]。
奈良県選挙区に立候補していた自民党の現職・佐藤啓は8日午前、近鉄学園前駅の界隈を選挙カーで回る計画だったが、奈良1区の小林茂樹のスタッフと話し合い、場所を近鉄大和西大寺駅北口に差し替えた[23][24]。関係者はのちに「平日の昼間でも人が集まる場所。それがどこかと考えれば、大和西大寺駅北口しかなかった」「安倍さんクラスが来るのに、聴衆が少ないのは避けたかった」と証言している[24]。
安倍が選挙期間中に奈良県に入るのは2度目で、6月28日に大和西大寺駅南口と、近鉄生駒駅前の2か所で演説を行っていた[27][28]。読売新聞の報道によれば、安倍派に所属する佐藤から会長の安倍に直接応援要請があったとも言われている[29]。
京都府選挙区新人の吉井章の選挙対策本部長を務めていた安倍派の西田昌司も、かねてより安倍の来援を要請していた。奈良入りに次いで、京都にも応援に入ることが決まった[30][31][32]。吉井は7日15時48分、Twitterを更新。「安倍晋三元首相来る! 7月8日12時30分、四条河原町にて」と書かれた画像を掲載した[31]。安倍は8日夕方に自派閥の山谷えり子の応援演説をすることが以前から決まっていたが[33]、これは据え置かれた。こうして、8日の安倍の遊説先は奈良、京都、埼玉の3府県に確定した[34][35][36]。
7日16時半頃、自民党県連は、大和西大寺駅北口で街頭演説を行う旨を奈良県警に伝えた[1]。
佐藤陣営の選挙カーは車上から演説できる構造になっていなかったため、陣営は勘案した結果、交差点中央のガードレールで囲まれた約50平方メートルの安全地帯で演説することを決めた[23]。ここは自民党幹事長の茂木敏充が6月25日に応援演説した場所でもあった[30][37]。7日17時過ぎ、自民系の地元議員に、安倍来訪の案内をファックスで一斉に送信[38]。自民党は特設ウェブサイトにおいて党役員の演説会スケジュールを随時更新しており、安倍の8日の予定もほどなく公表された[39][35][注 4]。
大和西大寺駅周辺を管轄する奈良西警察署はその頃、署内で発生した不祥事の対応に追われていた[41][注 5]。知らせを受けた7日、奈良西警察署は、翌8日の不祥事事案の報道発表に向けて、県警本部と調整を行っていた。不祥事事案の業務と並行して、急いで演説会の警護警備計画の策定に取り掛かり、陣営スタッフとともに現場を訪れ、安倍が立つ位置などを確認した。当初、奈良県警が警備警護計画の策定に取り掛かったのは「夕方から」とされていたが[41][23]、8月25日に警察庁がまとめた検証結果の報告書によって「19時頃から」に修正された。すなわち自民党奈良県連が「演説場所を駅北口の交差点中央のガードレールで囲まれた安全地帯とする」旨を県警に伝えたのはその日の19時頃であったためであり、これらは警察庁の報告書により初めて明らかとされた[1]。
立憲民主党代表の泉健太が同年4月に同じ場所で演説したいと申し出たときは、県警は「後方の警備が難しい」と指摘し、あわせて、車の上で演説することや、車を防弾パネルで覆うことなどを要請した。そのため泉はやむを得ず少し離れた場所で演説を行った[45]。県警の警備課は、6月25日に茂木が演説した際に策定された「警護警備実施計画」を基に、配置する警察官をわずかに増やして、計画書を作成した。演説会当日7月8日の執務時間が始まった直後に、警護の統括責任者である警備部参事官に「警護警備実施計画」を提出。警備部長、鬼塚友章本部長の順に決裁された[46][23][26]。
7月8日10時5分、安倍は羽田発の航空便で伊丹空港に到着した[47]。
11時10分、佐藤の街頭演説会が開始[48]。演説会は大和西大寺駅北口から東に50メートルほど離れた、交差点中央のガードレールで囲まれた安全地帯(ゼブラゾーン)で行われた。安全地帯の真南には県道104号谷田奈良線が通っていた。駐車スペースがないため、選挙カーは安全地帯から北に約20メートル離れた場所に止められた[23]。実行犯の男は、演壇の右斜め後ろ(南東)約15メートルの歩道に立っていた[49]。
演説台のそばでは、警視庁警備部警護課のSP1人を含む4人の警察官が警護に当たっていた。そのうち3人(県警の警察官2人とSP1人)はガードレールの内側におり、1人はガードレールの南東の外側で後方を警戒していた[50][51]。県警の長年の前例を踏襲し、現場には制服警察官は配置されなかった[52]。自民党県連は聴衆の整理のため、スタッフ15人を配置していた[36]。また佐藤陣営は、県道104号谷田奈良線の交通量が多いため、5人の警備員を雇って交通整理に当たっていた[52]。
11時18分14秒頃、安倍は警察官とともにガードレールの内側に到着[1][53]。安倍が姿を現すと、前方の聴衆が増え始める。
11時23分25秒頃、佐藤自身による演説が開始。ガードレール内にいた県警の警察官は、後方の警戒を担当していた警察官に対し、11時26分頃までにガードレール内に入るよう指示[1]。後方担当の警察官は聴衆が増えてきた前方右手(東側)の警戒を主に行った[54]。他の場所にいた統括役の警察官には、この変更は無線で伝えられなかった。そして後方だけを警戒する警察官がいなくなった[55][50]。
11時28分42秒頃、安倍は佐藤とグータッチを交わしたあと、高さ約40センチメートルの台の上で、駅のロータリーを背に応援演説を開始[1][56]。被疑者の男はその直前に歩道と車道の切れ目あたりに移動した。
11時29分51秒頃、被疑者の男は歩道角で周囲を見渡していたが、午前11時30分0秒頃から、バスロータリー沿いの歩道を、徒歩でゆっくりと南進し始めた。
11時30分18秒、安倍の真後ろにいた選挙スタッフの男性が演壇の右方向(東方向)に移動し、脇から安倍をカメラで撮影。このため安倍の後ろががら空きになった[57][49][15]。
11時30分43秒頃、自転車に乗った男性が車道を東進し、ゼブラゾーンにさしかかる。男性は同51秒頃、ゼブラゾーン上に一時停車し、その後、再び低速で東進した。また、台車を押す男性が車道を東進し、ゼブラゾーンに到達。同58秒頃、自転車の男性の南側を追い抜いて通行した。後方担当の警察官は、この男性2人の姿に気を取られ、目で追っていたために、斜め後ろから被疑者が近づいてきたことに気付かなかった[1][57][58]。
11時30分56秒頃までに被疑者はロータリーに侵入[56]。11時31分頃、被疑者は左右を確認することなく、車道を横断し、車道のセンターラインを超えたあたりで立ち止まった[59]。
11時31分3秒頃[56]、被疑者は演壇に近づきながら、たすきがけの黒いカバンから、筒状の銃身を粘着テープで巻いた手製の拳銃[注 6]を取り出した。11時31分5秒頃、安倍に照準を合わせた[1]。
11時31分6秒頃[56]、安倍が「彼(佐藤)はできない理由を考えるのではなく…」と語った瞬間、被疑者は1発目を発射した[62]。安倍と被疑者の距離は約7メートルであった[59][63]。1発目は誰にも当たらなかったが、爆破音のような大きな音とともに白煙が上がり[64]、安倍は左後方へ振り返った[53][65][66]。
被疑者は1発目の発射から約2.7秒後の11時31分8秒頃[56]、警察官が止めに入る前に更に安倍に近づいて2発目を発射。この時点で安倍と男の距離は約5メートルであった[63]。2発目は、安倍の首の右前部と左上腕部に着弾する[67][68]。安倍はその場に倒れ込み[69]、意識を失い、心肺停止状態になった[68][70][71]。
警察の調べでは、被疑者が車道に歩き出してから1回目の発射までの間隔は「9.1秒」とされた[72]。警察庁がまとめた報告書により、1発目と2発目の間隔は「2.7秒」とされた[1]。
被疑者は奈良県警に取り押さえられ、11時32分に殺人未遂の現行犯で逮捕された[73]。
● 悠久の古都から暗殺の古都に
夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寝にけらしかも
ご存知でしょうか。舒明天皇の詠まれた一首です、このように鹿の存在は奈良公園付近ではこの時代から有名でした。2010年になってこの地に訪問した時にも春日大社、東大寺、興福寺などや民家のところどころに鹿の姿を見ることができました。かなり都市化の進んだ平城京のなかを鹿が悠然と闊歩していました。たとえ交差点の信号が赤信号になってもそれはおかまいなしに横断し自動車を停止させ続けながら文明への警笛を鳴らしています。鹿を見つけすぐさま生命を尊重し停止するドライバー!ある人は「奈良公園だから」と、いいます。しかし、交通ルールよりも鹿の生命を重視したドライバーやこの様子をあからさまにした人々に対してここ悠久の古都では鹿を使った生命の情操教育をわれわれに対して問い続けてくれるところでもあるのです。ところが、こんかい安倍晋三氏がこの地において暗殺されたせいで古都奈良は暗殺者のいる街だということを世界中のひたびとに知らしめたようです。道路の権力の闇の力が!
