生命の手記
千葉県 娘
「お父さんと最後に交わした言葉は、いったいどんな言葉だっただろう…」
父が亡くなった翌朝、弔問客への対応や告別式の準備に追われながら、私は、ふとそんなことを考えていました。
父の元気な姿を最後に見たのは、つい一カ月前のこと。あの日、奈良の実家に遊びにきていた私と3歳になったばかりの娘を京都駅まで車で送ってくれた父は、「年が明けたら、千葉(私の家)へ遊びに行かせてもらおうと思ってるから」と、別れ際にそう言いました。
そして、目に入れても痛くない初孫に、ニコニコ笑いながら手を振って、「気をつけてな」。そう、確かにそう言って見送ってくれたのです。
そのわずか1週間後、父は突然、胃から大量出血し、救命救急センターへ運ばれました。すぐさま、胃や腸の緊急手術を数回受けたのですが、全身状態は悪化する一方。結局、私たち家族とは一言も会話を交わすことができないまま逝ってしまいました。62歳でした。
一生懸命に働き、私たち三姉妹を何不自由なく育ててくれた父。倒れる前日には、三番目の妹の結納が行なわれたばかりで、家族中が喜びに包まれていた、そんな矢先の信じられない出来事でした。
病理解剖の結果、父の死因は「多臓器不全」と診断されました。あんなに元気だった父がなぜ突然胃から大出血を起こし、命を失うことになったのか・・・。私たち家族には、どうしても割り切れない疑念が残りました。
実は、倒れる直前、父はのどの腫れを訴え耳鼻科に通院していたのです。炎症を抑えるために使われるステロイド剤や消炎鎮痛剤は、その量や処方を誤ると「出血性胃潰瘍」などの深刻な副作用をもたらすらしい、という話を聞いた私たちは、病院側にそうした可能性はなかったのかと質問してみました。しかし、病院側は言い訳に終始し、具体的な説明や回答を避けたのです。
カルテなども見た上で医療過誤を確信した私たちは1年後、県立病院を相手に訴訟を提起。今振り返れば、その後の数年間は、まさに「白い巨塔」のドラマとそっくりでした。
法廷に立った医師らは、自己防衛的な証言を繰り返し、一審は私たち原告の完全敗訴。しかし、父の死から6年目、高等裁判所は一審判決を取り消し、医師が薬の副作用の説明や検査義務を怠ったことを、判決の中ではっきり認めたのです。
父の死から早や10年、当時と比べると、最近の医療機関は薬や副作用についての説明をとても丁寧に行うようになりました。「もし、あのときもこうだったら・・・」。そう思うと、今でも無性に悲しくなります。
でも、「父の死は、そのシステムを変えることに一石を投じたに違いない」そう考えることで、残された私たちは少しだけ心を癒すことが出来るような気がしています。
あの時3歳だった娘は中学生になりました。あれだけかわいがってくれたおじいちゃんのことは、ほとんど憶えていません。ですから今も、ときどき昔のビデオを見せてやります。
−これがママの「お父さん」、あなたの「おじいちゃん」なんだよ−