紀ノ国(きのくに)を揺るがす悲報!少年、病院にて謎の死! 警察の異様な振舞、闇を暴く!
    ―― 平成拾壱年(1999年)拾弐月 報

 
 

    闇夜に倒れた未来ある命

   去る拾弐月弐拾捌日(28日)未明、当時十五歳(15歳)、中学三年生であった康政少年が、何者かに傷つけられ、昏睡状態のまま和歌山日赤病院へ運び込まれた。しかし、少年は搬送から二十四時間後の弐拾九日(29日)、ついに息を引き取った。

  

   医師の冷酷な宣告と「捏造写真」疑惑

 救命救急室に入るやいなや、担当医は**「頭蓋骨折、脳挫傷でもう手の施しようがない」「肋骨が折れて肺に穴があいている」**と、ただちに生存の望みを断ち切る宣告を下した。
 しかも、その際に示されたレントゲン写真には、すでに子供の名前が**「marutaniyasumasa」と記されており、遺族は「医師による証拠の捏造ではないか」**と強く疑念を抱いている模様!

 

病院を我が物顔で支配する警官隊の暴挙!

康政の命が危篤状態にあったこの二十四時間の間に、和歌山東警察署から複数の警察官が病院内に出現。彼らは警察手帳すら提示せず、日赤病院内を我が物顔で歩き回るという不可思議な振る舞いを見せた!

 特に驚くべきは、「エレベーター」前にて康政少年の着衣を家族に渡すまいとし、**「渡さなければ貴様を逮捕してやる!」**と警察官らが大声で恫喝(どうかつ)したという事実である。

廊下で署名を迫る手書き調書!

 その警官の中の安東なる人物は、タイプ打ちではない手書きの調書を廊下で読み上げ、ご遺族に対し署名と押印を強引に迫った。安東氏は**「上司の命令だ」**と主張。しかし、後に遺族が和歌山東警察署を訪ねてこの件を問いただしたところ、磯崎課長が**「わたしの命令です」**と自ら認めた。加えて「林真澄カレー事件のグループとは活動を一緒にしないでほしい」とい言ったが、余は同席していた高野副所長の顔をみると目に涙を溜め俯いていた。そのとき鈍感力のすぐれた安東氏や磯崎氏のような警官ロボットのなかにも、ことの善悪にたいする感情きわまるができる人間があることをを見つけた。そのとき余は康政は粛清されたと確信した。

 みんな警察手帳を提示せず「忘れた」と弁明しながらの陵虐行為を反復実行する警察官たちは、その日赤病院での余に陵虐にたいして論功行賞を受けて出世しているそうである。いままで警察官を世の中の模範と信じ生きてきた康政はこの者たちに殺された、そのことは、まだ病院で治療を受けているときに安東が手書きの調書に署名と実印を課長命令だと言って入ってきたことである。のちにこの行為については磯崎が「すべて私の指示である」と証言している。

 1999年に比べると2026年は警察組織の瓦解がみられる、それは安東たち当時の実行犯グループが自責の念にかられて警察官をやめていないからだ。また、実行犯グループのなしてきたことに疑問を唱え、その不名誉を暴くということを封殺されることなく伝聞しているのは、悪しき伝統や風潮は断固としてこれを排すように警官を辞めた人は、岩本だけのようである。「おとうさん、頭がおかしいのじゃないですか。僕に仲間を裏切れというのですか、そんなことは出来ません警察の人間だすから。それにきいたところでは、息子さんはもんなに自殺したいと言っていたと言うじゃないですか」と、吐露した和歌山北署の警官のスタンスが理解できる。つまるところかれらは時計の部品の集合体でしかないであろう。

?? 疑念深まる警察の動き! ??

 昏睡状態の少年を巡る、病院での異様な医療判断と警察官たちの常軌を逸した行動。果たして、この死の裏に何が隠されているのか。真実を求める戦いは、今、始まったばかりである。