p style="line-height: 100%; margin-bottom:
0cm"> 生命と自転車
社会的な共同体の外的な秩序が国家という文化的共同体の姿をとるようになると、そうした外的な秩序はどこでも、」野蛮な権力でしか維持できなくなるのは明白である。この権力は正義などといったものにはたんなる名目であり、そして、国家理性が許す範囲でときおり配慮するにすぎない。この権力は内部に向かっても外部に向かっても、つねに新しい暴力的行為を生み出すのであり、それを弁明するために不誠実なる言い訳を作り出す。 マックスウェーバー
ルサンチマンから融和への努力
自転車を「自転車に関わる者」といった者をひとくくりで考えますと、その数の多くに驚愕することでしょう。まずはじめに想起させられることは、日本全国に何万人という利用者が居るということでした。しかし、このだれもかもが環境のこと、健康のこと、経済効果のことなどを考えながら自転車店を訪れることは稀有です。それに加えて、国の機関(国土交通省、経済産業省、環境省、内閣府、総務省、厚生労働省、警察庁、国家公安委員会など)、加えて、市区町村、企業、自転車メーカー、自転車ショップ、量販店、駐輪場の設計、運営者,自転車協会、自転車防犯協会、保険会社、BAAなど数え切れない程の数が存在します。しかし、これらを代表する者はつぎつぎに淘汰され、総論賛成各論反対の体制である官僚たちの牙城となってしまい、各々が独自の意見を通すことができなくなったようです。
このイノベーションされた様子を経済学的に解釈しますと、自由ー民主体制の構成部分の空洞化もしくは破壊にむかう傾向といえるでしょう。この時権力が立法府から行政府へとシフトされると同時に公共であるべき機能も転化される傾向がみられます。縄文時代の文化が弥生人に駆逐されるごときです。まさしく『職業としての学問』の著者マックス・ウェーバーが予想し、恐れていた全面的な組織化と官僚体制による個人の自由にたいする脅威のあらわれです。日本国憲法13条に背反することです。
車道に開かれた自転車優先道路はこれに該当する合目的的なお役所の仕事です。まるで青いライン引きが重要なことで自転車の走行する便宜性は無視しているいるようです。実際に便宜性のある道路ではありません。2003年のころにもこのような問題が議論にでています。ここに、日本大学「環境と資源の安全保障」プロジェクトチームの『環境と資源の安全保障47の提言(共立出版2003年12月)』があります。これによりますと、それらの一つとして「自転車利用の促進と自転車走行空間の確保」というのがあります。その中に、《わが国ではサイクリングロードのようなレジャー交通的要素の強い事例はあるものの、都市内における自転車走行空間は歩行空間や自動車の走行空間のなかにわずかに考慮されていたのみで、これまで都市交通の手段としてあつかわれてきたとは言い難い。また、自転車駐輪場の整備についても放置自転車対策としての色彩が強いじょうきょうにある。」と、こんにちの自転車道路の問題点をきっちりと指摘されていますが、いまなお改善された状況ではありません。ちかごろの自転車ブームにのって、国土交通省から「自転車通行空間整備基本方針」が出されました。その中に「自転車と自動車の混在通行の目安」というのがあります。内容は、《基本的には自動車の速度が40km/h以下かつ自動車交通量が4,000台以下の場合に車道混在道路を検討するものとする。ただ、金沢市におけるこれまでの整備実績をふまえて・・・・・・》と、言っていますが、この発案者にいちど和歌山市の県道138号線わかやまのかみ線、とりわけその中で和歌山県庁と宮街道の区間を自転車に乗った状況で完成されてまもない車道混在道路を走行ねがいたく思います。・・・・・・「隗より始めよ」 でまず私が走行しました。そして、まず感じたことですが、この車道混在道路にかかわった者は合目的的な考え優先です。原付バイクの走行をまったく念頭に置いていません。原付は30km/hが最高速度です。ですから時速40km/hの自動車と同じラインを走行不可能です。ですから車道の左端を走行します。もし、自動車の後に張り付いて走行している原付があれば、10kmのスピード違反行為です。このため自動車混在道路の自転車優先道路の自転車道路は原付と自転車が走行るする状況が発生しています。原付と同様に走行できることの不可能な自転車は歩道へと放逐されます。これが、ほどうを無秩序に疾走するBICYCLEと電動自転車のメカニズムです。その結果歩行者と衝突事故が発生しています。この対策として行政は自転車保険の加入を啓発しはじめました。とりわけ自転車店には給付金請求金額の最高が1億円と示談交渉付の保険を販売の最低金額を指定しています(その金額はさまざまな理由で秘密とさせてください)。いまハートバンドに参加されたみなさんはたいせつな肉親の横死に遭遇しお金よりも生命のほうを優先するたかたばかりと理解します。この保険加入のすすめは、まさしく国のルサンチマン対策です。このような諸問題を当店の顧客である神戸学院大学の教員とこの現況を会話すると、その先生の意見は以下のようにおっしゃられました。「それは、法律が一本できるごとに官僚のポストが新しく出来るからです」それが殺人道路が出来た重大な原因のひとつであると合点しました。
風ふけば 岸にかたよる浮き草の、世に逆らわぬ身こそやすけれ 笠井 順
しかし、私は乗り物を利用するかたがた、立法、司法、行政の官僚にこの場を拝借して申し上げます。1978年4月7日第84回国会議員地方行政委員会(木村武千代委員長)に委託された加藤武徳・自治大臣国家公安委員長が説明し浅沼清太郎・警察庁長官の説明を、同年4月26日に、衆議院地方行政委員会、交通安全対策特別委員会の連合委員会が開催され、杉原正警察交通局長の言葉を念頭に入れての運転をお願いします。
「歩道の自転車通行を法律上認めることにしたが、この場合にも、歩行者の通行を妨害するときには一時停止しろ、基本的に徐行を義務付けられている。いつでも、どういう状態のもとでもとまれるスピードで走ってくれという形でしている。」
たとえ杉原氏のような社会的に決定的な意味をもつ方が交替したとしても、この言葉は非常に生命の尊厳を鑑みた重大なものですから自転車運転者は聖書や経典を唱えるがごとくに暗記してから歩道を走行すれば、歩行者とのきっと接触事故が削減できることです。加えて、私は、自動車から逃げ、自己本位の運転で歩道を疾走する可能性のあるハイスピードで走行するおそれの人格者には、売らない、乗せない、空気を入れないという営業スタンスで対抗する店主であることをを誓います。
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5月15日 『手紙』
コロナ菌が弱まったのか、もう国にお金がないのか、会合と飲食が解禁となり約3年の間の休憩でしたが、5月15日に小説『紀の川』」をはじめとした数多の名作を執筆を生み出された書斎を和歌山市駅近くに移築し当時の面影を再現した和歌山有吉佐和子記念館の空間の中に夏目漱石作品をこよなく愛する97歳の高齢者から最小年齢65歳の男女達が恩田先生のご教示を承り創造的な時間をたのしんだ。。これが戦後日本国を支えたひとびとの昭和娯楽の一つではなかろうか。もっともコロナ自粛期間の間に、4名のひとびとが天国へと旅だったのと、2名の方が歩行困難になりやむなく欠席者が出てしまった寂寥感は否めない。
次回は9月11日(月)午後2時30分「有吉佐和子記念館」で『一夜』から徴兵拒否について考察すると『漱石の思い出』の文章は? 可能であれば『猫』6章も読み、『幻の盾』とあわせてロシアとウクライナ戦争について検討します。
6月4日(日) 『女二人のニューギニア』
有吉佐和子記念館2Fに於いて、『女二人のニューギニア』の読書会が開催されたので参加した。恩田先生は、有吉佐和子のニューギニアで過ごしたときの心境について、『東海道中膝栗毛』、太宰治の『佐渡』、古典落語『五人廻し』をあげられ、有吉さんはきっと「来なきゃよかった」と思っていたと講義され、参加者に読後レポートの発言をを求めた。参加者の観想は、原住民のイノベーションに注目。有吉佐和子が原住民テアテアにパンツを履かせると次第に態度が変化したことを指摘。畑中幸子の「パンツはいてから出世したように思いこんだんやろね」225p、このとき私はマラソンのアベベ選手を思い出す。彼はローマオリンピックのマラソンコースを裸足で走って一位になったエチオピア人である。きっと彼は足の裏が相撲取りのようになっていて、シューズを履くと足が痛かったのじゃなかろうか。したがって、ニューギニアのネィテブ達の間には、パンツを有難迷惑と感じた人も居たのではないだろうか、さまざまな事情において。
『吾輩は猫である』
6章いきなりこの章から読んだのでは、一度読んでも、二度よんでも、夏目漱石の『吾輩は猫である』を執筆した意図が理解しにくかったが、「『漱石』」母に愛されなかった子」三浦雅士(岩波新書)にその読解のヒントがあった、三浦氏はこう述べていた『吾輩は猫である』は、自殺物語だと述べ自論をすすめる。
≪『吾輩は猫である』の重要な主題の一つは自殺であることは明らかです。最初から最後まで、自殺の主題が見え隠れする≫という。
ところが、これら学者たちの文章の読み方から真理は永遠に埋もれるだろう。『日本書紀の謎を解く』森博達著によると、
≪「、、、、、、意と事と言とは、みな相称へる物」。宣長のこの定義は正鵠を射当てている。文書を読むとき、書かれている表面的な事柄だけを追いかけても、真実は得れれない。どのように書かれているのかを検討し、なぜ書かれているのかを考察しなければならない。≫と、ある。この考えを念頭に置いて『吾輩は猫である』読んで見たい。
すると、『吾輩は猫である』には、自殺の反語を明治時代のひとびとに告知するものだと考えることで漱石は誰の事件を知ってもらいたかったが見える。第二章の「首掛けの松」「意識下の幽冥界」第三章の「首くくりの力学」と自殺を主題としている。また、『吾輩は猫である』の中ではこう言っている。
≪苦沙弥先生によれば、いずれ自殺もだいぶ研究が進んで科学になり、倫理の代わりに自殺学が正式な学科になろうというのである。迷亭はこれを受けて青年第一に注意すべき義務は自殺であり、己の好むところは他にも施すべきである以上、自殺を一歩展開して他殺にしてもよろしい。ことに苦沙弥先生のごときは生きているのがだいぶ苦痛のように見受けられるから、一刻も早く殺して進ぜるのが諸君の義務である≫
私見であるが、このころ漱石の心模様は、藤村操の死について夜も寝られぬほど煩悶を繰り返してきたと想像できる。
われわれ現代人は戦後教育の標本である。漱石先生のように自分の生徒の死を感情に表すような先生は見受けられない。従って、文章の中に潜む真理の探究心は無い、これは1999年12月29日に丸谷康政が行政事業推進のため『自殺』と風評され殺害された事件の頃の中学の担任をはじめ他の教諭をながめれば容易に判断がつく。漱石の勇気がない。
『吾輩は猫である』は明治時代を生きたひとびとに大層人気であった。それは、漱石の落語スタイルな文章がその時代を生き抜くひとびとのために必要不可欠なものであったものに違いない。多くの人間たちが大本営発表の「他殺」を「自殺」として処理されていたことに対する不満からであろう。
ここで考えられるのは、1901年11月30日足尾銅山古川市兵衛のタメ子、神田川に入水、日本橋神田橋下で発見された事件。1903年5月22日藤村操の華厳の滝飛び降り事件、1904年9月14日益田宗三郎華厳の滝に飛び下り自殺事件である。漱石にてユーモラスに描かれている。なかでも藤村操は漱石が教壇に立ってから一か月めのことで、日本のその趨勢を受け、「新体詩」に読んだり、『吾輩は猫である』(大十章)で藤村の名を挙げた。また、『野分』や『文学論』第一篇第三章においても拘泥している。このことは、漱石と類似した体験をした者ならば深層を探求する興味が沸騰するであろうが、現代の人類にはそこまでの労力はあるまい、藤村操死亡の告知の資料を何ら疑問なくして、ただただ鵜呑みにして、自らが第一発見者であるかのごとく思い込み、ひとびとに自論を展開している。その大本営発表を鵜呑みにした短絡的な自論の一例をここにげてみよう。
しかしながら、『生と死の心模様』 大原健士郎 著によると日本独特の純粋自殺とある。これぞまさに書かれている表面的な事柄だけを追いかけただけのものである。
≪医学生の頃に、倫理学の授業で、「自殺は是か非か」という論文を書かされたことがある。その時私は、ギリシャ哲学者の言葉を引用し、「自殺は人間の特権である」という論旨を展開して、最高得点を獲得した。自殺が多い時代だった。そして我が国の自殺では、他の国にあまりみられないような哲学自殺、あるいは純粋自殺と呼ばれる自殺が多発した。その特徴は自意識の過剰と自我の鈍化であって、同時にそれは自己嫌悪や人間嫌いに発展するものである。社会心理学者の南博は純粋自殺の特徴を次のようにのべている。
「純粋自殺は、たとえば失恋といった表面の動機や傾向がどうあろうとも、自殺行動が純粋な自己否定という意識で行われる点が特徴であり、残された記録は、その純粋さのゆえに、ふつうの自殺者には見られぬ、透明な、拡大した形で、その論理と真理とを、あらわにしている」(『生きる不安の分析』)。
一九〇三(明治三六)年五月二二日に、第一高等学校の藤村操は、大樹を切って、「巌頭の感」という遺書を書きつけ、日光の華厳の滝で、滝つぼに身を投げて死んだ。これがいわゆる純粋自殺のはしりである。厳密にはこれより十年前、北村透谷が明治二七年五月一六日に縊死(いし)した事件がこの種の自殺の先鞭といえるが、藤村の場合は自殺手華々しく、しかも、当時ようやく大衆化してきた新聞がこぞって藤村の自殺を賛美したので、華厳の滝は明治末年の自殺の名所になった。記録によると、栃木県日光町役場の変死者台帳の筆頭には彼の名前が記入され、その動機として「哲学研究のため」と書き込まれた。
大樹の幹には、次のような絶筆が残された。
巖頭之感
彼の遺書は、藤村が純粋に自分で思索をつくして自殺をとげたことを物語り、当時、ようやく解放されて、自発的に自分の頭でもの考え出した明治以後の知識人に大きなショックを与えたのである。記録によると、藤村が投身した一九〇三年から一九一一年までの間に、この滝に投身した者、および未遂で保護されたものは、合わせて二百余名といわれている。
自殺者には、自殺を美化し、合理化する心理が存在する。この傾向は特に若者の自殺に著しい。老人の自殺は死に直行し、「あきらめの自殺」といわれるのに対し、せいねんの自殺は回り道をし、「憧れ自殺」あるいは「アッピール自殺」といわれる。老人の自殺は、手段と場所を選ばないし、既逐率が高い。遺書を残す者も少ないし、書いても短い。それに対して、青年の自殺は、場所と手段を選ぶ。遺書を残す者も多いし、その内容も冗長である。老人に比べて自殺未遂者が多い。≫
