生命の手記
千葉県 大坂明美
―剛の朝顔―
母親だから忘れられるはずがない。母親だものずっと思い続ける。人は、時薬とか時が癒してくれるという。しかし、我が子に先立たれ五年、時は薬にもならないし、癒してもくれない事を実感した。ただ、元の日常生活が送れる様に仮面をかぶることを教えてくれただけ。真実の姿は、心の奥底にしまい込んで生きなければならない。辛い、悲しい、苦しい等と時が経つ程に外には出せなくなる。何があっても取り乱すことなく気丈でいることを良しとする日本の風潮。私も、我慢する事がいいことと思い込んでいた。でも、極限の悲しみを我慢するには限界があった。頑張ってなんて言わないで!突然我が子を亡くして生きているだけで精一杯なのに!励ましのつもりの周囲の優しさに笑って答えながらも打ちのめされる日々。五年経っても、自分が突然の我が子の死を受け入れているかどうか?わからない。
最愛の息子の名は剛(つよし)。平成11年3月13日、赤信号で停車中、居眠り運転の10トントラックが後方より激突。私が気を失って暗闇の中から意識を取り戻すと、当時5歳の次男の泣きじゃくる声と私の右膝の上には、血まみれでうつ伏している当時7歳の長男剛の声なき姿脳挫傷による失血死。小学1年生の春休みを目前に、7歳の短い生涯を閉ざされてしまった。今隣で笑って話していた剛。搬送された病院で死の宣告をされても、涙さえ出なかった。極限の悲しみの中、涙を流す事さえできなくなってしまうことを初めて知った。トラックの運転手は、大坂枚方市在住、当時57歳の男。事故後、初めて遺影に手を合わせに来たのは四十五日の頃。二回目はお盆前。後にも先にもたったの2回だけ。刑事裁判では、禁固二年執行猶予五年保護観察処分付きの判決。兄を亡くした弟は言った「刑務所にはいらないの?」と。
執行猶予が付けば無罪放免も同じ。大坂地裁の廊下で加害者は「お墓参りをさせてください」と言った。隣には加害者の妻もいた。しかし、その後お墓参りに来ることはなかった。嘘だった。裁判官には、涙流し、謝罪して自分の命乞いをした加害者。命を奪われた剛に対する謝罪でも、まして遺族に対する謝罪でもない我が身の保身のため。それでも、裁判官はお決まりの文句で情状酌量とし、加害者の社会復帰に力を注ぐ。加害者は何もなかった様に会社も退社する事なく働き元の生活を取り戻して行く。遺族は元の生活を取り戻すことは絶対できない。死者が蘇ることはあり得ないのだから・・・。
幸せだった四人家族の日々。剛という1本の柱が欠けて、家族が保てる筈もなかった。剛の死は人の心の底を社会の真実の姿を見せつけてくれた。守ってくれるものと疑わなかった警察も検察庁も裁判所も被害者、遺族の味方にはなってくれない。どん底に身を置いても、被害者、遺族が動かなければ、下手をすれば真実が曲げられてしまう今の社会。交通事故だから仕方ないと言われるが、果たして自分の身に降りかかってもそう言い切って諦められるのだろうか?隣りに座っていながら代わって死んでやることさえ守ってやることさえできなかった母としての苦しみは深くなるばかり。
今夏も庭先に、澄んだ青の朝顔が咲き乱れ種を沢山付けた剛の朝顔。1年生の夏、自分で種を蒔き育てた朝顔の種を嬉しそうに袋に入れて「千葉のおじいちゃんに送ってあげよう!」と言っていた剛。次の年、祖父の育てた剛の朝顔は花咲かせたけど、2年生の剛の姿はなかった。あれから5年、毎年一生懸命の剛の朝顔を育てる祖父の背中に孫を亡くした悲しみの深さを感じずにはいられない。―剛、世の中の人の心も、社会も剛の朝顔の様に澄んだ青だったらいいのにね―