           駅前の井出商店と申しはと、ただの古めかしい中華そば屋でござるが、かのテレビと申す現代の幻術にかかりし以来、俄に全国的な名声を得た由。和歌山には他にも似たような店はあれど、運命の宝籤に当たったが最後、地方の慣習は一躍、世間の流行と化す。
 世間とは実に勝手なものでござる。
かたや、つい先日まで闇の花として賑わいを呈しておりましたる、こんにちYouTubeを騒がしている堀内なる人物が愛用せし**「エンペラー」**と、遥か異国ウクライナの乙女たちが働いていた酒場が、音もなく消え失せてしまった。かつては和歌山の名所とすら言われた真田掘界隈が、一瞬にして廃墟の塵となった。斯くして、町の表裏は絶えず入れ替わり、新しき光の下、古き闇は追いやられてしまうのでござる。この堀内の行動には鈍感力がものを言う警察官であっても自身のエロ行為には蓋をできなかったことであろう。
 それにしても、この駅前の商店街の底地の持ち主が、遥か名古屋駅前にも広大な土地を持つという今川財閥なる大地主であると聞けばただ事ではござらん。先代は相続対策とやらで、地下の土地を国に献上したという噂まで耳にするが、現つに財を成す者どもの心の機微は、我々平民には測り知れぬものがある。今は名古屋から来たという親戚が管理している由。
 さて、問題は駅前の広場で起こった一幕でござる。七月の暑い盛りの第四曜日、余はかの故人ロス疑惑の三浦と申す人物が、いつものようにビラを撒いておった場所へ、和歌山駅の駅員が、まるで借金を取り立てるかのような剣幕で乗り込んできたのである。おまけに警察官まで引き連れてビラ撒き女性への攻撃とあっては、まるで猫が鼠をおいかけている現場をを見るようである。世も末だ。
 駅員は「ここはJRの土地だ」と声高に主張した由。しかし、かの和歌山駅は、昭和四十三年三月三十一日に、市民のための**「民衆駅」和歌山ステーションビルとして産声をあげた建物ではなかったか。当時の和歌山市長宇治田氏が実質的なオーナーであるといままで信じておった。余は元市役所の関係者に和歌山駅は今は誰のものかと問うたところ、今は「善意の第三者」を名乗るMIO**と申す会社が管理しその株式の八割以上をJR西日本が握り、市や県はわずかばかりの株を持っているのみ。そして、故三浦氏らがビラを撒いておった問題の場所と申すのは、元々、和歌山ステーションビルができた頃、「雨の日に市民が濡れるのは気の毒だ」と、歩道に庇(ひさし)を設けるべく、公衆便所と共に市民から宇治田市長に嘆願しし、すなわち市民の善意の結晶たる場所であったのじゃ。それを、今の駅員津崎どもは、まるで自分の庭であるかのように解釈し、**「善意の第三者」**たる会社の本意に背く市民を排除しようと躍起になる。
 ふと構内に目をやれば、北の入口には日本旅行者が贅沢(ぜいたく)な憩いの部屋を作り、その隣では軽四と申す自動車を並べて商売をしている。南の入口には、これまた喫茶店やパン屋が店を構え一回のフロアを占有し商いの利潤を追求している、そのためにひとびとは北の入口は閉ざされ問題の廂の下を通って駅舎へとはいらねばならん。                   10月のあおぞらのビラを拝見して

                             

    
 
      『花山の丘を眺めて』
 今年もホトトギスの声を聴きながらこう考えた。かって花山は縄文人が暮らしていた。そこに弥生人がやって来て、彼らの住み家を分捕って花山一帯に住みつき墓を築いた。康政の横死から世にすむこと20年にして人生の裏表は、日の当たるところにはきっと影が差すと悟った。喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。之を切り離そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世がたたぬ。金は大事だ、しかし快楽のあとは支払わねばならん。盗人を捕まえるのが巡査なら、潔く支払え堀内。エンペラーが喜ぶぞ。そんなことを考えながら頂上に立ち向こうを見ると、空が広いので驚いている。北の方角には紀ノ川が銀の龍のように流れ、西の海には遠く紀伊水道の波が光る。はるか先には淡路島や四国までもが目に入る。人の世の栄枯盛衰を眺めんがために、この高みは昔からここにあったのだろう。ふたたび北のほうに目をやると少し手前に花山の丘の景色が開ける。土をならす丈なら左程手間も入るまいが、土の中には平らな石が埋めてある。ここに弥生人が住んでいた。
 およそ千五百年前、紀氏の大人(うし)がこの丘を見下ろし、ここにその墓を築いたようである。花山八号墳と聞く。丘の背はゆるやかに丸く盛り上がり、竹藪の下に首長の眠る部屋がある。玉と剣とが共に埋められ、静かな闇の中にいまも時の息をひそめている。聞けば三角縁神獣鏡なるも出土したというではないか。
 されど世は移る。太平洋戦争の時代、この丘に鉄と火の人々が現れた。昭和の末期、空に敵の機影が浮かぶころである。古の墳丘は削られ、砲台が据えられた。コンクリートの基が墳墓の跡を覆い、眼下に広がる平野を見張る兵士の影が、かつての首長の幻と交わった。野砲を据えて、平安を祈る。権力をもって築き、恐れをもって墓を削る。千年を隔て、同じ丘に同じ眼差しがあった。いま丘の上には風が吹く。砲の痕は草に覆われ、墳の形はやや崩れながらも、なおこの地の記憶を保っている。余は目の前の大日山に立ちて、風に耳を傾ける。遠い時の彼方から、紀の国の首長と若き兵の声とが、ひとつに溶けて聞こえるような気がした。まるで祇園精舎の鐘の音が如く、かくのごとく重なり、消えて、また甦るものか。近くには縄文人巫女の人骨も発掘されているけれども、岩橋の丘は国の指定を受けたと聞くが、いまだ日本の歴史を伝える花山古墳群は宅地造成工事をもくろむ精力におされて捨て置かれている。これも堀内のごとき看過役人たちのせいだろう。