『我が生日立ち』昭和41年11月28日、 岩波書店刊に、
≪・藤村操は、明治三十六年五月二十二日、滝壺の絶頂にある楢の大樹に「巌頭之感」と題する一文を彫りつけて投身自殺する。(状況証拠)十六歳十か月
萬有の眞相は唯だ一言にして悉す、曰く、「不可解」。
我この恨を懷いて煩悶、終に死を決するに至る。
既に巖頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし。
始めて知る、大なる悲觀は大なる樂觀に一致するを。
この事件を積極的に取り挙げたのは、黒岩周吾で、五月二十七日の『万朝報』に「少年哲学者を弔す」という一文を掲げた。また、五月二十七日の『万朝報』には、那珂道世の一文が揚げられた。藤村操は那珂通世の甥であった。この文章は、驚きと悲しみの情が「あふれていた。この事件は長く世間を騒がせた。また、模倣するものが続出した、(その後、十数名の学生が華厳の滝で自殺する。)藤村操の妹恭子と結婚した安部能成は、後年つぎのように述べている。「これは他人には分からぬ謎ではあらうが、私には彼の少年らしい学問的大望の幻滅に加へて、失意の跡が見られるうな気がする。」「藤村操の死はたしかに時代的意義を持って居た。日本は明治以来欧米列強の圧迫に囲まれて、富国強兵の一途に進んで来た。一高の籠城主義だとか勤検尚武だとかいふものも、結局は日本のその趨勢の一波にすぎなかった。 (略) ≫
と、書いているが、藤村と女性関係、藤村父のこと、漱石にしかられたあとの家出、『滝口入道』のことなどの解釈が全くなく、大原氏の「自殺説」にはレトリックな感がある。
「厳頭之感」に書かれた(大なる)という表記の単語にについては、「漱石が多様している」等、後世になってさまざまな論説が繰り広げられている。しかし、この銘文「巌頭の感」は、即刻削り取られたという。この物体に反語を残すイメージは、『倫敦塔』のなかの文章へと重なっていく。
水の底、水の底。住まば水の底。深き契り、深く沈めて、永く住まん、君と我。黒髮の、長き亂れ。
藻屑もつれて、ゆるく漾ふ。夢ならぬ夢の命か。暗からぬ暗きあたり
うれし水底。清き吾等に、譏り遠く憂透らず。有耶無耶の心ゆらぎて、愛の影ほの見ゆ。明治三十七年 寺田寅彦宛 はがき
≪ロンドン塔の歴史はポーシャン塔の歴史であって、ポーシャン塔の歴史は、悲惨の歴史である。十四世紀の後半に、エドワードV世の建立にかかるこの三層塔の1階室に入る者は、その入るの瞬間において、古代の遺恨を結晶したる無数の記念を、周囲の壁上に認むるであろう。すべての恨み、すべての憤り、すべての憂いと悲しむみとは、この恨み、この憤り、この憂いと悲しみの極端より生ずる慰藉とともに九十一種の題辞となって、今になお見るものの心を寒からしめている。ひややかなる鉄筆に無精の壁を彫って、わが不運と、定業とを天地の間に刻みつけたる人は、過去という底なし沼に葬られて、むなしき文字のみいつまでも娑婆の光をみる。彼らは強いて自らを愚弄するにあらずやとあやしまれる。世に反語というがある。白というて黒を意味し、小と唱えて大を思わしむ。すべての反語のうち、みずから知らずして、後世に残す反語ほど猛烈なるは、またとあるまい。募けつといい、記念碑といい、賞牌といい、じゅしょうといい、これらが存在するかぎりは、むなしき物質に、ありし夜をしのばしむるの真となるにすぎない≫
≪「あれは奉納のカラスです。、、、、、、(略)、、、、、、」「ええ、あの落書きですか。つまらないことをしたもんで、、、、、、≫
と、書いてあるのを思い出させた。
この事件のあと漱石は『坑夫』を書いた。そして、日本はロシアとの戦争に向かう。乃木希典は203高地にトンネルを掘ったことなどを考慮していたのだろう、漱石は、明治時代に活躍したジャーナリストである。このような不可解な謎解きは、平成、令和人間たちになると、理解出来ないだろうと思う私自身に寂寥感が生まれる。
@ 猫から見た人間社会感、のヘヤースタイルはいろいいろ、そんなに浮き身をやつしてどうするつもりかわからん。そんなにこせこせしてくれと、だれも頼んだわけでもなかろう。自分でかってな用事を手に負えぬほど製造して、苦しい、苦しい、というのは、自分で火をかんかんおこして、暑い、暑いというようなものだ。
A 迷亭の訪問を期待。ふろ場ザアザア水を浴びる者がある。ところへ「奥さん、苦沙弥君はどうしました」と迷亭が風呂場でザアザア水を浴び座敷までずかずか上がって来た。
B 迷亭、苦沙弥の妻の昼寝を髷を見て指摘する。
C 迷亭、屋根の上で卵のフライを試みる。
D 迷亭、土用過ぎの異常気象をハーキュリースの牛に例える。(ハーキュリースはヘラクラスのこと。)
かう暑くては猫といえども遣りきれない。皮をぬいで、肉を脱いで骨だけで涼みたいものだと英吉利のシドニー・スミスとか云う人が苦しかったという云う話があるが、たとい骨だけにならなくともよいから、せめてこの淡灰色の斑入りの毛衣だけはちょっと洗い張りでもするか、もしくは当分の中質にでも入れたい様な気がする
シドニー・スミス(Sydney Smith、1771月22日 - 1845年は、イギリスのウィット、作家、聖公会の聖職者である。彼の精力的な教区の仕事に加えて、彼は彼の執筆と哲学で知られており、エジンバラレビューを設立し、王立研究所で講義していた。
『大食らい子規と明治』によれば、
≪『吾輩は猫である』の(六)に登場する「ハーキュリスの牛」談義。このままでは何のことかわかりませんが、「ハーキュリス」とは「ハーキュリーズ」=「ヘラクレス」のことで、怪物ゲーリュオーンの飼っていた紅い牛と牛の群れを襲います。そして牛を取り戻そうとするゲーリュオーンを退治するのですが、牛を運ぶ途中で寝込んでしまったヘラクレスから鍛冶屋ヴァルカンの子・カークスが牛を盗みました。それをごまかすためにカークスは牛の尻尾を掴んで移動させたため、足音を辿ろうとも見つけることができなかったという話です≫
「ハーキュリスというのは牛飼ででも御座んすか」 「牛飼いじゃありませんよ。牛飼やいろはの亭主じゃあありません」
この「いろは」は、西洋文化の到来に沸く日本で、みんなで鍋をつつくという新しい文明開化のあり方を大衆化し、店を増やしていきました。最盛期には東京市内に22店の牛鍋屋をオープンさせています。この店の売りはハイカラなインテリアで、舶来のガラスをふんだんに使い、注目を浴びました。「いろは」は、東京のいたるところにいろは四十八店を開業することを標榜した店名でした。
経営者は、山城国(現京都市伏見)に生まれた木村荘平で、「いろは大王」と呼ばれました。支店には妾を配し、店の運営を任せました。妾らの競争心を煽って、牛鍋店を互いに競わせたのです。かくして「いろは」は大盛況。荘平は、勢いに乗って温泉付き割烹や日本麦酒醸造(のちのエビスビール)を設立し、政界に打って出ます。
しかし、明治39(1906)年、顎にできたガンで死去。「いろは」は長男の荘蔵が引き継ぎますが、次々と支点が人手に渡り、大正元(1912)年には倒産してしまいました。
明治38年2月25日食牛会があった。
迷亭「そうですとも、でたらめじゃない。ちゃんと証拠があるから、しかたがありませんや、苦沙弥君、君も覚えてるかしれんが、僕らの五,六歳のときまでは、女の子をトウナスのように籠へ入れて、天秤棒でかついで、売って歩いたもんだ。ねえ、きみ」「きみの国じゃどうだか知らないが、静岡じゃ確かにそうだった」「ーしかし、明治三八年の今日、こんなばかなまねをして女の子を売って歩くものなし、目を放して後ろへ担いだほうがけんのんだ、などということも聞かないようだ。だから、ぼくの考えでは、やはり、泰西文明のおかげで、女の品行もよほど進歩したものだろうと断定するのだが、どうだろう、寒月君」
寒月、文明の趨勢を語る「このごろの女は、学校の行きかえりや、合奏会や、慈善会や、園遊会で、ちょいと買ってちょうだいな、あら、おいや?などと、自分で自分を売りに歩いていますから、そんな八百屋のお余りを雇って、女の子はよしか、なんて、下品な委託販売をやる必要はないですよ。人間に独立心が発達してくると、自然こんなふうになるものです。老人なんぞは、いらぬ取り越し苦労をして、なんとかかとかいいますg、実際をいうと、これが文明の趨勢ですから、わたしなどは大いに喜ばしい現象dと、ひそかに慶賀の意を表しているのです。買うほうだって、頭を叩いて、品物は確かか、なんて聞くようなやぼは、一人もいないんですから、そのへんは安心なものでさあ、また、この複雑な世の中に、そんな手数をする日にゃあ、際限がありませんからね、五十になったって、六十になったって、亭主を持つことも、嫁にいくこともできやしません」
迷亭Agnodiceを追懐する
アグノディケまたはアグノディケ(古代ギリシャ語:アグノディケ、ギリシャ語の発音:[aKnodik??]紀元前4世紀頃)は、古代アテネで最初の女性助産師または医師として認められている伝説的な人物です。彼女の物語は、ローマの作家ガイウス・ユリウス・ヒュギヌスが彼のファブラエで語っています。アグノディーチェは一般的に歴史上の人物であるとは信じられていませんが、彼女の話は助産や医学を実践している女性の先例として、またはこれらのいずれかに対する議論として頻繁に展開されてきました。ヒュギヌスによれば、アグノディケはヘロフィルスの下で医学を学び、当時の女性は医学を実践することを禁じられていたため、故郷のアテネで男性に変装して医師として働いていました。女性患者との彼女の人気が高まるにつれて、ライバルの医師は彼女がアテネの女性を誘惑したと非難しました。彼女は裁判にかけられ、チュニック(古代ギリシャ語でアナシルマとして知られているジェスチャー)を持ち上げて陪審員に性別を明らかにしました。女性として違法に医学を実践したとして告発された彼女は、彼女の効果的な治療を称賛したアテネの女性によって擁護されました。彼女は無罪となり、アテネの女性医師に対する法律は取り消されました。
「ー Agnodiceはえらい女だよ、ぼくは実に感心したね。当時、アテネの法律で、女が産婆を営業することを禁じてあった。不便なことさ。当時アテネの法律で、女が産婆を営業することを禁じてあった。不便なことさ。Agnodiceだって、その不便を感ずるだろうじゃないか」
ヒュギヌスによると、アグノディケは古代アテネに住んでいましたが、当時女性は医学を学ぶことを禁じられていました。医学を学ぶために、彼女は男に変装して髪を短く切り、アレクサンドリアのヘロフィルスに師事しました。医師としての訓練を受けたアグノディツェは、男性の開業医に相談することを恥じたり、露骨に拒否したりした分娩中の女性を支援しようとしました。したがって、あるケースでは、アグノディスは彼女の性別を明らかにし、女性を治療することを許可されました。他の医師は、アグノディスの成功に嫉妬し、彼女が患者を誘惑したと非難しました。アレオパゴスの前での裁判で、アグノディスは彼女の服を持ち上げ、彼女が女性であることを明らかにしました。彼女は女性が医学を実践することを禁じた法律を破った罪で起訴されましたが、彼女が治療した重要なアテナイ人の妻によって擁護されました。これに対応して、女性が医学を実践できるように法律が変更されました。
アグノディツェの物語は、医療専門家内のさまざまな性別の選択肢の前例を提供するために、6世紀から呼び出されてきました。物語の後のユーザーの中には、@冒頭の助産師の主張に焦点を当てた人もいれば、たとえば、男性は女性がいる前に助産師であった、または女性が最初に助産師であったと主張する人もいれば、Aアグノディケがヘロフィルスから学んだと思われることに集中している人もいます。したがって、彼女は18世紀の男性助産のピークと、19世紀の医療専門職に参入するための女性の闘争の両方で使用された。17世紀の「ポピッシュ助産師」であるエリザベス・セリエは、自分自身を現代のアグノダイスとして位置付けました。彼女は「誰が何を発見/発明したか」のリストに登場しますが、男性医師(「特定のヘロフィルス」)の知識と、男性医師に自分の体を見せるのが恥ずかしい女性にこの知識を提供することとの間のギャップを埋める人物として表されています。
The story of Agnodice has been invoked since the sixteenth century to provide precedents for a range of gender options within the medical profession.While some later users of the story focused on the midwifery claims in the opening line, for example arguing that men were midwives before women were, or that women were midwives first, others have concentrated on what Agnodice is supposed to have learned from Herophilus, which was medicine rather than midwifery. Thus she was used both in the peak of men-midwifery in the eighteenth century and in women's struggle to enter the medical profession in the nineteenth century. Elizabeth Cellier, the seventeenth century "Popish midwife", positioned herself as a modern Agnodice.Although she appears in a list of 'Who discovered/invented what', she is represented more as someone who bridges the gap between the knowledge of male doctors ("a certain Herophilus") and the delivery of this knowledge to women who are embarrassed to show their bodies to a male doctor.
