生命の手記
三重県員弁郡 母
拓也の残してくれたもの・・・。
もう帰ってこないのは分かっているのに、今日も帰宅途中の高校生の中に拓也を探している。
「腹へった、きょうは何」と言う声をもう一度聞きたい。
平成9年4月24日、横断歩道で事故にあい「この子はダメですよ」と先生に何度言われても我が子が死ぬとは思わなかった。
意識は必ずもどると、お守りを手に巻き付け、頭をなで、足をさすり、「苦しいと言ってごらん」「お母さんと言ってごらん」と耳元でささやいた。
けれども、一度も目を開けず、しゃべることもなく、5月8日に逝ってしまった。
16歳、高校2年生になったばかりだった。
その日は弓道部で連続15本の矢を的に射ったと言う。
それで道場の壁にかけてもらった拓也の札を見て、生きた証を自分の力で残していったと思った。
よき仲間に恵まれ、告別式には600人近い人が見送ってくれた。
友だちにひつぎを抱いてもらって車に乗ったときは、きっと「先に行ってまってるぞ」と皆に言ったことだろう。
「最後まで笑っていたな。お前は、おれ達と一緒、永久に弓道部員だぞ」と言って拓也から離れなかった先輩たち。
先生からは「49日の間、ずっと花が枯れることはなかった」との言葉を頂いた。
皆に励まされ、やっと私は睡眠薬なしで眠れるようになった。
「そばにいると心がなごむ、世界で一番の息子だったよ。
16年間楽しい思い出をいっぱい、いっぱい、くれてありがとう」。
この文を書いて あっという間に6年が過ぎました。
なぜ、拓也だったのか!その答えは私が死ぬまで解けないと思っておりましたが、答えは簡単という一言で、私はストーリーを作ることができました。
拓也はどの子ともすぐ仲よくなる明るい子でした。
その友だち全員が同じことを私に言うのです。
「拓也といると楽しかった。おもしろかった」と
人間おぎゃあと生まれてくるときに、それぞれ使命を持って生まれてくるのだとしたら、拓也の使命は「幸せの種をまくこと」。
その使命が終わったので元の場所に帰ったと考えたのでしょう。
そう考えついた時、「生命のメッセージ展」と出逢い、もう一つの使命があったことを知りました。
それは「命の大切さを伝えて行くこと」
何が一番大切なのか・・・。
生きたくとも生きれなかった思いを伝えるために、本州で一番最初に春がおとずれるという和歌山へ。
古(いにしえ)の熊野古道に誘われて、いざ、メッセンジャーたちが参ります。