   
 月影にひそむ二十六年の闇が、ようやくその姿を現した。

 名古屋の街を震わせた西区主婦殺害事件。当時三十二歳の高羽奈美子さんの命を奪った犯人として、逮捕されたのは、意外にも夫・悟さんの高校の同級生であった。安福久美子容疑者、六十九歳余も同じ年である。東海通五番地に住まう彼女が、十月三十日、夕暮れ時、愛知県警西署の捜査本部に自ら身を委ねたことで、永劫の凍りつきかと思われた事件の時間は、俄かに息を吹き返したのだ。
 夫である悟さんの、その執念たるや。彼は幾度となくチラシを配り、風に舞う紙片に妻への思いを託し、メディアの前に立ち、枯れ葉のように散りゆく情報の一片でもと、世に訴え続けてきた。事件現場となったアパートの一室。そこは、まるで時が止まったかのように、二十六年の月日を超えて借り続けられていた。悟さんの心象風景が、そのまま部屋の壁に貼り付いたカレンダーに映し出されている。一九九九年十一月のまま。血痕すら、数年の後に玄関に発見されたという。彼は囁いた。「いつか、あの容疑者をこの部屋に立たせ、現場検証をしたい」と。
 「気持ちが落ち着くまでは」と、悟さんはその部屋を片づけず、実家に移り住んでからも、時折、古い友人に会うようにアパートを訪れた。一人、静かに、奈美子さんとの在りし日を、幻のように追憶していたのだろう。立派な吾人である。人はそこまで頑丈ではない。
 家賃の負担は、十年前にして既に千五百万円以上に上っていたというが、警察はここまでの人の死に対しての拘泥はもちろん皆無だ。当時の取材に、悟さんは複雑な胸中を露わにした。「家賃を払い続け、犯人が捕まればそれでいい。もし、捕まらなかったら……」その言葉の奥には、深い諦観と、一縷の希望が、まるで冬の陽だまりのように揺れていた。
 事件当時、二歳だった長男。悟さんは、多忙な仕事の合間を縫って、その幼い命を育んだ。遊びに連れ出し、その小さな手を引いて歩く。「私たちが楽しむこと、それが奈美子の望みなのだ」と。犯人に対しては、静かな、しかし確固たる意志を込めて語った。「奈美子は殺されたけれど、私たちは明るく、前向きに生きている。それが伝わればいい」と、なかなか残されたものはこのような生活は無理なことである。
 彼はまた、被害者遺族の会「宙(そら)の会」の一員として、殺人事件の時効制度廃止を求める活動に身を投じた。二〇一〇年、法改正により時効が撤廃された時、悟さんは深い安堵と、新たな決意を胸に刻んだ。「あと四年半で逃げ切れると思っていた犯人は、さぞかしがっかりしただろう。明日からまた、犯人逮捕に向けて頑張りたい」と、余もあおぞらの会で「和歌山カレー事件」の事実の情報の渇きを癒やすべく、幾度となく和歌山駅西口の街頭に立ち、駅前を行き交う人々に義らを手渡しているのだ。「どんな些細な情報でも、一件でも多く提供してほしい」その声は、天国にいるるみや康政に届いているだろうか。

             「遥かなる古墳時代の海へ」

――紀伊風土記の丘にて

 吾輩は紀伊風土記の丘で開かれた特別講演に耳を傾けながら人の歴史というものがいかにして形を変えながら今に続いているかを考えた。

 きょうの講師は千葉と海老名市温故館から来たという。二人とも、紀氏の源を海に求める立場である。千葉の人は、鹿の骨で作った釣り針が紀州白浜と語り、これぞ波の道こそ古代の国をつないだ最初の交通であったと説いた。彼のその語り口には、潮の匂いがあった。

 海老名の講師は、少し違った調子で語った。彼は「海洋民の東西交流」という立派な資料を携えてきたが、その資料にそって話はしなかった。 しかし「海人が絶えたのは、風や潮のせいではない。律令の世が始まり、税と戸籍が人を陸に縛りつけたからだ」とj論述した。天武天皇と紀氏直たちが縄文人を弥生人がイノベーションしたごとく、笹川一族が国土交通省に乗っ取られたごとく、ITがアナログ人間を世の中から追い立てるがごと、彼その言葉にはどこか哀しみがあふれていた。海に生きた者が、国という陸の掟の中で息をひそめていく光景がまざまざとあらわれていた。

 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶住みにくかろう。

 国家が形を変貌するとき、自由な民はいつもその外に追いやられる。舟は浜に引き上げられ、潮風は帳簿の墨に負けてゆく。海をわたった紀氏たちはやがて歴史の中から声を失った。だがその静けさの奥に波の音はまだ絶えず響いている。

 丘の上の空は、どんより曇っていたが講義がおわるころ小鳥が気持ちよさそうな声を響かせていた。海は見えないが、あの講師たちの言葉を聞いているうちに、私は心のどこかで紀氏の光を見たような気がした。