However, others have taken the story of Agnodice as a negative example: Augustus Kinsley Gardner, for instance, in 1851 delivered a lecture arguing that "literally, no improvement was made" in the "many centuries" where midwifery was a women's profession, comparing Agnodice to the 19th century abortionist Madame Restell.
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J 「どうもごぶさたいたしました。しばらく」と、越智東風が細君と入れ違いに座敷に入る、おじぎをする東風の頭を見ると、先日のごとく、やはりきれいにひかっている。頭でけで評すると、なにかどんちょう役者のようにも見えるが、
白い小倉のなかまのゴワゴワするのを、ご苦労にもしかつめらしくはいているところは、榊原健吉の内弟子としか思えない。したがって、東風君の体で普通の人間らしいところは、肩から腰までの間だけである。
安政7年(1860年)2月、講武所が築地から神田小川町に移転した際、2月3日の開場式に将軍徳川家茂、大老井伊直弼ら幕閣が臨席して模範試合が開かれた。鍵吉は槍術の高橋泥舟(謙三郎)と試合する。すでに高橋は井戸金平と対戦して、相手の得意技である足がらみで勝ち、席を湧かせていた。鍵吉は高橋に勝って、満座の喝采を浴びた。これを家茂が気に入り、鍵吉は将軍の個人教授を務めるようになる。
寒月、「『女に惚れるカラスかな』という俳劇を披露するが、迷亭にデカダンだ、そんなつまらないものをやってみたまえ、それこそ上田君に笑われるばかりだ。と、言われる」 寒月、上田敏を啓蒙している。
decdannce デカダン 退廃的で虚無的な風習や生活慣習をいう。 「退廃的」とは、「道徳」や「健全さ」が失われている状態をさし、「虚無的」とは、世の中や人生を虚しく思うことである。19世紀ヨーロッパ、とくにフランス文学世界で起こった退廃的で懐疑的、耽美的または、悪魔的傾向の芸術傾向を指す。
上田敏
(うえだ びん、1874年(明治7年)10月30日[2] - 1916年(大正5年)7月9日)、日本の評論家・詩人・翻訳家・京都帝国大学教授。族籍は静岡県士族。
山のあなたの空遠く 「幸い」住むと人のいふ
噫われ人と尋(と)めゆきて
涙さしぐみかえりきぬ山のあなたに なお遠く
「幸い」 人の住むといふ
UEber den Bergen Sagen die Leute,
wohnt das Glueck., Sagen die Leute, wohnt
das Glueck. UEber den Bergen weti weti drueben,
Sargen die Leute, wohnt das Glueck.
山の遠くの彼方へ行けば、幸福が住むと人がいうから大切な人と一緒に幸福を求めて出かけていったが、どうしても見つからず泪、泪のあり様で帰った。噫、われの求むる幸福、もっと遠くの彼方だと人は言う。
日本にヴェルレーヌの詩やジョリス=カルル・ユイスマンスの詩を紹介したのも上田敏である小説家としても、唯一の小説である『うづまき』を1910年(明治43年)に著しており、享楽主義者である主人公の牧春雄は作者の上田敏の経験がモチーフになっている。また島崎藤村の長編小説『春』に登場する「福富」は上田敏がモデルである。
K越智東風の詩集と『一夜』の登場
世の人に似ずあえかに見えたもう
富子嬢にささぐ
、、、、、、、、、、、、、、この富子嬢は先月から大磯へ避暑に行って留守である。、、、、、、、寒月の彼女か、 迷亭はこの「あえか」をあやうげにと解釈し、「世の人に似ずあえかに見えたもう富子嬢の鼻の下にささぐ」を進言する。
倦んじて薫ずる香裏にきみの 霊か相思の煙のたなびき おおわれ、ああわれ、からきこの世に あまく得てしか熱き口ずけ
苦沙弥「これは少々ぼくには解しかねる」→迷亭「これは少々ふるいすぎてる」→寒月「なああるほど」と、三者三様の感想。
東風「、、、、、、せんだっても、わたしの友人で送籍という男が『一夜』という短編を書きましたが、だれが呼んでも、朦朧としてとりとめがつかないので、当人に会ってとくと主意のあるところをただしてみたのですが、当人も、そんなことは知らないよ、といって取り合わないのです。まったくそのへんが詩人の特色かと思います」
寒月君は、東風君に向かって、「君は金田の令嬢を知ってるのかい」と尋ねる。「この春、朗読会へ招待してから懇意になって、それからはしじゅう交際をしている。僕はあの令嬢の前へ出ると、なんとなく一種の感に打たれて、当分のうちは、詩を作っても、歌をよんでも、愉快に興が乗って出てくる。この集中にも恋の詩が多いのは、まったくああいう異性の朋友からインスピレーションを受けるからだろうと思う。それで、ぼくは、あの令嬢に対しては、切実に感謝の意を表しなければならんから、この機を利用して、わが集をささげることにしたのさ、昔から、婦人に親友のないもので、立派な詩を書いたものはないそうだ」「そうかなあ」と、寒月君は、顔の奥で笑いながら答えた。
アオギリの緑をつづる間から、西に傾く日がまだらに漏れて、幹にはツクツクボウシが懸命に鳴いている。
万葉集歌の【霊】に関する歌
・ しきしまの 倭の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くりこそ 柿本人麻呂
・ 琴とれば 嘆き先立つ けだしくも 琴の下樋に 妻や籠れぬ( 1129 )
(こととれば なげきさきだつ ことのしたびに つまやこもれ
『幻影の盾』 叙事妥当を欠き、描写真相を失するところが多かろう。読者の教えを待つ。
(明治38年1905,4月1日) 2月18日脱稿。
明治38年2月頃、毎月文章会を開く。各自文章を持ち寄って批評し合う。『吾輩は猫である』6章参照。
明治38年3月1日、奉天攻撃開始。3月10日に奉天、16日に鉄嶺を占領する、日本軍7万の死傷者。2023年8月9日コロナ感染症死亡者7万
@山川草木轉荒涼 十里風腥新戰場 征馬不前人不語 金州城外立斜
A爾霊山険豈難攀 男子功名期克艱 鐵血覆山山形改 萬人齊仰爾霊山
(爾霊山は嶮(けん)なれども豈(あに)攀(よ)じ難(がた)からんや。男子功名克艱(こっかん)を期す。鐵血山を覆って山形(やまがた)改まる。萬人齊(ひと)しく仰ぐ爾霊山。
≪二〇三高地が如何に険しくとも、よじ登れないはずはない。男子たるもの名を立てるには、如何なる困難にも打ち克つ覚悟を持たなければならない。その決意で地形が変わるほどの激戦の後、敵陣を制圧した。一方で多くの命が失われてしまった。今静かに仰ぎ祈るのは、まさしく爾(汝)の霊の山≫
◎鑑 賞、「二〇三高地の攻防は日露戦争の勝敗を決する戦いである。司令官に任じられたからには、それを達成しなければならない。そんな決意で臨んだ戦いも、多くの尊い命を失ってしまった。誰もがこの山を見て、あなた方の御霊が眠る山として頭を下げるであろう」
この詩は、戦没の将兵を弔う慰霊式に臨んだ折、二〇三高地に凄惨なまでに銃弾と血が注ぎ込まれ、山の形まで変えてしまった激戦の地にたたずみ、様々な想いを込めて、静かに爾霊山を臨んでいる情景を詠っています。尚、第三軍に所属していた乃木大将の次男保典は、この二〇三高地の戦いで戦死しました。乃木大将は、保典戦死の知らせを聞いて「よく戦死をしてくれた。これで世間に申し訳が立つ。よく死んでくれた」と語ったと言います。愛する我が子の戦死に際してこう言わざるを得なかった乃木大将の心境は如何許りだったのでしょうか。
B皇師百萬征強虜 野戰攻城屍作山 愧我何顔看父老 凱歌今日幾人還
(皇師(こうし)百萬強虜(きょうろ)を征し 野戰攻城屍(しかばね)山を作(な)す 愧(は)ず我何の顔(かんばせ)ありてか父老(ふろう)に看(まみえ)ん 凱歌(がいか)今日(こんにち)幾人か還る)
◎歌 賞、「多くの皇軍の兵士を強敵の征伐に向かわせ、山野での戦闘で死体が山のようになる惨状になった。一体どのような顔で戦死させた兵士の親たちに会うのか、合わす顔がない。勝利を祝う歓声パレードが響く今日、一体どれほどの兵士が帰ってきただろうか」
≪しばらくこの旅中に起る出来事と、旅中に出逢う人間を能の仕組と能役者の所作に見立てたらどうだろう。≫夏目漱石『草枕』1章
見立ては、二つ。見立て@「能の仕組み」 見立てA「能役者の所作」。
お能には「現在能」と「夢幻むげん能」の2種類がある。「現在能」の登場人物は、”生きている人”であり、対する「夢幻能」は、登場人物にかならず”死んだ人”、幽霊が出てくる。では草枕は、現在能と夢幻能、どちらに当てはまるのか?
