小倉百人一首

       底本 丸谷 るみ 和歌山信愛女子短期大学付属高等学校の古文教科書


       小倉百人一首という歌の集を学ぶとき、歌の集合としては、散文に対しての韻文です。この表現方法の意図の
      ちがいがございましても古文を学ぶとき、多くの共通した面に遭遇することでしょう。

       例えば、『源氏ものがたり』の「末摘花」の巻に注目しますと、和歌的な表現をみつけました。

       おもへども、なほあかざりし 夕顔の 露におくれし ほどのここちを、年月ふれど、おぼし忘れず。
      
       と、ございます。

       下線の部分を三十一文字の歌と解釈しながら読みますと、作者が和歌の文化にも卓越された
      おかたであると思えます。とりわけ「夕顔の露」などの表現ひとつとっても、とても和歌的な表現ですね。しかし、
       紫式部の意図としては『源氏物語』をあくまでも散文としてあらわすことでした。

       たとえば、寂しさをあらわす歌として

      山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬと思えば    源 宗于 朝臣
   
       と、『小倉百人一首』の中にもございます。散文と比べてみましても、寂寥、と孤独感の理解の手順は、
       さほどちがいないと思います。しかし、この歌は、詩的な創作意図をかんじます。


小倉百人一首の典拠はすべて勅撰和歌集です。勅撰和歌集とは、天皇の命令によってつくられた和歌集のことです。
古今和歌集905年,24.後撰和歌集951年,7.拾遺和歌集1006年頃,11.後拾遺和歌集1086年頃,11.金葉和歌集1127年頃,5.
詞花和歌集1151年頃,5,千載和歌集1188年頃,14.新古今和歌集1205年,14,新勅撰和歌集1235年,4.続後撰和歌集1251年,5.

百人一首の歌を勅撰和歌集の部立て(ぶだて)から分類すると下記のようになります。部立てとは、
和歌集を編集するときの分類のことで、春夏秋冬、恋、雑、羇旅(きりょ)などに分けられるのが一般的です。


       このようにして、古文をよみ進めて行きますと、『小倉百人一首』を理解していることが、古文読解の基礎が詰まっていると
      言えることでしょう。読解のお力添えになればいいな!と、思います。
      

 一、 の 刈り穂 苫あら 
             わが衣手は 露にねれつつ                 天智天皇


        『万葉集』巻十には、「秋田刈る仮庵を作りわがをれば衣手寒く露ぞ置きにける」と類歌がございます。こんな歌が伝わるうちに、
       流動したものかと思いますけれども天智天皇の御製として鑑賞しますと、農夫の姿を人間的な暖かい目で捉えたものとして、
       ひとびとの心に響いてきます。
        この歌の表現方法で注目しておきたく思いますのは、「秋の田の 仮穂の庵の」と、重ね言葉を使って「の」の音節を連続させて   
       詠いはじめた素朴さに終始します。また内容の単純さとあいまって、ダイレクトに人間的な感情にふれることができることが可能
       な歌です。


二、 
 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 
                 衣ほす
てふ 天の香久山               持統天皇


        この歌の元歌は、『万葉集』の「春すぎて夏きたるら白妙の衣ほしたり天の香具山」であり、その写実的、感覚的、直観的、
       空間的な特色と比較できると思います。これに対しまして、この歌につきまして、本歌取りの方法で改作することによりまして
       原歌を伝聞としての根拠に踏まえた上で、技巧的、理知的、観念的、時間的に捉えて、新古今集風に仕立て上げて余剰感が
       ございます。


       ・「けらし」の「け」は過去の助動詞「けり」の連体形。「ける」と「らし」(確かな根拠に基づく現在の事態の推量の助動詞です。
       ・「てふ」は「といふ」の複合語で伝聞としての意味で現状判断の根拠となる意味がございます。


 三、   あしびき 山鳥 しだり尾
                          ながながし夜を ひとりかも寝む           柿本人麻呂


         「あしびきの 山鳥の尾の」は、秋山と妻を恋しく思う意味の込めた序詞です。また、『万葉集』巻十一の国歌大観番号
       二八〇二にもご覧になれます。

       思へども 思ひもかねつ 
                   あしひき 山鳥の尾の 長きこの夜を

         (或る本の歌に曰く「あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寝む」)

        この左注を注目しますと、或る本の歌となっていますね。

  1.       
           『小倉百人一首』は、藤原定家撰と伝わりますが撰者・成立年とも未詳です。天智天皇から順徳天皇に至る各時代の著名な歌人百人の歌を
           一首ずつ撰し,京都嵯峨の小倉山荘の障子に張ったと伝えるところからこの名がございます。歌ガルタとして近世以降庶民の間にも流布しました。
           小倉山荘色紙和歌。小倉百首。単に「百人一首ひやくにんいつしゆひやくにんしゆ」ともよばれています。
  2.       (の)
  3.        あしひきの         「山」を導く枕詞。              ひとり    「か」 疑問の係助詞。
  4.        やまどり       ともに連体修飾格。                         「も」 感動・強意の係助詞。             
  5.        しだり尾         ・・・のように 格助詞                         「む」 推量の助動詞「む」の
  6.                                                                連体形で「か」の結び。
  7.  