         

 熊が出没したという噂に静まり返った開店休業の紀伊風土記の丘へと足を向けた。何たる偶然か、この日は講義の最終日とあって、大阪市大と神戸より講師の方々が来訪されていた。あと残すは田中氏による展示解説のみ。開始までの間、余は施設の研究員に一つ話を持ちかけた。それは、この資料館の創設に尽力された大橋知事婦人の願いを成就させることに他ならない。依然余はかの女から「南風有感」という書を賜り、「伝承してください」との言葉と共に託された石があったのだ。その趣旨を懇々と説明したが、研究員は本の表紙を一瞥しその刹那、「沙也加のことかと」と呟いた。、研究員の態度から受けた余の脳裏には、・・・・・・和歌子様とは「漱石会」で親交を深めていたにもかかわらず、『読書会』で彼女を老いぼれ扱いして愉しんでいた愉快犯たちの姿がよぎった。彼女に知らせずそれは内緒話を宴会の魚に輪を保つことであった。余は和歌子様に忘年会の日時を報告してさしあげた、和歌子様は毅然として当日見えられた。玄関で同行者を帰らせた、そのときのもんなをながめるととても困ったような表情だった。どうして誰もこのことを言わなかったのだろう。余は和歌子さんに主犯者を密告した、すると「餅は餅でもしりもちをつきました」とはがきが届いたのであった。家内はこれを拝見してから和歌子様を大好きになり。 、ここに和歌子様の知事夫人としての位置の存続方法を体験した。(萬波での忘年会)本来、学問の場とは、あらゆる立場の者が意見を交わし、知的な愉悦を満たす劣族にあらず。
                                                                                                
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず
」と言われている。されば、人は生まれながらにして、貴賤上下の別はない。ただ、学問をして物事をよく知る者は貴人となり、無学で物事を知らない者は賎人となる。
    

「私が死んだら、常識では理解できないことが起きる」――。亡き妻が遺した不穏な予言は、いま現実の毒となって私の生活を蝕んでいる。
 令和六年の初春、鍵が盗まれたことに始まった。通報を受けた警察の態度は、およそ市民を守る者のそれとは程遠い。受理番号「二八四五」を記させるまで、どれほどの不毛な押し問答を重ねたことか。印鑑を盗まれた際も、受話器の向こうの警官は「早く切りたい」と露骨に倦怠を漏らした。
 白眉は和歌山駅前の交番である。大河ドラマに心を寄せるわずかな安息の時間、携帯電話が消えた。駆け込んだ交番で対峙した男女の巡査は、名乗りさえ拒み「それが証拠になるから」と不可解な禅問答を繰り返す。被害届は宙に浮いたまま、ただ時間だけが過ぎていく。しかし、現金90万と300万は探そうともしないままだ。
 取り残された私を嘲笑うかのように、警察官の口からは家族の内情が漏れ出す。「娘さんは弟さんの言うことをよく聞くらしい」と、なぜ彼らが、私の家の力学を知っているのか。法を守るべき公権力と、影なき窃盗犯。その境界線が溶け合い、両者が「友人」のように手を取り合っているのではないかという疑念が、背筋を凍らせる。ここに警察民族の瓦解がすでにはじまっている。
 そして今日、令和八年一月十七日。またしても夜中に盗賊がはいり「華岡青洲の妻」の単行本と5、000円が消えた。このように繰り返される日常の欠落は、もはや単なる犯罪ではない。亡き妻の言葉通り、ここは「常識」という物差しが折れた、底なし沼なだ。乾坤一擲のみがこの対処方法だ。

一月二十一日天気晴朗ナレド波高し。夜明けには、お天道様が大地を遍く照らしていた。ところが風景は急変し、妻の火葬の刻限が来ると、空は一変、暗雲が立ち込め、風が吹き荒れ、雪しぐれが舞い始めた。それは、妻へのレクイエムか妻からのメッセージなのだろうか。火葬上において、焼き窯へと棺が進み、いよいよ妻が焼却されようとしたその時、「もう、これで、お母さんに会えやんの」と、失いかけていた、人の心を取り戻したように。娘が棺にしがみつき、泣き崩れた。誰も、別れの窓を開こうとせず、ただ沈黙が続く。・・・・・それが妻からの最後の、そして娘にたいする切なるメッセージだと感じた。 吾輩は膝がガクガク震えるのを感じていた。じっと立っていられず、堪エ難キヲ耐エ忍ビ難ギ忍ビ、すっとその場から進み出たあと棺についてある片方の窓を開き、お棺にしがみついている娘に反対側へ回って、全開にするよう促した。娘は吾輩の命令を素直に実行した.これを実行犯という。ほざけ、われらは善意の実行犯である。妻の顔には白いガーゼがかぶせられ、対面は叶わなかった。大日本帝国の敗戦である。しかし、娘はこのありさまを、母からのメッセージとして、深く脳みそに受け止めたに違いない。読経を終えたおしょうさまが変えられたとき、娘に向かい、「めずらしいなあ、今日のこの景色、心に刻んどいて」と言い残し、去っていった。