≪芭蕉という男は枕元へ馬が尿するのをさえ雅がな事と見立てて発句にした。≫ 夏目漱石『草枕』1章
ここで読者は、松尾芭蕉の『おくのほそ道』を思い出さなければいけません。芭蕉は能が大好きで、『おくのほそ道』は、お坊さんでもない芭蕉が、憧れの西行法師のコスプレをして「夢幻能」の「ワキ僧」になりきって、旅をする物語です。『草枕』の画工は芭蕉の真似をして、旅中の出来事を「夢幻能」に見立て、自分は「ワキ」の役を演じるつもりです。「ワキ」とは、脇役のワキではなく「分ける」のワキで、あの世とこの世の分け目にいる人です。
ワキが旅先の謂(いわれ』のある場所で、死者に出会います。夢幻能では、死者がシテ(主役)です。ワキの夢の中に、霊が現れることから「夢幻能」という名称になったとも言われます。死者の無念の声に耳を傾け、その恨みを晴らす。これが「夢幻能の仕組み」であり、その目的は「鎮魂」です。(ワキの役を演じると決めた画工は、シテに出会うために、異界に入ります。その場面も芭蕉の真似をしています。)
芭蕉は『おくのほそ道』の中で、那須に向かう旅中、突然雨に降られて不思議な異界に入っていきます。突然大雨大雪になることは、能ではよくあること。画工も、この旅を能に見立てるぞ、と決心したとたんに大雨に降られます。雨の中を歩く彼が、どんどん夢幻能の異界へ踏み入って行くのが感じられるのが、次の文章です。
≪深く罩(こめ)る雨の奥から松らしいものが、ちょくちょく顔を出す。出すかと思うと、隠れる。雨が動くのか、木が動くのか、夢が動くのか、何となく不思議な心持ちだ。≫
『草枕』1章
画工は頭の中で、今歩いているところを能舞台への通路である「橋掛り」として見立てているのかもしれません。通路に沿って「三の松・二の松・一の松」舞台に近づくにつれて順に大きい松が置かれています。そして能舞台の背景には、必ず立派な松の木が大きく描かれています。草枕では、大事な場面でよく松の木が登場します。能の世界に見立てているからですね。
≪すやすやと寝入る。夢に。 長良の乙女が振袖を着て、青馬に乗って、峠を越すと、いきなり、ささだ男と、ささべ男が飛び出して両方から引っ張る。女が急にオフェリヤになって、柳の枝へ上って、河の中を流れながら、うつくしい声で歌をうたう。救ってやろうと思って、長い竿を持って、向島を追懸けて行く。女は苦しい様子もなく、笑いながら、うたいながら、行末も知らず流れを下る。余は竿をかついで、おおいおおいと呼ぶ。そこで眼が醒めた。腋の下から汗が出ている。妙に雅俗混淆(がぞくこんこう)な夢を見たものだと思った。≫夏目漱石『草枕』3章
画工の夢に、一緒くたに混ざり合って出てきた三人の女「長良の乙女」「志保田那美」「オフェリヤ」
この三人の女は2章で登場しました。温泉宿に向かって山道を歩く途中、土砂降りの雨に降られた画工は、雨宿りのために茶店で休憩しました。茶店にはお婆さんが居て、色々な話をしてくれました。お婆さんは昔、画工が泊る予定の温泉宿を営む、志保田家で働いていたのです。
・一人目 志保田那美 那古井温泉、志保田家の娘。離婚して実家に戻り、旅館の女将をしています。5年前の彼女の花嫁姿がどれほど美しかったか、お婆さんは熱心に語ります。桜の木の下、高島田に結って、裾模様の振袖を着て、青馬に乗って・・・これは絵になる!と情景を心に描く画工ですが、花嫁の顔だけはどうしても思いつきません。すると不思議なことに、急に『ハムレット』のヒロイン、オフェリヤを描いたミレーの絵が、彼の頭に浮かびました。
・ 二人目 画工の胸の底に残る「オフェリヤ」
≪しばらくあの顔か、この顔か、と思案しているうちに、ミレーのかいた、オフェリヤの面影が忽然と出て来て、高島田の下へすぽりとはまった。これは駄目だと、せっかくの図面を早速取り崩す。衣装も髪も馬も桜も一瞬間に心の道具立から奇麗に立ち退いたが、オフェリヤの合掌して水の上を流れて行く姿だけは、朦朧と胸の底に残って、棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる。≫夏目漱石『草枕』2章
ほんの数行ですが重要なところですから、大変凝った印象的な表現が使われています。オフェリヤの姿が胸の底に残って「棕梠箒で煙を払うように、さっぱりしなかった。」煙を箒で払うのですから、なかなか払えなくて消えませんね。次に箒という言葉から、ほうきぼし、彗星を連想して「空に尾を曳く彗星の何となく妙な気になる。」と、今度は彗星の尾のように、オフェリヤの姿がいつまでもあとを引く、と表現しています。大地を掃く箒から、天空を翔ける彗星への連想がとても詩的です。
・ 三人目「長良の乙女」 茶店の婆さんが、那美さんは「長良の乙女」と身の成り行きがよく似ていると言い出し、村の言い伝え「長良の乙女」の話を始めます。
《昔、この村に長良の乙女という、美しい長者の娘がおりました。この娘に二人の男が同時に恋をしてしまいます。娘は、選ぶことが出来ず悩んだ末に「あきづけば をばなが上に 置く露の けぬべくもわは おもほゆるかも」という和歌を残して、淵川へ身を投げて死んでしまいました。》
※彼女達、どこが似ているのかと言えば、二人の男から一度に惚れられたということ。那美さんも結婚前、二人の男から同時に求婚されていました。違う点は「長良の乙女」は選択できずに自死、那美さんは、好きだった男を諦めて、親が決めた城下一の金持ちに嫁入りしました。
志保田那美=振袖を着て青馬に乗った花嫁
志保田那美 画工が宿泊する温泉宿の女将、出戻り娘。5年前に二人の男、「京都で勉強中に出会った男」と「地元の城下で一番の金持ち」に結婚を望まれる。彼女は「京都の男」が好きだったが、親から無理に「城下の金持ち」と結婚させられた。入りの際、裾模様の振袖を着て、青馬に乗っていた・器量を望まれ嫁いだ先で大事にされたが、夫の勤め先の銀行が倒産、離婚、実家に戻る。・「もとはごくごく内気の優しいかた」だったが「この頃はだいぶ気が荒くなった」
オフェリヤ
・シェイクスピア作『ハムレット』のヒロイン、ハムレットの恋人。・母と叔父の裏切りによって父王を殺されたハムレットは女性不信になり、オフィーリアに「尼寺へ行け」と言う。正気を失ったオフィーリアは、小川を流れて死ぬ。画家ミレーによって、小川を流れるオフィーリアが美しく描かれた。
ワキの夢に現れるのがシテですから、この三人の女が「シテ」になるはずですが、ひとつ不可解な点があります。それは、志保田那美はまだ生きていることです。夢幻能のシテは、死者であるべきです。
オフィーリアと長良の乙女は死んでいますが、まだ生身の体を持つ志保田那美が、混ざってしまいました。ですから画工も、夢から覚めた後「妙に雅俗混淆夢を見たものだ」と反省しています。
シテであるはずがない志保田那美が、何故ワキの夢に現れたのでしょうか?
シテに出会ったワキが、しなければいけない事は、シテの鎮魂です。画工が旅中、ずっと考えていたことが、有りました。
「一つ風流な土左衛門をかいてみたい」(7章)
美しい女が水死している絵を描きたい、と絵の構想を練っていました。「風流な土左衛門」ですが、土左衛門というのは、本来風流でも美しくもありません。だから土左衛門と呼ぶのです。ミレーの描いた美しい「オフィーリア」は、そういう意味で決して写実的な絵ではありません。けれど画工も、彼なりに土左衛門を、風流に描いてみたいのです。風流な土左衛門を描く事こそ、夢幻能のワキとして、シテを鎮魂する行為でしょう。お坊さんならばお経をあげるのでしょうが、画家なんだから奇麗な絵に描いてあげるのです。逆からいうと、美しい土左衛門の絵が、シテの魂を慰めるのだから、「土左衛門になってしまった女」というのが、シテの特徴ということになります。
「長良の乙女」「オフェリヤ」は、これに当てはまります。「志保田那美」は、当てはまりません。しかし、土左衛門になってしまった女は、登場人物の中にもう一人います。10章で登場する、四人目のヒロインです。
10章 画工は温泉宿から近所の池に出かけます。「鏡が池」と呼ばれる池です。池の傍に腰かけて、スケッチをしていました。するとそこへ温泉宿で働いている、馬子の源兵衛が通りかかりました。源兵衛は腰を降ろし、二人は煙草を喫みながら、池を眺めて会話します。画工が、この池は随分古くからあるようですね。と訊くと、源兵衛が池の由来を話し始めました。
画工が宿泊中の温泉宿を営んでいる、志保田家というのは、何代も何代も遡っての昔から、地元の有力者であり、庄屋でした。庄屋というのは、村長さんみたいなものです。その昔々、庄屋だった志保田家に、それはそれは美しい嬢さまがおりました。この美しい嬢さまが、熱烈な恋を致しました。ところがその相手というのは、庄屋にしばらく滞在していた、虚無僧だったのです。虚無僧というのは、尺八を吹きながら旅をしているお坊さんのことです。嬢さまは、このお坊さんを好きになってしまい、どうしても彼と結婚したい、と言って泣きます。しかし父親が、虚無僧は婿に出来ない、と許してくれません。お坊さんは村を追い出されました。ところが嬢さまは、一人で彼を追って飛び出します。そうしてこの池まで来たところで、池に身を投げてしまいました。その時嬢さまは、懐に一枚の鏡を持っていた、ということです。それでこの池は「鏡が池」と呼ばれることになったそうでございます。というお話でした。鏡が池に身を投げてしまった嬢さま、名前が分かりませんので「鏡が池の嬢様」と呼ぶことにします。
彼女が三人目の水死した女、土左衛門になってしまった女です。「志保田那美」ではなく、那美さんのご先祖様「鏡が池の嬢様」こそ、鎮魂すべき三人目のシテなのです。
そもそも夢幻能のシテというのは、旅先の謂れのある場所の死者です。その点から考えても「長良の乙女」と同様に「鏡が池の嬢様」は、シテとしてふさわしいでしょう。
1,「夢幻能の仕組」に見立てた旅で、シテに出会うために画工は夢を見た。
2,夢に見たのは「長良の乙女」「オフェリヤ」「志保田那美」であった。
3,しかし鎮魂の行為は「風流な土左衛門」の絵を描く事であるのだから
4,シテは、水死した女「長良の乙女」「オフェリヤ」「鏡が池の嬢様」である。
なぜ画工の夢に「鏡が池の嬢様」ではなく「志保田那美」が出てきたのか?