 四、   田子の浦 うちいでて見れ 白妙の
                  富士の高嶺に 雪
ふりつつ             山部赤人


        ≪題しらず 新古今集・冬≫

      
『万葉集』には、山部の赤人の反対の方から富士山を見た歌もございます。

         富士の嶺を 高み恐(かしこ)み い行きばかり たなびくものを                              高橋虫麻呂
         
 (右の一首は高橋虫麻呂の歌の中≪うち≫に出づ。類を持てここに載す。
        

        (に) 
        この歌の原歌は『万葉集』三一八番にみられます。

         田子の浦 うち出て見れば 真白に 富士の高嶺に 雪は振りける                          山部宿祢赤人
       
        「に」〜「ゆ」
         田子の浦のゆの「ゆ」は通過の通過の地点を表す格助詞です。新古今集では、「に」となっていますね。また、
         「真白にそ」を「白妙の」観念的表現と置き換えています。さらに、「ける」を「つつ」に改めています。
         

         山部赤人の歌は葛飾北斎の浮世絵で有名です、虫麻呂の歌も富岡鉄斎の富士山図(明治31年)に描かれています。これらの絵画を
         万葉ファンであればだれもが比較しながら『万葉集』に秘められた醍醐味を楽しんでいます。

         (に)到着場所を表す格助詞。  
         
         (うちいで)は他の場所から、田子の浦に出るといったことをしめします。 
         
         (ば)は動詞の已然形に連接して順接の確定の意味を表す接字続助詞です。 
         
         雪はふりつつの(は)他と区別して強調する係助詞。 (つつ)は継続の意味の接続助詞
         です。いいさしの表現で、詠嘆的な余韻をのこします。


 五、     奥山に もみぢふみわけ なく鹿の
                   声聞くとき
ぞ 秋はかなしき             猿丸大夫
         


          菅原道真さまは、この歌を 秋の山はものさびしくて、紅葉の落ち葉をふみわけ、ふみわけしながら雄鹿の雌鹿を呼んでいる声、声、
          があちらこちらから耳に入ってきます。こんなとき、私は秋のもの悲しさにすれます。と、鑑賞されてそして、七言の漢詩にされました。

           秋 山 寂 寂 葉 零 零           秋山寂寂葉零零
           雄 鹿 鳴 音 数 処 聆           麋鹿鳴く音数処に聆く
           勝 地 尋 来 遊 宴 処           勝地尋ね来りて遊宴する処
           無 友 無 酒 意 猶 冷           友無く酒無く意猶冷し

           (ぞ)強意の係助詞。


           
 六、     かささぎの 渡せ おく霜
                   白さを見れば 夜
ふけにける               中納言家持


          かささぎの 渡せる橋  (白孔六帖)によりますと、天上に架かる橋のことです。内裏を雲居の宮とも呼ぶことから、宮中の
                         御階(みはし)のことです。

          (る) 完了・存続の助動詞(り)の連体形です。

          (に) 場所を表す格助詞です。

          (の) 修飾格区内(露の白きの)主格をあらわします。
          
          (ぞ) 係結び(けれ)ではなく、詠嘆の助動詞(けり)の連体形に注目してくださいね。


 七、、   天の原 ふりさけ見れば 春日なる
                  三笠の山に いでし月かも                    安部仲麿


          安部仲麿さんは、霊亀二年一六歳のとき、遣唐使多治比県守に従って留学生として唐に渡りました。この一首は、三十五年間の留学生活を終えて、
          明州 (今の寧波)の海辺で別れの宴のとき詠んだそうです。
百人一首のなかで唯一、海外から日本を眺めて詠んだです。るみの好きな一首です。
          また、古今集・羈旅406の左注には以下のようにかかれています。
          
          「この歌は、昔、仲麿を 唐土にものならわしに遣はしたりけるに、数多の年を経て、え、帰りまうで来ざりけるを、この国より、また、
          使まかりいたりけるに、たぐひてまうで来なむとて出でたりけるに、明州といふ所の海辺にて、かの国の人、むまの餞しけり。夜に
          なりて、月のいとおもしろく出でたりけるを見てよめる、となむ語り伝ふる」
          と、ございます。

          ・春日なる 遣唐使たちは、出発に際し春日大社に道中祈願をおこないました。
          (なる) 「なり」 伝聞、推定の助動詞の連体形です。  ○・なり・なり・ なる・なれ・○ 

            大空をはるかにふり仰いで眺めますと、まあなんと綺麗なお月さまだこと。
                           あの月はむかし、故郷の三笠の山(若草山)の近くから、出たり入ったりした
                           月かもしれないわ。

            李白は彼の死を悼む7言絶句を作りました。
          
              日本晁卿辭帝都   征帆一片繞蓬壺  明月不歸沈碧海  白雲愁色滿蒼梧 

          
 日本の友人晁衡は、都長安に別れを告げて、
          ひとひらの帆かけ船に乗り、蓬莱をめぐって去っていった。
          明月の珠は碧海に沈んでしまい、もはや帰ってくることはなく、
          白い雲が愁いの気を漂わせながら蒼梧の地に立ちこめている。


      

        

         妹と来し 小峠を 帰るさに ひとりし見れば 涙ぐましも

      
       このまえは 二人我が見し この棚田 ひとりし見れば 心悲しも                                
                                    2024 3.31    みつお



      帰路、生石高原に向かうとき、まるで奈良のバンビのように人見知りのしないバンビに遭遇。
      

 
 八、       わが庵は 都のたつみ しかぞすむ
                 世をうぢ山と 人はいふなり                    喜撰法師



            しかぞ住む  「しか」然は指示性の副詞で、-そのように-の意味、静寂をさします。「ぞ」は係結びではなく、「住む」の動詞の連体形で
            3句切れですね。この句に対応して、世をうぢ山がございます、うぢ山のつらい「憂」と「うぢ山」の「う」を意識した掛詞のようですね。