妻の遺骨は、最期のお別れさえ叶わぬまま。まるで、一九九九年に火葬された長男の時のように覚醒剤常習者のようになっていた。 このような状況にあって、吾輩の我が儘を受け入れてくださった火葬場の方々には、感謝の念に堪えない。南無阿弥陀仏


鳥辺野の 霞をもよほす 風よりも
                                        先立つものは 涙なりけり


                極楽を 願いし人の 跡なれば
                     絶えぬ煙も 慕はしきかな


                         
                     When Death Comes

 When death comes like the hungry bear in autumn; when death comes and talkes all the bright coins from his purse to buy me, and snaps the purse shut; when death comes like the measle-pax; when death comes like an iceberg between the shoulder blades, I went to step through the door full of curiosity wondering: what is it going to be like, that cottage of darkness? And therefore I look upon everyting as a brotherhood and a sisterhood, and I look upon time as no more than an idea, and I consider eternity as another possibility and think of each life as a flower, as common as a field daisy, ana as singur, and as singular, and each name a comfortable music in the mouth, tending, as all music does, toward silence, and each body a lion of courage, and something precious to the earth, When it's over, I want to find myself sighing and frightened, or full of argument, I don't went to end up simply having visited this world.

                                                                MARY OLIVER

  We shall fight on the Road


一月睦月の土曜の風は、駅のタイルをなめるように吹き抜け、老いた体に容赦なく突き刺さる。 西口の玄関からは、吐き出される冷気とともに猫七さんが現れた。 かつての彼なら、背筋を伸ばし、道行く人々を射抜くような眼差しでビラを差し出していたはずだ。しかし、今日の猫七さんは小さく丸まり、まるで枯れ木が風に震えているようだった。

「心ここにあらざる」

その言葉が、私の胸を衝く。信じ抜いた男の絆、林死刑囚へ、救うために捧げた歳月が、獄中からの提訴という鋭い刃となって彼を襲った。長年の善意が「悪意」へとすり替えられる絶望は、長年営まれた家業の閉店に追い込んだ、彼の魂を磨り減らすには十分すぎる毒だった。そこへ、制服を着た二人の警官が通り過ぎた。彼らは歩道に立つ私の前で視線を交わし、足早に駅の中へと消えていく。その事務的な足音には、どこか不穏な予兆が含まれていた。

数分後、北側から駅長が歩いてくるのが見えた。 彼は、駅の廂(ひさし)の下で雨を避けながら、力なく立ち尽くす猫七さんに近づくと、労いの一言もなく事務的に吐き捨てた。 「そこは駅構内だ。ビラまきは認められない」

私が歩み寄ると、猫七さんは濡れたビラを胸に抱え、消え入りそうな声で言った。 「……いま、警官を呼びにいったよ」

出来すぎたタイミングだった。駅長が指示を出し、警官が先回りする。組織的な、あまりに無機質な排除の論理。 戻ってきた巡査たちは、壊れた蓄音機のように同じ言葉を繰り返した。 「ここは構内だ。出ていけ」 「駅長がそう言っている」・・・・私は彼らの上司であろう突然、池口の顔がうかんだ「生命と仕事のどちらが大切ですか」「俺は職務に忠実でね」。誰も猫七さんをかばいに来ない。

私にはわかっていた。この場所は法律上「みなし道路」としての性格を持っている.それは明らかだ.それが証拠に廂の下には歩道いっぱいに同じタイルが敷き詰められている。境界線の議論は学問的には明白だが、目の前の若い巡査たちにそれを説くのは、壁に向かって経を唱えるようなものだ。彼らの正義にはロゴスがみえず職務権限という狭い檻の中にしかない。わたしは巡査たちの言動を民事介入と判断したい。こんなに一般市民をふかいにできるなら、二度目の人生は巡査になってこの世を謳歌してみよう。

「小さな遺恨が大きくなると、取り返しのつかないことになるぞ」 私が静かに諭すと、巡査は面倒そうに顔を歪めた。 「大げさなことを言うな。」と怒鳴るので「シィー」人差し指で「静かに!」と諌めたが巡査も頭に血がのぼっているようだった。

そのやり取りに飽きたのか、駅長が口を挟む。 「ビラを撒かないというなら、雨宿りぐらいはさせてやる」「駅の外で蒔くのは私には関係ない」恩着せがましいその言葉に、巡査たちは不満を隠そうともしなかった。せっかくの「排除」が中途半端に終わったことに、苛立ちを募らせている。私はあおぞらの人に「これで林死刑囚に罪を追わせた和歌山の風土に納得できますか」と言った。

寒空の下、猫七さんはただ黙って、向こうを見つめていた。その瞳には、かつての闘志の破片すら見当たらない。 国家という巨大な装置と、個人の裏切り。その二つの冷たさに挟まれながら、老いた背中はただ、憔悴しきっていた。