画工の側からすれば、夢を見た3章の時点で、まだ「鏡が池の嬢様」の物語を聞いていないのだから、当然夢に見ることもできない、という事になります。が、草枕において時間の後先は関係ないので、この理屈は通りません。 夢に出演した「志保田那美」の側に立てば、一応動機は有ります。2章で茶店の婆さんが話していました。
5年前、城下の金持ちに嫁入りする前の事です。那美さんが京都でお勉強をしていた頃、お近づきになった男がいた。その京都で知り合った男が、那美さんとの結婚を望みました。那美さんも本当は、この京都で知り合った男と結婚したかったのです。けれど那美さんの親は、どうしても地元一番のお金持ちに嫁がせたかった。彼女は仕方なく諦めて、親が決めた金持ちと結婚した。という彼女の過去の事情です。好きな男との結婚を親に反対された「鏡が池の嬢様」と同じ経験をした那美さんは、ご先祖様の悲しい気持ちがよく理解できるでしょう。それで、ご先祖様に代わって画工の夢に代理出演したのだ。という理屈をつけることもできます。
なぜ
「ワキの夢に出てくる3人の女」=「水死した3人のシテ」という分かりやすい展開にしなかったのか?
10章 で、画工が鏡が池にやって来たのは、「風流な土左衛門」の図案を練るためでした。池の周りの椿が水面に散っているのを見て、沢山の椿と一緒にきれいな女が浮かんでいる、という図を計画しました。迷ったのは女の表情です。那美さんの顔をモデルにするとして、どういう表情がふさわしいのか考えた挙句、「憐れ」に決めました。
「憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である。」(10章)
ところが困ったことにモデルの那美さんの顔には、「憐れ」が、これっぽっちもありません。ツンと人を馬鹿にした感じ、負けず嫌いな感じがありありと見て取れて、少しも「憐れ」の情が感じられないのです。彼女は、お嫁に行く前は大人しくて優しい人だったらしいのですが、離婚して実家に戻ってから、随分変わってしまったと、昔、志保田家で働いていた茶店のお婆さんが証言しています。彼女の変化の背景に何が有ったのかと言えば、好きな男との結婚を諦め、親の決めた金持ちに嫁いだけれど、夫の勤め先の銀行が破綻、離婚、実家に戻ることになった。すると村中が、金を失くした夫を捨てた不人情な女だと、白い目で見ています。そんな不運な境遇と厳しい世間に負けたくない!という気持ちのせいか、強気ばかり感じられる表情になっているのだ。と、画工は観察しています。彼は、鎮魂の絵にふさわしい「憐れ」が那美さんの顔に浮かぶ瞬間を待っているのです。
「憐れ」を求めて始まるのが、「能役者の所作」に見立てた物語です。
能役者とは誰のことか?
≪あの女は家のなかで、常住(じょうじゅう)芝居をしている。しかも芝居をしているとは気がつかん。≫ 夏目漱石『草枕』12章
あの女、那美さんはいつも芝居をしている。つまり画工は、彼女の所作を芝居として見ているわけです。
なぜ那美さんは芝居をしているのか?
≪ぽかんと部屋へ帰ると、なるほど奇麗に掃除がしてある。ちょっと気がかりだから、念のため戸棚をあけて見る。下には小さな用箪笥が見える。上から友禅の扱帯(しごき)が半分垂れかかって、いるのは、誰か衣類でも取り出して急いで、出て行ったものと解釈が出来る。扱帯の上部はなまめかしい衣裳の間にかくれて先は見えない。片側には書物が少々詰めてある。一番上に白隠和尚の遠良天釜おらてがまと伊勢物語の一巻が並んでる。昨夕のうつつは事実かも知れないと思った。≫夏目漱石『草枕』4章
「梶川 哲司)元和歌山県立向陽高校教諭
3章で温泉宿に着いた画工が案内された部屋は、那美さんがふだん自室として使っている部屋でした。日露戦争が始まり、宿にお客がまったく来なくなっていて、開店休業の状態だったため、掃除された客室が無かったのです。ー「昨夕のうつつ」とは、画工が宿泊した最初の夜、深夜に目撃した那美さんの奇行のことです。翌朝、朝寝坊して朝風呂の後、部屋に戻った画工が戸棚を開けると、当然中には那美さんの衣類や本が入っています。ー本は「遠良天釜」と「伊勢物語」でした。
「遠良天釜」も伏線なので、後で回収されますが、ここで注目なのは「伊勢物語」です。これを見て画工は、那美さんとの間で、”ある事”が始まったのを知りました。
「伊勢物語」は昔々の歌物語。その書名が初めて文献上に現れるのが、「源氏物語」第17帖「絵合えあわせの巻、平安貴族たちが「絵合」という優雅な遊びをする巻です。
「伊勢物語」はこの絵合に登場して勝ちました。回を重ねる絵合ですが、帝の前での最終戦で勝利したのは、光源氏が須磨に流された時分に描いた、寂しい海辺や住まいの絵でした。それまで様々な「物語絵」で感動を競ってきたのに、最後は、光源氏の身の上に起きた左遷で味わった、侘しい暮らしぶりに皆が「あはれ」を感じます。
”たれもことこと思ほさず、さまざまの御絵の興、これに皆移り果てて、あはれにおもしろし” 紫式部『源氏物語・絵合』
「絵合」を真似た「芝居合」です。
この源氏物語の「絵合」にそっくりな遊びが、画工と那美さんの間で暗黙のうちに行われます。似せたところは「絵合」が絵の優劣ではなく、絵が表現している物語で感動を競っているように、「芝居合」も芝居が表現する物語で感動を競っています。感動、つまり「あはれ」です。「あはれ」は、対象に同情、同調、共感、感情移入するということでしょう。
「憐れ」と漢字表記しているけれど、画工が求めているのも、やはり「あはれ」の情でしょう。「あはれ」の文学といえば、「源氏物語」なのです。
「長良の乙女」二人の男に懸想され、選べずに身投げをした彼女は、まさに「人情」のせいで死んだと言えるでしょう。
「オフェリヤ」は『ハムレット』のヒロインです。ハムレットは叔父と母の裏切りによって女性不信、人間不信、そして復讐をなかなか決意できなくて自己嫌悪、もうこの世自体が嫌になってしまいます。ハムレットの煩悶を近代的な自我の始まりだとすれば、この悲劇は哲学的な物語です。しかしオフェリヤからすれば、急に「非人情」になった恋人に、もう結婚できないから「尼寺へ行け」と言われたのです。正気を失い、小川を流れて死にました。
「鏡が池の嬢様」庄屋の娘であった彼女は、家に逗留していた虚無僧に恋をしましたが、親に許してもらえず、鏡が池に身を投げた。彼女は親の「不人情」のせいで死んだのです。
「人情・非人情・不人情」の被害を受けて死ぬことになった3人のシテ、彼女たちの鎮魂も兼ねて、芝居合のお題は「人情・非人情・不人情」の三本勝負、先手画工、後手那美です。
「人情・非人情・不人情」に関係する物語を二人が暗黙の内に提示し、那美さんがその一場面を演じてくれます。演技を担当するのは、「画工編」「那美編」両方とも那美さんです。「画工編」も、彼の頭の中をテレパシーのように読み取って、那美さんが演じます。彼女に色々な演技をさせて、その顔に「憐れ」が浮かぶのを見ることが、芝居合の目的です。
シテの死因は「人情・非人情・不人情」ではなく、「情・智・意」ではないか?
二人の芝居合を観戦すると、どう考えても、お題を「人情・非人情・不人情」だと勘違いした、としか思えません。「非人情」がお気に入りの画工と、「不人情」と噂される那美ですから、シテの死因の特定を間違えたのです。この根本的なミスのせいで、二人の芝居合は「憐れ」を引き出せずに終わります。
3章と9章に「竹影階払塵不動」という言葉があります。これは温泉宿の近所にある観海寺の和尚、大徹が書いた禅語の書で、画工が泊っている部屋(=那美さんの自室)に飾ってあるのですが、大事な役割があります。
「竹影階を払って塵不動」――月の光に照らされた竹の影が風に揺れて、まるで石段を掃くように動いているが、塵は少しも動かない。このような自然が示す「動」と「静」のように、日常生活に忙しくても心静かに落ち着きを保ちましょう、というような意味です。
この言葉は(さあ、もうすぐお芝居が始まりますよ。心静かにしてください。)という上演の合図として使われています。1回目は画工。2回目は那美さんが読み上げて、それぞれの幕が開きます。
”秋づけば 尾花が上に 置く露の 消ぬべくも吾は 思ほゆるかも”
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「長良の乙女」の気持ちになって意味を考えると、
(秋になって すすきの穂にかかる露が はかなく消えるように 私も消えてしまおうと思うのです)という感じでしょうか。
影の正体は、那美さんです。これが彼女の最初の奇行であり、画工編「人情」の芝居です。彼女が演じているのは、もちろん「長良の乙女」。画工編「人情」として、彼が出してきた物語は「長良の乙女」なのです。二人の男に懸想された長良の乙女、どちらか一方を選べば、傷つけたり、争いになったりすると考えたのでしょうか。それより自分が消えることを選び、淵川へ身を投げました。儚く消えた彼女ですが、この美しい和歌を残しました。万葉集ファンなら誰しもがご存じの菟原処女の伝説によく似た話です。
"asinoyano unahiwotomeno okutukiwo yukikutomireba
otonomisinakayu"葦屋之 宇奈比處女之 奥槨乎 徃来跡見者 哭耳之所泣 ─高橋虫麻呂、『万葉集』巻第九「反歌[承前、其一]」
「長良の乙女」のように、二人の男に求婚されて女が命を落とす物語は、「大和物語」等にもある、典型的なものです。「人情」の板挟みで死んでしまった可哀想な女の物語だけど、「人情」を存分に表現した日本の和歌、和歌を中心に構成された歌物語って「あはれ」でしょう、というのが、画工の意図です。