            この一首は、暗に、十二支の龍,巳,と続けば午が必然ですが、鹿が登場します。法師の言葉の遊びでしょうか、。彼は、六歌仙の一人、
            真言宗の僧で、山城国乙訓群の人と言われています。(伝、不詳)
  

     

 九、         花の色 うつりにけり 
               いたづらに わが身
ふる ながめせしまに       」        小野小町
       


               小町さんは、この一首に花へのいとおしみと、ときの流れへの嘆きとが同時にうつしだすことを意識されたと思います。
               
               花の色は。        桜の花の色と、女の可憐さを掛ける掛詞で、(は)は、掛助詞です。

               うつりにけりな      色がかわる、色あせる、衰える意味です。 
                              (に)は、な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね完了の助動詞の連用形です。
                              (な)は、終止形に接続する詠嘆の終助詞です。

               わが身よにふる    世に処する意と、同衾の意味とがございます。(よ)は、世と男女の語らいをするの意味を兼ねています。
                             (ふる)は、雪や雨などが降ってきた意味、転じて、白髪のたとえです。
               
               ながめせしまに     (ながめ)は物思いにふける、詠めと、長雨の掛詞です。(し」は、け/せ・○・き・し・しか・○過去の助動詞
                             の連用形です。

      
   小野小町は日本では一般にクレオパトラ楊貴妃と共に小野小町が「世界三大美人」(または世界三大美女)の一人に数えられています。

    晩年に纏わる伝承

    秋田県湯沢市小野で過ごしたという説の他、京都市山科区小野は小野氏の栄えた土地とされ、小町は晩年この地で過ごしたとの説がございます。
    京都の山科区の随心院には、卒塔婆小町像や文塚など史跡が残っています。


 十、           これやこの 
            行くも帰るも わかれては 知るも知らぬも あふ坂の関
                       蝉 丸

     日本人が最初に作りました


     「これやこの」「行くも帰るも」「知るも知らぬも」と畳みかける技巧です。「行く」「帰る」・「知る」「知らぬ」は対句的表現です。これらの語句に(人)を加え
     ながら鑑賞すると、逢坂の関のにぎわっている様子が目に沸いてきますね。きっと、蝉丸さんは、帰るひとや、わかれるひとや、、、、、、知るひとや、知らない
     ひとたちとの往来を眺めながら、人生の縮図と映ったようです。そして、人の世の離合集散の悲しみがふつふつとお沸きになったことでしょう。




 十一、         わたの原 八十島かけて こぎいでぬと
                       人に告げよ あまのつり舟
                       参 議 篁


      隠岐諸島歴史についてのお話を少しだけお許しくださいませ。
      日本海
に浮かぶ隠岐諸島は古代には隠岐国として自立的な地域を形成し、また遠流の国としても知られました。
      

      隠岐島後(どうご)の西郷町(現隠岐の島町)津井と五箇村(同)久見には、打製石器の原料としての黒曜石を産出する。
      紀元前5000年頃に縄文早期前期の遺跡が西郷町津井の近くに宮尾(みやび)遺跡の存在がございます

      久見の近辺にも中村湊(なかむらみなと)遺跡が存在します。
これらの遺跡は石器製作跡と推測されております。サヌカイトより強力な隠岐の黒曜石は
      広く
山陰地方一帯の縄文遺跡に分布し、東は能登半島、西は朝鮮半島にまで及んでいます。
      弥生時代
後期に水稲栽培が島に入ったため、島後南部の八尾川下流東岸に月無遺跡が出現しまする。
      隠岐には約200基の
古墳が分布、八尾川下流に隠岐最大の前方後円墳である平神社古墳(全長47メートル、長さ約8メートルの横穴式石室)
      も見られました。


         
     墳丘長:約46メートル 
     後円部 - 2段築成 直径:約32メートル  高さ:約5.5メートル
     前方部 - 2段築成  幅:約20メートル   高さ:約4.5メートル

       埋葬施設は横穴式石室で、後円部の西寄り(くびれ部寄り)に位置し、南西方に開口します。
       現存のものは長さ約8メートル、奥壁幅約2メートルを測れますが、岩瀬千塚天井古墳群にも見られますように、
       天井石を含む石室の上半部分を喪失していました。
 なお、この石室は後円部中心からずれた位置にあることから、
      東側(後円部中心付近)にも別の石室が存在する可能性が指摘されています。

   さて、さて、11番歌の由来は、『古今集』巻九の中にヒントが、、羈旅歌に、
   「隠岐国に流されける時に、舟に乗りて出で立つとて、京なる人のもとにつかはしける」と、詞書にございますが、
   作者の小野篁様が、遣唐使に任じられましたけれども、それを断ったため、(八三八)年隠岐へと流罪になっていたことを踏まえた上で鑑賞されますと、
   単なるおおらかな船出ではなくて、絶唱のような気がします。ここに、詞書の重要性を認識させられました。小野篁様船出の場所は、難波のようです。
   

 当時の貴族に存在したイメージについて人麻呂流人説

  

  『万葉集』巻二のなかには、柿本人麻呂様の絶唱歌もみれます。二三〇番歌、二三一番歌、二三二番歌の鑑賞をおすすめいたします。ここでは、『小倉百人一首』の鑑賞を目的に
 隠岐諸島のお話をいたしていますので、『万葉集』について、もっと、もっとお勉強をなさるかたには、『水底の歌』(上)梅原孟著 p246〜p254をご参照ください。