「はたらけど はたらけど……」

あおぞらと吾輩は。林死刑囚が「裁判」で提起した、権力と不条理を、権力側とそれに該当しない側にたいしてさらに命を懸けた実践へと繋げようとしたのです。あおぞらという昭和時代を生き抜いたひとびとが、時代という名の荒波に飲み込まれていった一つの凡例をみた。猫七と吾妻。一人はあおぞらで行動、に、一人は他界、この魂はどこか深い場所で共鳴していたように思えてならない。それは権力に向かってはっきりと自分自身を発信できる姿である。吾輩が駅前に通いながら彼らをながめるこのスタンスはありし日の丸谷康政を小林多喜二のように思えるからであるである。小林多喜二の最後の様子を紹介したい。


   赤坂、午後一時の罠

1933年2月20日。東京・赤坂の町に、冷たい風が吹き抜けていた。 小林多喜二は、襟を立てて人混みに紛れていた。警察の目を逃れる「地下潜行」の生活。孤独な戦いの中で、彼が信じたのは「仲間」という絆だった。しかし、その絆こそが彼を死へと誘う罠(トラップ)となる。仲間の三船という男から届いた「連絡がある」という誘い。多喜二は疑うことなく、指定された場所へと足を向ける。だが、三船はすでに警察の手先――スパイとなり果てていた。 待ち合わせ場所に現れた多喜二を待っていたのは、固い握手ではなく、特高警察たちの冷たい怒号と屈強な腕だった。
   
  築地の闇、沈黙の数時間

連行されたのは築地警察署。そこからの数時間は、人間が人間に対して行える最も残酷な時間の記録だ。 多喜二は一切の黙秘を貫いた。名前すら名乗らない。その頑ななまでの沈黙が、警察官たちの狂気を加速させた。太い竹棒が振り下ろされ、革鞭が空を裂く。夕暮れ時、多喜二の意識は遠のき、29歳という短すぎる生涯を閉じた。 当局の発表は「心臓麻痺」。しかし、変わり果てた姿で戻ってきた彼の遺体を見た人々は、言葉を失った。その下半身は、拷問の凄まじさを物語るようにどす黒く腫れ上がっていたという。多喜二がその短い生涯の中で、心の支えにしていた歌がある。

はたらけど はたらけど猶わが生活(くらし)楽にならざり ぢつと手を見る

石川啄木が遺したこの一握の砂のような言葉。多喜二はこの歌を、単なる個人の嘆きではなく、社会の構造が生んだ「叫び」として受け取っていた。啄木が言葉で描き出した「貧困のリアル」という種は、時を経て多喜二の中で『蟹工船』という強靭な物語へと成長し、ついには自らの命を捧げるまでの信念へと昇華されたのだ。

多喜二の死後、友人や母親が遺体を囲む一枚の写真が撮られた。 本来なら隠蔽されたはずの国家の暴力を、その無言の遺体が、そして写真という記録が、100年後の私たちにまで告発し続けている。多喜二が死の間際、最後に思い浮かべたのは、故郷の母の顔か、それとも啄木が歌ったような「楽にならない生活」の中で懸命に生きる労働者たちの姿だったのだろうか。
                            
   死の沈黙を破る「どす黒い真実」

築地警察署から「心臓麻痺」として運び出された多喜二の遺体は、阿佐ヶ谷の自宅へと戻されました。友人たちが震える手で死装束に着せ替えようと、彼の衣服を脱がせた瞬間、部屋の空気は凍りつき、そこにあったのは、29歳の若々しい肉体ではなかった。

居合わせた人々は、こみ上げる吐き気を抑え、あるいは声を上げて泣き崩れた。これが、たった数時間前まで生きていた「仲間」の成れの果てか。

   母の咆哮と、レンズの証言

その凄惨な遺体の傍らで、母・セキは息子の冷たくなった足をさすり続け、叫びました。

「それ、もう一度立ってけれ! 働く者のために、もう一度立ってけれ!」

この阿鼻叫喚の図を、歴史に刻もうとした者たちがいた、官憲の目が光る中、友人たちは密かにカメラを持ち込み、シャツターをきった。光の中に浮かび上がったのは、変わり果てた多喜二を囲み、悲しみ以上に**「静かな怒り」**を湛えた人々の顔でした。警察がどれほど「病死」だと強弁しようとも、その一枚の写真に写った「黒く腫れ上がった太もも」が、何よりも雄弁に拷問の事実を物語っている。

 100年後の私たちへ届く「痛み」

警察は葬儀を妨害し、弔問客を次々と逮捕し、遺体の写真を載せた雑誌は即座に発売禁止となりました。しかし、ネガは守り抜かたのである。今日、私たちが教科書や資料館で目にするあの写真は、単なる過去の記録ではない。
「人間が、これほどまでに残酷になれるのか。そして、人間が、これほどまでに信念を貫けるのか」
写真の中の多喜二の遺体は、100年の時を超えて、今もなお私たちの胸ぐらをつかみ、問いかけてくるのです。
                                