画工編「人情」は、和歌が栄えた平安時代の空気に半分浸っています。画工と那美さんの出会いの場面も、その影響を受けました。
真夜中に那美さんの影だけを見た画工は、その姿を俳句に詠みます。うとうとと眠りかけたところへ部屋に忍び込む女の幻に、妖しい気分になります。那美さんが画工の寝た頃を見計らって、こっそり自分の着物を取りに来たのでしょう。ついでに、画工の枕元に置いてあった写生帖をそっと持ち出したはずです。翌朝、彼が風呂に入っている5分間の間に、またこっそり部屋に戻しておきました。そして風呂上り真っ裸の画工の前に、いきなり現れて、後ろから着物を着せかけてくれました。この時初めて、二人はお互いの顔を見たのです。画工は、生まれたままの姿を見られてしまいました。部屋に戻った彼が写生帖を見ると、昨夜作った俳句に対して、添削のような返句のような句が書いてあるのを発見します。
・海堂の露をふるうや物狂いー海堂の露をふるうや朝ガラス
・花の影女の影のおぼろかなー花の影女の影を重ねけり
・正一位女に化けておぼろ月ー御曹司女に化けておぼろ月
明るい光の下、 画工は那美さんの顔をじっくりと観察します。2章で茶店の婆さんの顔をものすごく褒めていたのに、那美さんに対しては、とても手厳しいのです。しかしここで、彼自身の弱点も露見しました。那美さんの顔をけなすついでに、こんな事を言ってしまいました。
≪このゆえに動と名のつくものは必ず卑しい。運慶の仁王も、北斎の漫画も全くこの動の一字で失敗している。≫『草枕』3章
この見解は、画家として偏りすぎですね。那美さんを見習って『遠羅天釜』を読んだほうが良いでしょう。「静」と「動」両方の大切さが書いてありますから。
3章の終わり、画工は那美さんの後ろ姿をじっと見つめます。
≪ほほほほ御部屋は掃除がしてあります。往って御覧なさい。いずれ後ほど」
と云うや否や、ひらりと、腰をひねって、廊下を軽気に馳けて行った。頭は銀杏返に結っている。白い襟がたぼの下から見える。帯の黒繻子片側だけだろう≫『草枕』3章
那美さんの髪型は、漱石作品では定番の銀杏返し、着物については「不断着の銘仙さえしなやかに着こなした」と12章に記述があります。銘仙というのは、着物の格としては木綿の次に低く、実直でカジュアル、レトロモダンな雰囲気の大胆な柄のものが多いです。上の引用文に、帯の描写があります。「帯の黒繻子は片側だけだろう。」これはおそらく裏側に黒いサテン地を使ったリバーシブルの半幅帯を斜めに折って、左右非対称に裏の黒を見せて結んでいます。で気取りのない着こなしの彼女の帯の結び方は、色っぽい“片流し”でしょうか。画工はその後ろ姿を見つめながら、(あの帯は簡単に解けるのではないかしら)と誘惑を感じたに違いありません。この時の気持ちを正直に詠んだ句を13章で披露しています。
春風に 空解け繻子の 銘は何
(やわらかな春風に 自然と解けてしまいそうな繻子帯「じゅすおび」の あの粋な女は何者だろうか。)
4章 「画工の人情・余韻」の4章ですから、「非人情」を気取る画工もずいぶんと「人情」に立ち寄ってしまいます。昼食を運んできた小女郎に、那美さんについて詮索する質問をしつこく浴びせます。昼食後も部屋でごろごろしながら、(もしあの銀杏返しに懸想したら・・・・)と英詩を思い浮かべたり、本当に恋をしてしまったらどんなに苦しいだろう、と想像します。
そんな彼の気持ちを察してか、那美さんがお茶と羊羹を持って、部屋に来てくれました。二人は色々と話をします。なかなか手応えのある反応をする那美さんです。画工が長良の乙女の詠んだ和歌を「あの歌は憐れな歌ですね。」と言いますが、彼女は同意してくれませんでした。
≪「どうれで、むずかしい事を知ってると思った。――しかしあの歌は憐れな歌ですね」
「憐れでしょうか。私ならあんな歌は咏ませんね。第一、淵川へ身を投げるなんて、つまらないじゃありませんか」
「なるほどつまらないですね。あなたならどうしますか」
「どうするって、訳ないじゃありませんか。ささだ男もささべ男も、男妾にするばかりですわ」
「両方ともですか」
「ええ」
「えらいな」
「えらかあない、当り前ですわ」≫『草枕』4章
この会話の後、鶯が「ほーう、ほけきょーう。」と囀ります。すると那美さんが「あれが本当の歌です」と言ってのけました。
例の和歌を夜中に繰り返していましたが、これは画工の頭の中を読み取って演技をしていただけであって、彼女自身は「長良の乙女」にまったく共感できない様子です。勝気な那美さんは、男二人に挟まれて、進んで犠牲になる女を美しいとするような物語には感動できない。鶯の鳴き声のような自然の美こそ本物の美なのだ!と言いたかったのでしょう。
次は、10章 那美編の「人情」で彼女の主張を見ていくのですが、その前に「休憩の9章」で起きる重要な出来事について考えます。
≪ 轟と音がして山の樹がことごとく鳴る。思わず顔を見合わす途端に、机の上の一輪挿に活けた、椿がふらふらと揺れる。「地震!」と小声で叫んだ女は、膝を崩して余の机によりかかる。御互の身躯がすれすれに動く。キキーと鋭どい羽摶をして一羽の雉子が藪の中から飛び出す。
「雉子が」と余は窓の外を見て云う。
「どこに」と女は崩した、からだを擦寄せる。余の顔と女の顔が触れぬばかりに近づく。細い鼻の穴から出る女の呼吸が余の髭にさわった。
「非人情ですよ」と女はたちまち坐住居を正しながら屹きっと云う。
「無論」と言下に余は答えた。≫『草枕』9章
9章 地震のはずみで、二人の身体が思わず口づけしそうなほどに近寄ってしまう、ドキドキするシーンです。が、そんな演出のためだけに、作者がここで地震を起こしてくれた訳ではありません。注目ポイントは、地震が起きた時、机の上の「一輪挿に活けた椿」が揺れている点です。
「一輪挿の椿」は『虞美人草』にも、意味深な感じで登場します。『それから』の冒頭では、八重の椿が落ちます。漱石作品の「椿」は何を表しているか?
「自我」を象徴しているのではないでしょうか。「地震によって揺れる椿」は、明治維新が起きて、封建社会が崩れはじめ、西洋の思想が入ってきたこと、それによって日本人の「自我」が揺り起こされたことを表現しています。
次の10章で、椿の花が次々と散る描写があります。「椿」が、画工の絵の重要なモチーフになるのです。
地震の後、二人は揺れる池の水面と、曲がりくねりながらも水面に映る山桜を眺めて、人間もこんな風に穏やかに動いて変化していれば大丈夫だ、と意見が一致します。「動」を卑しい、と言っていた画工ですが、動くこと、変化することの面白さも分かってきたでしょうか。
≪「その鏡の池へ、わたしも行きたいんだが……」
「行って御覧なさい」
「画えに画くに好い所ですか」
「身を投げるに好い所です」
「身はまだなかなか投げないつもりです」
「私は近々投げるかも知れません」
余りに女としては思い切った冗談だから、余はふと顔を上げた。女は存外たしかである。
「私が身を投げて浮いているところを――苦しんで浮いてるところじゃないんです――やすやすと往生して浮いているところを――奇麗な画にかいて下さい」
「え?」
「驚ろいた、驚ろいた、驚ろいたでしょう」≫『草枕』9章
身投げをするかも、という那美さんの衝撃発言に画工は驚きます。この発言は、10章で上演される「那美の人情」の観客に、芝居をきちんと理解させるため、用意周到に彼女が打った布石です。しかも、彼が描こうとしている絵についても、彼女はちゃんと知っています。鎮魂のために「風流な土座衛門」を完成させることは、無言の内に行われる二人の共同作業です。
10章 画工は、鏡が池にやって来ました。池の向こう岸に椿がたくさん咲いているのを見つけて、眼を奪われます。椿の花の眼を醒ますような派手な鮮やかさ、その奥にある沈んだ調子、黒ずんだ、毒気のある恐ろし味。さりげなく愛らしい海棠や梨の花と違って、周囲の風景に溶け込まない椿。彼はこの花が嫌いなのですが、どうしてもその魔力に魅かれてしまいます。その椿が、ぽたりぽたりと落ちていく、印象的でなんとなく不気味な描写が延々と続きます。
≪ 見ていると、ぽたり赤い奴が水の上に落ちた。静かな春に動いたものはただこの一輪である。しばらくするとまたぽたり落ちた。あの花は決して散らない。崩れるよりも、かたまったまま枝を離れる。枝を離れるときは一度に離れるから、未練のないように見えるが、落ちてもかたまっているところは、何となく毒々しい。またぽたり落ちる。ああやって落ちているうちに、池の水が赤くなるだろうと考えた。花が静かに浮いている辺は今でも少々赤いような気がする。また落ちた。地の上へ落ちたのか、水の上へ落ちたのか、区別がつかぬくらい静かに浮く。また落ちる。あれが沈む事があるだろうかと思う。年々落ち尽す幾万輪の椿は、水につかって、色が溶け出して、腐って泥になって、ようやく底に沈むのかしらん。幾千年の後にはこの古池が、人の知らぬ間に、落ちた椿のために、埋もれて、元の平地に戻るかも知れぬ。また一つ大きいのが血を塗った、人魂のように落ちる。また落ちる。ぽたりぽたりと落ちる。際限なく落ちる。≫『草枕』10章
「こんな所へ美しい女の浮いているところをかいたら、どうだろう」と画工は、絵の構想を練り始めます。――女が水に浮いているところに幾輪も椿を落とす。女の表情について、那美さんが出した注文は「やすやすと往生して浮いているところ」とのことでしたが、画工は「無暗に気楽ではなお困る」といろいろと考えた末「憐れ」がふさわしい、と決めました。 女の顔に「憐れ」の表情がふさわしいのは、何故でしょう?
画工が嫌いな、鮮やかに主張する椿を「自我」であるとすると、いったい誰の「自我」がこれほど幾多に散っているのか?