 
 岡山県で伝承された児島高徳の「天勾践を空しうすること莫れ、時に范蠡の無きにしも非ず」につきまして

    「天よ、勾践が命を失うような目に遭わせないでくれ。時が来れば、范蠡のような忠臣だって出ないこともないのだから」
 

 失意の人に勇気をあたえる詞です。鎌倉時代末期、北条氏に捕らえられて隠岐へ流される後醍醐天皇を奮起させようとして、
 
児島高徳様が桜の幹を削 って書いたことばです。
 「勾践」は中国春秋時代の越王。呉に捕らえられましたけれども、忠義の臣范蠡の助けで再起しました。
 この児島様の伝承がのちになって、明治の『巌頭の感』のルーツであるとふと思いました。




 十二、          天つ風 雲のかよひ路 吹きとぢ
                             をとめの姿 しばしとどめ
                           僧正遍照

 五節の舞姫を見てよめる  良岑宗貞(遍照の在俗名)  『古今集』


    雲のかよひ路     雲と雲の隙間。天への通路。
    吹きとぢよ       「天つ風」への依頼、 複合動詞・上二段活用命令形。〔ぢ・ぢ・づ・づる・づれ・ぢよ〕
    しばしとどめむ     「む」 意志・希望の助動詞。〔ま・〇・む/ん・む/ん・め・〇〕

    *僧正遍照  六歌仙の一人です。桓武天皇の孫で、安世の第八子。仁明天皇の時、蔵人の頭となりましたものの、
             三十五歳で出家。『古今集』に、彼の批評がございます。
              ≪・・・・・・まず、僧正遍照は、歌の姿はご立派ですが、信憑性が少ないです。例えば、絵に描いた
             女性を見。むだむだと人さまの心を動かそうとするようですね。と、「仮名序」に、
                
              「新芽の出た柳の枝を浅緑色の糸を撚り合わせたものとすれば、そこにおかれた白露は糸に貫かれた
               水晶の玉でしょうか。蓮の葉はそれを育てる池の水のにごりにも染まらないきれいな心の持主なのに、
               どうして人さまを欺いているのですか。」

                  嵯峨野で落馬したときに詠まれた歌です。

                ” 寝ぬる夜の 夢をはかなみ まどろめば
                                   いやはかなにも なりまさるかな ”
         
    と、のっていました。


 十三、            筑波嶺の 峰より落つる 男女川
                                 恋
つもりて 淵となりぬる
               陽成院


  茨城県

    *つくばね    筑波嶺・新治・真壁の三郡の境に存在して、峰は男体(西)と女体(東)とにわかれています。
              女体は、歌垣の場(常陸風土記)と伝わっています。

               「より」 起点を表す格助詞です。 「落つる」 落つ・ち・ち・ちつ・つる・つれ・ちよ 【動詞】連体形です。

               「ぞ」係助詞の結びは、「ぬる」完了の助動詞・連体形な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ねですね。百人一首は、
               6番歌にもみられますけれども、体言止がお好きなようですね。
         

 十四、             みちのくの しのぶもぢずり 
             誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに     

                              川原左大臣


 
 
【河原左大臣(かわらのさだいじん・弘仁13年〜寛平7年 / 822〜895年)は源 融(みなもとのとおる)のことで、
  元は嵯峨天皇の皇子でしたが、皇族をはなれての姓を名乗りました。貞観十四年(872)に左大臣となり、京都
  六条の河原院に住んだことから、河原左大臣と呼ばれるようになりました。

  融は宇治と嵯峨に別荘を持っていましたが、宇治の邸は融がなくなった後、藤原道長の別荘となり、その子の
  関白・藤原頼通が寺に改めたのが平等院です。

  「しのぶもぢずり」は忍び草を用いた乱れ模様の布のことです。
  心の乱れが目に見える形で詠まれています。(みちのくの しのぶもぢずりは、『乱れ』を引き出す序詞です)
    *誰ゆゑに     あなたよりほかのだれかのせいでしょうか。
    *われならなくに
  「われ」自称代名詞です。断定の助動詞「なら」ら・り/に・り・る・れ・れ未然形です。
この歌は「忍ぶ恋」をテーマにした中でも代表的な歌であったらしく、在原業平の作と言われる恋物語
「伊勢物語」の最初の段にも引用されています。
元服直後の若い男が、奈良の春日で偶然若く美しい姉妹と出会い、着ていたしのぶもぢずりの狩衣の裾を
切って、という歌を書いて贈ります。

      春日野の 若紫の 摺り衣 
              しのぶの乱れ 限り知られず


それが、この「陸奥の〜」十四番歌を元に作ったものだと語られます。
藤原定家もやはり、
     

      陸奥の 信夫もぢずり 乱れつつ 
              色にを恋ひむ 思ひそめてき

  
 
という歌を作っており、「しのぶもぢずり」が人気の題材だったことが伺えます。この「しのぶもぢずり」を作るのに使った
「文知摺石」は、今でも福島県信夫郡に残っています。
江戸時代には、「奥の細道」の旅行では、松尾芭蕉が信夫の里に寄り、この石を見ていったという記述があります。



 十五、               君がため 春の野にいでて 若菜つむ
                     わが衣手に 雪はふりつつ                 光孝天皇
 

 

  『古今和歌集』春歌一の詞書によりますと、仁和帝が即位なさる前、親王でいらした時に、ある方に御贈りなされた若菜に添えた御歌と、あります。
        *春の野に      お正月のころです。
         「いで」 いづ ダ下二段動詞の連用形です。 で・で・づ・づる・づれ・でよ 
         「つむ」 つむ 四段活用動詞の連体形です。 ま・み・む・む・め・め