この写真は、1933年2月21日、多喜二の遺体が自宅に戻された際に撮影されたものです。中央で遺体に寄り添い、深い悲しみに沈んでいるのが母・セキです。その周囲には、特高警察の監視の目をかいくぐって駆けつけた友人や仲間たちが集まっています。彼らの表情には、単なる悲しみだけでなく、国家権力に対する無言の抵抗と、この惨状を歴史に書き留めようとする強い意志が刻まれています。当時の新聞や雑誌では掲載が許されなかった「禁じられた写真」でしたが、戦後、ようやく私たちが目にすることができるようになりました。多喜二が命を懸けて守ろうとした「働く者の権利」や「表現の自由」は、今の日本において当たり前の権利として存在しています。あのどす黒く腫れ上がった多喜二の足は、私たちが享受しているこの自由の「代償」だったのかもしれません。



昨年、大学の公開講座の帰路であった。和歌山駅の西口へ降り立つと、寒風に吹かれ、歯の根も合わぬほどに身を震わせながら、一心に紙礫(かみつぶて)を配る老人らたちの一団があった。林真澄死刑囚の無罪を訴えているという。なかでも、S氏という御仁の立ち居振る舞いは、実に見事なものであった。 「どうか、みなさん、ビラを受け取ってください」 その声は、乱れることなく、整然として、冬の乾いた空気に凛と響く。 その姿を眺めているうちに、私の胸のうちは、妙な懐かしさでいっぱいになった。あれは昭和四十年代の半ば、天王寺駅と近鉄百貨店を繋ぐ、あの巨大な歩道橋の上。この国の未来を信じて疑わなかった学生たちが、やはりあのようにして、熱を帯びたビラを配っていた。あの光景が、ふいと目の前に重なったのである。はじめ、私は気圧(けお)されて近寄れなかった。側におられた婦人も、どこか腰が引けているようで、その日はついに手を出せずに通り過ぎた。 けれど、どうしてもあの「天王寺の気配」が忘れられず、翌月、私は自ら歩み寄り、その一枚を頂戴した。指先に触れる紙の感触に、若かりし頃の、あの青い情熱の残滓(ざんし)を読み取ったような気がして、ひとり得心したものだ。しかし、そうした感傷とは別に、一抹の危うさも感じずにはいられない。 彼らは、この和歌山という土地の、地底深くに根を張る「権力」というものの、真のおそろしさを、果たしてどれほど判っているのだろうか。正義の美しさだけで、あの重たい土を動かせると信じているのなら、それはあまりに、危なっかしい。そうして彼らから高橋和己さんという作家の存在を知り、一年が過ぎた。 近頃、あのS氏の様子が、どうもおかしい。 かつての整然とした佇まいに、どこか翳(かげ)りが見える。張り詰めていた糸が、一箇所、また一箇所と、音を立てずに綻(ほころ)び始めているような。 人の一生の、ふとした拍子に訪れる、あの「崩れ」の予兆。 「おとうと」を見守る幸田文のような心地で、私は遠くから、その行方を案じているのである。あれから、世の中の風向きが変わった。 あのような寒空の下、一心に無罪を念じていたS氏の元へ、あろうことか、その本人から訴状が届いたというのである。

林真澄死刑囚――。 助けよう、救おうと、身を削って立ち働いてきたその相手から、大阪地方裁判所へ呼び出されたのだ。二月二十七日に出頭せよ、という。前触れもなく、いきなり裁判の当事者として引き摺り出される。その知らせを聞いたとき、私はただただ、呆然とした。S氏を支えてきた周りの人々も、みな一様に、言葉を失って立ち尽くしている。 これまで「乙」として寄り添い、慈しんできたはずの相手が、今や「甲」として立ちはだかる。そして、あんなに真っ直ぐなS氏が「被告」という、冷え冷えとした立場に置かれてしまった。人生というのは、つくづく、厄介なものだと思う。 人の冤罪を晴らそうと願い、己の安寧を後回しにしてきた善き人が、なぜか罪人(つみびと)の如く裁きの場へ立たされる。 善意がそのまま通らないどころか、鋭い切っ先となって返ってくる。 その矛盾の鋭さに、私は胸が締め付けられるような思いがした。「おとうと」が病床で、姉の献身をはねのけるような、あのやるせない、救いようのない、命のねじれ。 S氏の背負うた荷物の重さを思うと、この世の道理の無情さが、冬の湿った風のように肌にまとわりついて離れないのである。