『草枕』の時代背景を併せて考えると、自然と答えが出てきます。この絵のもうひとつの意図、それは当時、多くの死傷者を出した日露戦争で戦い、散った兵士たちへの鎮魂と共に、教え子への反語にも捉えることができます。
画工が、鏡が池で絵の図案を考えているところへ、馬子の源兵衛がやって来ました。例の「鏡が池の嬢様」の伝説を話します
源兵衛が立ち去った後も、絵について考えながら、鏡が池を眺めていた画工が、ふと目を上げると、なんと向こう岸の高い巌の上に那美さんが立っています。
≪余が視線は、蒼白き女の顔の真中にぐさと釘付にされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯を伸せるだけ伸して、高い巌の上に一指も動かさずに立っている。この一刹那! 余は覚えず飛び上った。女はひらりと身をひねる。帯の間に椿の花の如く赤いものが、ちらついたと思ったら、すでに向うへ飛び下りた。夕日は樹梢を掠めて、幽かに松の幹を染むる。熊笹はいよいよ青い。また驚かされた。≫『草枕』10章
懐に「鏡」を抱いて身を投げた嬢様、これが「鏡が池」の由来である、という物語ですから、この点を重視して、よく考えましょう。虚無僧と一緒になることを許さなかった親の「不人情」もあったとはいえ、「鏡」を抱いて身投げした嬢様の胸中にあったものは、恋した虚無僧への想いよりも「悲恋に死ぬ美しい私」「悲恋に死ぬという詩趣」だったでしょう。彼女は、自己を貫こうとする意志と共に死んだのです。結婚を許してくれない親に反抗する意志もあったでしょう。
自己犠牲の「長良の乙女」に対して、女にだって「自我」があるのだ、どうせ死ぬなら「鏡が池の嬢様」のように、自己を貫いて死にたい。というのが、那美さんの主張です
しかし我の強い人間は、扱いに困る存在です。
源兵衛は、嬢様の身投げに対して「まことに怪しからんことでござんす」とコメントしています。
≪「この嬢様の家(志保田家)には、代々気狂いができる」≫
とされてしまっています。源兵衛が言うには、去年死んだ那美さんの母もすこし変であり、那美さんも近頃は少し変だと皆が囃す、とのことです。
親に引き離されても僧侶を追って、身投げした「鏡が池の嬢様」は、封建的な親に従えない程に、気が強い。志保田家の人間は、代々気が強い。気が強くて、反抗的とも見える人間は、田舎の村では「気狂い」と呼ばれてしまうのです。
「人情」対決は「長良の乙女」vs.「鏡が池の嬢様」、村の伝説対決でした。水へ身を投げたという点が似ている二人の女ですが、その心の内は、全く違いました。
自己犠牲の「長良の乙女」に対して、女にだって「自我」があるのだ、どうせ死ぬなら「鏡が池の嬢様」のように、自己を貫いて死にたい。というのが、那美さんの主張です。
髪結い親方の証言(5章)
大徹和尚の証言」(11章)
≪「いやなかなか機鋒の鋭どい女で――わしの所へ修業に来ていた泰安と云う若僧も、あの女のために、ふとした事から大事を窮明せんならん因縁に逢着して――今によい智識になるようじゃ」≫
現場で見ていた大徹和尚には、那美さんの真意が伝わっていました。だいたい僧侶のくせに、チャラチャラとふしだらなのは、まず泰安のほうです。中途半端でふざけた坊主に喝を入れた那美さんが、狂気を装っているのも、やはりハムレットの真似をした芝居なのでした。大徹和尚の言うとおり、”なかなか機鋒の鋭どい”「那美の非人情」でした。シェイクスピア『ハムレット』を意識した「非人情対決」です。「画工の非人情・余韻」の6章でも、それは続きます。
≪刻々と逼せまる黒き影を、すかして見ると女は粛然として、焦きもせず、狼狽もせず、同じほどの歩調をもって、同じ所を徘徊しているらしい。身に落ちかかる災いを知らぬとすれば無邪気の極みである。知って、災と思わぬならば物凄い。黒い所が本来の住居で、しばらくの幻影を、元のままなる冥漠「めいばく」の裏に収めればこそ、かように間?かんせいの態度で、有と無の間に逍遥しているのだろう。女のつけた振袖に、紛たる模様の尽きて、是非もなき磨墨「するすみ」に流れ込むあたりに、おのが身の素性をほのめかしている。≫『草枕』6章
≪「あの松の影を御覧」「奇麗ですな」「ただ奇麗かな」「ええ」「奇麗な上に、風が吹いても苦にしない」≫『草枕』11章
松の影なのだから、風が吹いてもなんともないでしょう。しかし松の木自体は、強い風に吹かれてきっと苦しいこともある。そうして風に吹かれ立派に育った松が、奇麗な影を落とすのです。芸術家も同じです。その人生は、認められず、批判され、苦しいかもしれないけれど、境遇に負けずに残した芸術が美しければ、それで良し。「非人情対決」の休憩時間は、「非人情」について那美さんと話し合います。草枕のなかで、もっとも洒脱で印象的な二人のやり取りです。ちょっと引用が長くなってしまいますが、とても含蓄のある対話です。
「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」「なあに」「じゃ何が書いてあるんです」「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」「ホホホホ。それで御勉強なの」「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」「それで面白いんですか」「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」「よっぽど変っていらっしゃるのね」「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然しない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。
「好きだか、嫌だか自分にも解らないんじゃないですか」
「小説なんか読んだって、読まなくったって……」と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の中を見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女の眸は少しも動かない。
「ホホホホ解りませんか」
「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「今でも若いつもりですよ。可哀想に」放した鷹はまたそれかかる。すこしも油断がならん。
「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。
「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「おやそう。それだから画工なんぞになれるんですね」
「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」
「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開けて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」
「なるほど面白そうね。じゃ、今あなたが読んでいらっしゃる所を、少し話してちょうだい。どんな面白い事が出てくるか伺いたいから」
「話しちゃ駄目です。画って話にしちゃ一文の価値もなくなるじゃありませんか」「ホホホそれじゃ読んで下さい」「英語でですか」「いいえ日本語で」「英語を日本語で読むのはつらいな」「いいじゃありませんか、非人情で」
これも一興だろうと思ったから、余は女の乞に応じて、例の書物をぽつりぽつりと日本語で読み出した。もし世界に非人情な読み方があるとすればまさにこれである。聴く女ももとより非人情で聴いている。≫『草枕』9章
9章「非人情」芝居での泰安さんの顛末を念頭に置いて、この対話をよく考えてください。もう少し先まで引用したかったのですが、長いので切りました。ぜひ、草枕9章で続きを読んでください。
「非人情とは何か」
相変わらず偉そうな画工は「多少試験してやる」と那美さんに質問していますが、実際に試験されたのは画工のほうです。間抜けな彼は、そのことに最後まで気付きません。彼が何を試験されたのか、解りますか?よく読むと、この対話は「非人情とは何か」という議論になっています。口の上手い画工に騙されないように、後ろのほうから遡るように、考えてみましょう。
(本は、おみくじを引くように、偶然開けたところを気ままに「非人情」で読むのが面白いとする画工の意見に対して、那美さんはホホホホと笑って、面白そうだから今読んでいる所を話してちょうだい、とせがみました。画工が読んでいるのは英語で書かれた小説ですから、眼で英語のテキストを読みながら、頭の中で訳して日本語で話せという、難解な要求です。彼が「英語を日本語で読むのはつらいな」と嘆くと、彼女に「いいじゃありませんか、非人情で」と押し切られました。「もし世界に非人情な読み方があるとすればまさにこれである。」と彼も納得したようです。)
気の向くままに好きな箇所だけ読むのと、語学力を駆使して翻訳しながら読む、とでは全く違いますね。後者を「非人情な読み方」だとすれば、前者を「非人情」とは呼べないでしょう。読書の場合、外国語を翻訳しながら読むというのが、人情を用いない「非人情な読み方」です。那美さんの「非人情」は、感情を除外した知性です。
一方、画工は、読書する時も、筋を追わず、登場人物に感情移入しないように読むのです。「偶然開けたところを気ままに読む」「小説の筋なんかどうでもいい」と言い張る画工は、いったい小説の何を読んでいるのですか?趣とか情感を味わっているのでしょう。画工の「非人情」は「人情」から心理的に距離を置いて、美的に眺める態度です。
画工流解釈の「非人情」も画家らしくて結構ですが、時々「不人情」との違いが分からなくなります。案の定、画工は「非人情」を乱用し「非人情な惚れ方」なんて言ってますけど、泰安の顛末を御覧ください。
・ふざけた気持ちで生身の女に近づくと、大変な目に遭います。「いくら惚れても夫婦になる必要がない」と決め込んだ身勝手な惚れ方は、那美さんの言うように「不人情な惚れ方」です。恋愛において本当に「非人情」な態度というのは、泰安のように出家して女性と距離を置くことです。年をとっても惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのっていう恋愛小説を面白いのだと言う彼に「それだから画工なんぞになれるんですね」と那美さん。
「だって、あなたと私とは違いますもの」「ホホホホ解りませんか」と問われていたのです。
(あなたと私とは「非人情」の解釈が、違いますよ。あなたは「非人情」と言いながら、趣と情感を美的に楽しむ美術家でしょ。でもそれは本当に「非人情」と呼べるのかしら?)ということなのです。
≪ただ這入る度に考え出すのは、白楽天の温泉水滑(おんせんみずなめらかにして)洗凝脂(ぎょうしをあらう)と云う句だけである。温泉と云う名を聞けば必ずこの句にあらわれたような愉快な気持になる。≫『草枕』7章
白楽天(白居易)の「長恨歌」です。日本でも、平安時代から親しまれた玄宗皇帝と楊貴妃の物語。唐代の玄宗皇帝は、本当は息子のお嫁さんだった美女、楊貴妃を自分の妾にして、政治もおろそかになるほど彼女に夢中になります。すると国が乱れて反乱が起きてしまい、兵をなだめるために玄宗は仕方なく楊貴妃を殺しました。
権力ある男が勝手に女を妾にしておきながら都合が悪くなると殺してしまう――というところが「不人情」だと画工は捉えたのでしょう。7章と8章は「長恨歌」です。
「長恨歌」前半、楊貴妃が華清池という温泉に招待され、湯あたりしたのか入浴中フラフラと倒れてしまい、そのまま玄宗と結ばれるという、なんとも都合の良い展開になっています。現在は観光地である西安市華清池には、楊貴妃の裸の入浴像がたっています。那美さんは、この場面の楊貴妃を演じるので、画工の前に全裸で現れます。
ここで彼は、画家として裸体画についての持論を展開します。フランスの裸体画は、露骨すぎてどことなく下品だ、もっと余裕がなくてはいけない、画、詩、文章においても余裕が大切だ――とのこと。
≪土左衛門は風流である。、、、、、、(略)ミレーのオフェリヤは成功かも知れないが、彼の精神は余と同じところに存するか疑わしい。ミレーはミレー、余は余であるから、余は余の興味を以て、一つ風流な土左衛門をかいて見たい。しかし思うような顔はそうたやすく心に浮んで来そうもない。 湯のなかに浮いたまま、今度は土左衛門の賛を作って見る。
雨が降ったら濡れるだろう。
霜が下冷たかろ。
土のしたでは暗かろう。
浮かば波の上、
沈まば波の底、
春の水なら苦はなかろ。
ー明治三十九年十一月ー
≪また独り散歩かな、ハハハハ。御那美さんはなかなか足が強い。この間法用で礪並まで行ったら、姿見橋の所で――どうも、善く似とると思ったら、御那美さんよ。尻を端折って、草履を穿いて、和尚さん、何をぐずぐず、どこへ行きなさると、いきなり、驚ろかされたて、ハハハハ。御前はそんな形姿で地体どこへ、行ったのぞいと聴くと、今芹摘みに行った戻りじゃ、和尚さん少しやろうかと云うて、いきなりわしの袂へ泥だらけの芹を押し込んで、ハハハハハ≫(『猫』アサヒビールの付近の橋の幽霊か)
『草枕』8章
また那美さんがおかしなことをしたようなので、芝居です。このお茶会で、ひとり遠慮がちに大人しくしているのが、那美さんの従弟の久一さんです。久一さんも絵を描くのですが、自分は下手だからとプロの画工を前にしきりに恥ずかしがって謙遜しています。「不人情」の世界で競争に勝った画工は、那美さんの裸が拝めて、負けた久一さんには残酷な仕打ちが待っています。召集されて戦地に行くのです。しかしこれだけは芝居ではなく、現実であることに気付いた画工は、胸を痛めるのでした。
≪今わが画にして見ようと思う心持ちはもう少し複雑である。複雑であるだけにどうも一枚のなかへは感じが収まりかねる。≫『草枕』6章
≪生き別れをした吾子を尋ね当てるため、六十余州を回国して、寝てもさめても、忘れる間がなかったある日、十字街頭にふと邂逅して、稲妻の遮ぎるひまもなきうちに、あっ、ここにいた、と思うようにかかなければならない。それがむずかしい。この調子さえ出れば、人が見て何と云っても構わない。画でないと罵しられても恨みはない。≫
草枕は、四層の入れ子構造です。
我が子を探すように、読者も諦めずに探し続ければ、あっここにヒントがあった!と思えるように、漱石先生は書いたのです。作者の複雑な「心持ち」は、『草枕』に収まりきらず、他の著作にはみ出しました。それらをつなぐヒント、キーワードが「三と四」なのです。 草枕の物語は、「三と四」で構成されています。「画工が夢に見た三人の女」=「シテ」ではなく、四人目の女の登場を待つことになりました。
そして、草枕は三層の入れ子構造だと言いましたが、お詫びして訂正致します。
”行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。玉敷きの都の内に、棟を並べ、甍を争へる、高き賤しき人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これ(*)をまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。ーあるいは、去年焼けて、今年作れり。あるいは、大家滅びて、小家となる。住む人もこれに同じ。所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、僅かに一人二人なり。ー朝に死に、夕べに生まるる慣らひ、ただ水の泡にぞ似たりける。ー知らず、生まれ死ぬる人、いづ方より来りて、いづ方へか去る。ーまた知らず、仮の宿り、誰がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。ーその、主と栖と、無常を争ふさま、言はば、朝霧の露に異ならず。ーあるいは露落ちて、花残れり。残るといへども、朝日に枯れぬ。ーあるいは、花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども、夕べを待つことなし。”