孝徳帝は飛鳥時代を生きました。はじめは軽皇子と申しました
645年から孝徳天皇として即位して姪である間人皇女を皇后(妻)とします。
じつは孝徳天皇は、即位する前に別の女性と関係をもち子供を授かっています。阿倍小足媛(おたらしひめ)その子供の名は
有間皇子
です
孝徳帝は中大兄を皇太子として646年に改新の詔を発布して大化の改新をすすめます。孝徳天皇は天皇となりましたが、
実際には
中大兄皇子が権力を握っていました。次第に孝徳天皇は自己主張をはじめて次期天皇にも、自身の息子である
有間皇子(ありまのみこ)を推すようになります。また都を摂津(現在の大阪府)難波長柄豊碕宮(ながらのとよさきのみや)に遷します。

これらに反発した中大兄皇子は、孝徳天皇を難波に残して、皇極天皇間人皇后を連れて飛鳥の宮に戻ってしまいます。
気を落とした孝徳天皇は、皇位を捨てて離宮で隠れて暮らそうと考えます。しかし孝徳天皇は654年11月24日離宮が完成する前に
病気で亡くなります。享年58歳。

                                
          山田上ノ山古墳は磯長谷に面した丘陵上に存在する径35m、高さ7mの円墳(八角墳の可能性もあり)です。



 十六、         立ちわかれ いなばの山の 峰に生ふる
                          
まつとし聞かば いま帰り来む            中納言行平

     
      
まつ  「松」と「待つ」の掛詞。「待つ」の主語は対者です。

            作者は、在原行平で、業平の異母兄です。 三十八歳のとき、因幡の守に任ぜられ、山陰の地に旅立つときの一首です。



 十七、                ちはやぶる 神代もきかず 
                  竜田川 からくれなゐに 水くくるとは             在原業平朝臣



    (あんなこと、こんなこと不思議なことが多かった)神代の時代さえも聞いたことはございません。竜田の山は、竜田川に紅葉を流して、
    紅色に染めているのですか。

       『古今集』秋・下の詞書には、
    
     二条の后の春宮のみやす所と申しける時に、御屏風に龍田川にもみぢ流れたるかたをかけりけるを題にてよめる

   と、ございます。
   
   
  十八,、         すみの江の 岸による波 よるさへや
                   夢のかよひ路 人めよくらむ                  藤原敏行朝臣

  
 『古今集』の恋歌 二に、寛平御時きさいの宮の歌合のうた (后の宮は、宇多天皇の后温子さんです)

     *人めよくらむ  「人目」は人の見る目、人から見られていることです。  「よく」避ける、避けるの意味です。
「よく」は、
                 上代では上二段活用、き・き。く・くる・くれ・きよ と活用しておりました。 「らむ」は、現在の推量の助動詞です。
                 〇・〇・らむ/らん・らめ・〇
     *藤原 敏行(ふじわら の としゆき)は、平安時代前期の貴族歌人書家 宇多朝に入ると、
                 仁和4年(
888年五位蔵人に任ぜられますが1年ほどで病気により辞任しています。
                  
また、敏行は多くの人から法華経の書写を依頼され、200部以上を書いたが、を食すなど、
                不浄の身のまま書写したので、
地獄に落ちて苦しみを受けたとのことです(『宇治拾遺物語』)。
       



 十九、          難波潟 みじかきの ふしのまも
                      あはでこの
を すぐしてよとや             伊 勢



   *この作者伊勢さんは、伊勢の守藤原継蔭さんの娘さんです。宇多天皇の子を産み、伊勢の御ともいわれたお方です。
    『源氏ものがたり』 桐壺の巻に、「、、、、、長恨歌の絵亭子院にかかせ給ひて、伊勢、貫之によませ給へる大和語の葉をも、、、、、、」
    と、ございます。このことから、彼女は紀貫之と並ぶほどの歌人であったことがわかります。

   *あはでこの世を すぐしてよとや 「あはで」の主語は伊勢さんとしとき、「で」は打消しの接続助詞。(ずてのリエゾンしたもの)です。
    「世」は世の中と、男女の意味を掛けています。また、同時に二つの節の間をいう「芦」「節」の隠語「よ」を掛け、「てよ」は完了・確叙の
    助動詞「つ」の命令形です。「と」は以上の全句をうけまして、(「言ふ」などの意味を示す格助詞)、「や」は、格助詞です。このあとに、
    「言う」んどの語を補って読めば、この歌の理解はし易いです。


 二十、          わびぬれば いまはたおなじ 
                難波なる みをつくしても あはむとぞ思ふ              元良親王



      『後撰集』恋・五の詞書に、≪こといできてのちに 京極の御息所(御座所)につかはしける≫と書き添えていますが、京極の御息所とは、
      宇多天皇の御息所褒子のことです、「こといで」とは、二人の秘められた恋の露見のことです。
      初句の「わびぬれば」は、このような逢瀬が露見したことを背景にしている歌のようです。

     *わびぬれば  「わぶ」 どうしょうもなく悲しいことせす。 「めれ」は、完了の助動詞「ぬ」の已然形に接続し「ば」がついて、確定条件を表します。
     *いまはたおなじ  「いま」 「はた」 は共に副詞です。「おなじ」は形容詞シク活用・終止形です。したがって、「身をつくす」身を捨てると同じ意味。

      

      「噂が立ってしまい」悲しい思いをしています。いまさらもう、どうにもなりません。難波の「みをつくし」のように、いっそ、身を滅ぼしてもそなたと
       逢瀬したいものです」

      元良親王(もとよししんのう)は、平安時代前期から中期にかけての皇族歌人陽成天皇の第一皇子です。
      宇多院
妃の藤原褒子「ほうし」との恋愛が知られます。


 二十一、          今来むと いひしばかりに
                     長月の 有明の月を 待ち出つるかな            素性法師                  

  あなたが、いますぐ子来られるといいました。今か、いまかと待つうちに、、朝になってしまいましたことです。
 (有明の月)男性の素性法師(僧正遍昭の子が、女性の立場に立って詠まれた歌です。それとも、自分の体験談でしょうか。

 *いまこむと いひしばかりに 「いま」は副詞、今すぐのことです。「こ」は動詞、来の未然形こ・き・く・くる・くれ・こ/こよ。「む」は意志を表す助動詞、
                    「む」の終止形ま・〇・む/ん・む/ん・め・〇です。「し」は、過去の助動詞「き」の連体形〇・き・し・しか・〇です。


 二十二、           吹くからに 秋の草木の しをるれば 
                            むべ山風を 嵐といふらむ          文屋康秀


  
学生時代の教科書には、「この一首は、『枕草子』の中にも出る。」
メモがありました。
    ≪野分のまた日こそ、、、、、(略)もののあはれなるけしきに見いだして、「むべ山風を」などいひたるも、心あらんと見ゆるに、≫『枕草子』

 *むべ山風を 嵐といふらむ「むべ」は、なるほど・道理での意味の副詞です。「らむ」は助動詞、現在推量の助動詞、〇・〇・らむ/らん・らむ/らん・らめ・〇



 二十三、             月みれば ちぢ物こそ かなしけれ
                       わが身ひとつの 秋にはあらねど             大江千里


 この歌は、『白氏文集』巻十五の、
 滿窗明月滿簾霜 被冷燈殘払臥床  燕子樓中霜月夜 秋來只爲一人長 
( 満窓(まんさう)の明月、 満簾(まんれん)の霜。被(ひ)は冷やかに、燈(とう)は、残(うす)れて臥床(ふしど)を払ふ。
    燕子楼(えんしろう)の中(うち)の
霜月(さうげつ)の夜、秋来(きた)つて只一人(いちじん)の為に長し。 )

 夫婦の仲睦まじさの表現の比翼の鳥、連理の枝出てくる「長恨歌」を参考にしたのだといわれます。
                                                    

下の句、わが身ひとつの 秋にはあらねど、は、「あらねど」逆説の接続助詞でおわりますけれども、
たんなる、倒置法とは考えずに、余韻を鑑賞する目的で、この句をおぎなって味わいたいですね。たとえば、・・・・・・さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む。


 二十四、             このたびは ぬさもとりあへず 手向山 
                         もみぢのにしき 神のまにまに            菅家


官家とは、東風吹かば匂ひおこせよ梅の花あるじなしとて春な忘れそで有名なお方、
菅原道真さんですね。私は、あなた様にお渡しするお金はございません。と、言っている様ですね。

宇多天皇は、先帝である光孝天皇と藤原基経の後押しもあり、一度臣籍から降りて源氏姓を名乗っていましたが、
皇籍に戻り即位しました。
「阿衡事件」のあと、藤原基経が亡くなった後は菅原道真を重用するようになりました。
曾祖父の時代に、学問により朝廷に仕える中流の貴族だったので、宮中での出世はあまり望めませんでしたが、
18歳で文章生という朝廷に学問によって使える文章博士の候補生となりました。
そして、朝廷の文章博士となり、
以後宇多天皇の信任を受けて要職を歴任することになります。
それまで宮中で権勢をふるっていた藤原基経亡き後
有力者がまだいなかった藤原氏を牽制していたのも菅原道真です。

しかし、宇多天皇の時代が終わりに近づくと、藤原時平という人物が台頭してきて、菅原道真と藤原時平がツートップ
となる体制になり、宇多天皇から醍醐天皇に譲位された後もその体制が続きました。

そしてついに讒言によって、大宰員外帥に左遷されてしまうのです。
その菅原道真が怨霊となり、左遷の首謀者や醍醐天皇の皇太子までも次々と呪殺したという噂が流れ、醍醐天皇自
身まで病に倒れてしまいました。
道真さまを鎮魂する為に天満宮に祀られたと伝えられています。関西簿記研究所の創立者、
白井種雄先生は有志たちと大阪天満宮に参詣され、天満宮の鳥居を謎む街並みの一軒に看板を掲げましたとおききいたします。
会計人の育成というには、あまりにも過酷な時代の中、その目標は日常を超えた永遠の真理の探求であり、未来を見据えての
若い芽の育成にありました。その精神は、金子又兵衛氏が作詞されました、大阪学院大学高等学校の校歌に受け継がれています。



『古今集』羇旅歌も詞書に、朱雀院のならにおはしたりける時に、手向山にてよみけると、載っています。
  
この朱雀院とは、宇多天皇で、時期は昌泰元年十月の宮滝行幸の際でしょうか。



 二十五、   名にし負はば 逢坂やまの さねかづら
                人に知られで 来るよしもがな                三条右大臣

                                                                                        後撰集・恋三


 
 逢坂山(おうさかやま)は、滋賀県大津市の西部に位置する標高325mです。別名は「関山」といいます 。

  逢坂山のさねかづらが逢瀬という意味の花言葉であるのでしたら、あなたのもとへ行く方法があればいいのですが、。

 *名にし負はば 逢坂山の さねかづら は、「来る」の序詞。「行く」と同意の掛詞です。動詞の連体形です。こ・き・く・くる・くれ・こ/こよ
  「よし」は方法・手段。「も・がな」は、実現しそうにないことへの願望です。



 二十六、      小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば
                    今ひとたびの みゆき待たなむ                        貞信公(藤原多忠平)

                                                                                拾遺集・雑秋
 貞信公は、関白基経の四男で、菅原道真を讒言した時平とは異母兄弟です。しかし、彼とは、立場を異にして、
 道真との関係も親しかったようです。(914)右大臣、左大臣を経ますと、(930)摂政、(936)太政大臣、
 (941)関白となり、一条太政大臣と呼ばれました。
            

  【 小倉山は雄蔵山・小椋山・隠椋山とも記される標高約296メートルの山です。小倉山は山体が古生層からなり、
 南東に長くのびた尾根は亀山と言われています。
ちなみに小倉山は嵐山とともにかつて小倉山と言われていました。
 
小倉山は山体が古生層(こせいそう)からなり、南東に長くのびた標高70〜80メートルの尾根は亀山と言われています。
 小倉山は嵯峨野(さがの)の西端に位置し、西側と南側に保津川によって形成された保津峡、東側に嵯峨野、
 北東側に古くから葬送の地とされた化野(あだしの)があります。小倉山は嵐山とともに古くから紅葉名所とされ、
 和歌の歌枕(うたまくら)にもなっており、「小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ」、
 
 また、小倉山・嵐山一帯には皇族・貴族らが離宮・山荘を営みました。
 歌人・藤原定家(ふじわらのていか)も小倉山荘を営み、鎌倉時代前期の1235年(嘉禎元年)に宇都宮頼綱から
 「嵯峨野に建てた小倉山荘の障子色紙に歌人の和歌を1首ずつ揮毫して欲しい
」と要望され、
 第38代・天智天皇から第84代・順コ天皇までの100人の歌人から和歌を1首ずつ選び、小倉百人一首を作りました。
 小倉山荘(時雨亭)は厭離庵・常寂光寺・二尊院付近にあったと言われています。


  『拾遺集』の詞書から、宇多天皇が、907年9月10日に大井川に御幸になられたとき、紅葉が見事なので、
 醍醐天皇の行幸もあってもいいのではと、仰せられたので、貞信公がそれを聞いて、そのことを奏上した歌です。
  この歌には、醍醐帝に伝える意図のほかに、「もみぢ葉」に対して、この見事な美しさを、醍醐天皇行幸まで保ってほしい。
 という内容が含まれています。
  また、この歌は、祖父の藤原義房氏の「吉野山 岸の紅葉し こころあらば またの御幸を 色替えて待て
 を、念頭のおいて詠まれた歌とおもわれます。

 * いまひとたびの みゆきまたなむ  「なむ」は、他にたいしての、願望の終助詞です。


 二十七、        みかの原 わきて流るる いずみ
                     いつみきとてか 恋しかるらむ            中納言兼輔

        一般的な解釈によりますと、作者は兼輔ですが、詠み人知らずの歌であることが、契沖によって指摘された歌ですが、百人一首以来
       兼輔の代表歌になっています。

 【みかの原】 「瓶原(みかのはら)」と書き、山城国(現在の京都府)の南部にある相楽(そうらく)郡加茂町(かもちょう)
を流れる木津川の北側の一部を指します。聖武天皇の時代に、しばらく恭仁京(くにきょう)が置かれました。
この歌の舞台「瓶原(みかのはら)」は、京都府の南部、奈良県との境に近い木津川の流域で、京都府相楽郡加茂町
にあたります。この辺りには8世紀に恭仁京が置かれ、栄えました。
現在では、恭仁小学校の北に大極殿の礎石跡が残っています。また加茂町には、恭仁京で鋳造されたという日本最古の貨幣、
「和同開珎(わどうかいちん)」の鋳造所も発掘されています。
さらに、国宝の三重塔や阿弥陀堂がある浄瑠璃寺などもあります。
 

 【泉川】 現在の木津川のこと。ここまでが序詞です。
 【いつ見きとてか】 「き」は過去の助動詞(せ)・〇・き・し・しか・〇「か」は疑問の係助詞です。
            「いつ逢ったというのか」という意味です。


 泉川までが掛詞で、「分ける」と「湧ける」を掛け、泉(いずみ)と「いつみ」を掛ける。さらに「わき」は「泉」の縁語です。
 下の句は、@「噂は聞いているが、一度も逢ったことのない女性への恋」、
       A
「一度は逢ったが、それがとても信じられないような女性への恋」
       といった解釈が分かれる歌のようです。




 二十八、       山里は 冬ぞさびしさ まさりける
                
めもも かれぬと思へば                     源宗于朝臣

                                                                                               古今集・冬
  *この歌の下の句に、掛詞、「かれ」があります。
   人目→離れる。  草→枯れる。
     「ぬ」は完了の助動詞の終止形。「な・に・ぬ・ねる・ねれ・ね」です。




 二十九、           心あてに 折らばや折らむ 初霜の
                       おきまどはせる 白菊の花               凡河内躬恒

                                                                                     
古今集・秋下
 

菊=霜 漢詩の手法を和歌に取り入れています。


  *おきまどはせる  「の」は主格助詞、「る」は、完了・存続の助動詞の連体形「ら・り・り・る・れ・れ」です。
               「おきまどはす」は、他動詞「さ・し・す・す・せ・せ」で、已然・命令の両説に分かれて解釈できるそうです。



 三十、             ありあけの つれなく見えし 別れより
                       あかつきばかり うきものはなし             壬生忠岑

                                                                                               古今集・恋三



 るみ、ありあけの月と共に、生きる。
月は、新月からはじまり、三日月、満月へと形を変え、また新月に戻るという「満ち欠け」を約29.5日の周期で繰り返しています。

この満ち欠けを表したものを「月齢」と言い、新月は月齢0として表します。
月齢15前後の満月のときには、夜を迎える時間に月がのぼり、朝を迎える時間に沈んでいくので、
「月齢16以降の有明の月が、夜明けの空に残っていく」ということになります。


 *あかつきばかり うきものはなし   「あかつき」は夜の明ける少し前で、「春はあけぼの」の少し前。 「ばかり」は程度を表す副助詞。
                        「うき」は形容詞、(憂し)のク活用連体形です、「から・く/かり・し・き/かる・けれ・かれ」。


 三十一、             朝ぼらけ ありあけの月と 見るまでに
                        吉野の里に ふれる白雪                 坂上是則

                                                                                    
    古今集・冬

     芳野山とは、いろんな人想い出を秘めている山です。
武士の棟梁だった源氏と平氏が争った源平合戦。「壇ノ浦の戦い」(1185年)で平氏を滅ぼした源義経は、最大の功労者となるはずでした。
ところが兄・頼朝と不和になり、京都から追われる身に。大物浦(兵庫県尼崎市)から海に出て西国へ逃れようとしますが、暴風雨で吹き戻され
天王寺(大阪市)を経由してたどり着いたのが吉野山(奈良県吉野町)でした。


『吾妻鏡』よりますと、1185年(文治元年)11月、都を落ちた
義経一行は大物浜から九州への船出を試みますが、船が難破して
海を渡ることができず、家人はバラバラとなり、その夜は
四天王寺に宿泊しました。
 
義経は2日ほどここで待つように告げて行方をくらましますが、やがて迎えの馬がよこされ、3日かかって吉野山へ。
 
吉野山に5日間逗留した後、義経と別れ、11月17日、蔵王堂(金峯山寺)に辿り着いたところを捕えられたのだといいます。
『義経記』に 1182年(寿永元年)、後白河法皇は、神泉苑に白拍子100人を呼んで「雨乞いの舞」を舞わせます。
 静御前は、
このとき、舞を見ていた源義経に気に入られて妾となったのだと伝えられています。
静の歌
 吉野山 峰の白雪 ふみわけて いりにし人の 恋ぞ悲しき
 しづやしづ  しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
 『吾妻鏡』と『北条九代記』に、1186年(文治2年)4月8日、鶴岡八幡宮で舞った静御前
 静が歌ったのは義経を慕う歌。
「八幡宮の御宝前で芸を披露するなら、鎌倉幕府の永遠の栄華を祝うべきであるのに、はばかることもなく義経を恋い慕って、
 離別の悲しさを歌うとは、とんでもない」 頼朝。

しかし、政子は頼朝にこう言います。「かつて流人として伊豆にいらっしゃったとき、あなたと私は結ばれましたが、
『平家全盛の時だけに、平家に知られたら大変なことになる』と恐れた父の時政は、私をひそかに家の中に引き込めました。


 *ふれる白雪  「ふれる」は白雪にかかる連体修飾語です。「る」は、存続の助動詞「り」の連体形「ら・り・り・る・れ・れ」。
           しかし、「ふれ」につきましては、四段活用動詞の已然形(サ変には未然形)という説と、四段・サ変共に、命令形だといった解釈もございます。


 三十二、               山川に 風のかけたる しらがみは
                          ながれもあへぬ もみぢなりけり           春道列樹

                                                                                                  古今集・秋下

      

 *しらがみは      しらがみはの「は」は格助詞です。
 *ながれもあへぬ   「あへ」は、「あふ」(動詞の連用形に「も」のついた形に付き、下に打消しを伴って)・・・しようとしても・・・することができない。
               どうしても・・・できない。の意味です。「は・ひ・ふ・ふ・へ・へ」


 三十三、                ひさかたの 光のどけき 春の日に
                          しづ心なく 花のちるらむ              紀友則

                   
                                                                  古今集・春下

 日の光ののどかな春の日に、(どうして)落ち着いた心もなく 花は散りいそぐのだろう。

 ・紀友則 貫之の古今集・哀傷歌の「紀友則がもまかりける時よめる 『あすしらぬ わが身とおもへど 暮れぬまの 今日は人こそ かなしけれ』などから
       彼の存在を知ることができます。また、延喜四年大内紀に任ぜられています。『寛平御時后宮歌合・是貞親王家歌合』などの作者です。和歌山の
       紀氏家の末裔でしょうか。 


 三十四、                  誰をかも しる人にせむ 高砂の
                           松も昔の 友ならなくに              藤原興風
                                                    
古今集・雑上

 
  ・「年老いて」誰を知人にしたものか、「そのあいては高砂の松ぐらいだ」高砂の松でさえも、幼少からの友達ではありませんよ

 

 

高砂や この浦舟に 帆を上げて この浦舟に帆を上げて 月もろともに 出潮(いでしお)の 波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて

はやすみのえに 着きにけり はやすみのえに 着きにけり 

 『高砂は、高砂』』は、能の一つでです。相生の松によせて夫婦愛と長寿にて、大変めでたき能です。ワキ、ワキヅレがアイとの問答の後、上ゲ歌で謡う『高砂や、この浦舟に帆を上げて、この浦舟に帆を上げて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住吉(すみのえ)に着きにけり、はや住吉に着きにけり[2]』は結婚披露宴の定番の一つである作品で有名です。