 S様

浅春の折、和歌山駅の西口に吹く風は、今なお肌を刺すような冷たさかと存じます。 先般、思いもよらぬ「訴状」が届いたとの報(しら)せに接し、私は言葉を失いました。あの日、あなたが寒空の下で歯をガチガチと鳴らしながらも、整然とビラを配っておられたお姿。その清々(すがすが)しさに、私はかつての天王寺の歩道橋で見た、ひたむきな学生たちの影を重ね、深い感銘を覚えたものでございます。それほどの真心をもって、無罪を信じ、尽くしてこられた相手から、あろうことか「被告」として法廷へ呼び出されるとは。二月二十七日という日付が、どれほど残酷な重みをもってあなたに迫っていることか、拝察するに余りあります。
人生には、時として、善意の裏側に毒が潜んでいるような、言いようのない不条理が転がっているものです。救おうとしたその手に、いきなり冷たい錠をかけられるような仕打ち。それはまるで、看病の果てに身を削り、それでも報われぬ幸田文作「おとうと」を見守る姉のような、やるせない、ねじれた痛みでございます。けれど、どうか、ご自身の歩みを否定なさらないでください。 あなたが「乙」として注いだ情熱も、あの冬の日に私たちに手渡してくださったビラのぬくもりも、決して偽物ではございません。相手が「甲」となり、牙を剥いたからといって、あなたの誠実までが泥にまみれることはないのです。
法廷という場は、冷え冷えとして、人の心を削る場所かもしれません。 なれど、あなたの後ろには、そのひたむきな姿を確かに見ていた私たちがおります。 今はただ、心身を大切になさってください。 厄介な世の道理に、あなたの清らかな芯までが折られてしまわぬよう、遠き空より祈り続けております。

令和八年二月吉日                           丸谷 拝上

 二月二十七日。暦の上では春とはいえ、法廷の空気はまだしんとして冷たい。 定刻五分前、乙はすでに席についていた。身を律するようにして座るその背中に、今日という日への覚悟が滲んでいる。しかし、待てど暮らせど、あらわれるべき甲の姿はついになかった。傍聴席を見渡せば、そこには十六名の男女が静かに控えている。映画『マミー』の監督さんの姿もあり、その作品に心を寄せたのであろう若い女性の姿も混じっている。多種多様な人々が、一つの真実を見届けようと、固唾を呑んでこの場に集ったのである。
主のいない空席を前に、裁判は立ち往生を余儀なくされた。 裁判官は、困惑の色を隠せぬままS氏へ歩み寄り、今後の運びについて静かに問いを投げかける。形ばかりの閉廷を良しとするような、どこか濁った空気のなかで、S氏は凛として答えた。「この場に集まってくださった支援者の方々のためにも、私は裁判を続行したいのです」その言葉には、私情を超えた、ある種の「潔さ」と「責任」が宿っていた。 甲の不在という、いささか締まりのない幕切れを拒み、筋を通そうとするS氏のひたむきな眼差しが、冷えた法廷の空気をわずかに熱くしたように感じられた。
                                      次回 2月24日 11時30分 233号 

   

 「産・官・学」が密室で共謀した巨大な利権構造の実験場

 

 帚木蓬生という書き手が、あの『悲素』という物語に込めたものは、単なる毒物の恐ろしさではなかった。それは、人の命を数字と紙幣に置き換えていく、知識階級の喉元の乾きである。三好氏が暴いた「崩壊する肉体の地図」と、帚木氏が予見した「毒とカネを操る徒党」。  この二つが、和歌山のあの煮え立つ鍋の上で、音もなく合致する。  行政という巨大な歯車が、保険金という潤滑油を使い、新薬という果実を得るために、無垢な民の肉体を「苗床」としたのではないか。そんな、およそ人の道に外れた憶測が、いまや重たい現実味を帯びて迫ってくる。医学に携わる者、行政の椅子に座る者。彼らにとって、ヒ素に焼かれる人々の悲鳴は、精緻なグラフを彩るための「ノイズ」に過ぎなかったのか。  皮膚が焼け、壊疽が始まり、命が削られていく。その一つ一つの過程が、どこかの研究室では「貴重な臨床データ」として、一滴も漏らさず吸い上げられていたとしたら。 保険金という、卑近で分かりやすい「欲」を、世間への隠れ蓑にする。その裏側で、真の黒幕たちは、国家の認可や薬権という、もっと巨大で枯れることのない泉を掘り当てようとしていた。  『悲素』に漂うあの暗い予感は、和歌山の地に刻まれた「実験」の記憶と、双子のように似通っている。 科学という名は、時に、どんな残虐な行為をも正当化する免罪符となる。  あの夏、あの場所で、私たちは何を目撃したのか。  それは、一人の女の罪ではなく、組織という名の怪物が、静かに、そして確実に行い続けている「選別」と「収穫」の儀式であったのかもしれない。 国家が誇る巨大な円環、重厚なる「スプリング8」の放つ光が、一人の女を断罪するための証拠を照らし出したと、誰もが信じて疑わなかった。だが、その光の環のなかに、もう一つの、より鋭利な「知の眼」が注がれていたことを、一体誰が予期しただろうか。

 河合潤という学者が世に問うた『Light Element Analysis of Wakayama Arsenic Case』。  その論文の行間に潜むのは、権力が作り上げた「科学的なお仕着せ」に対する、学問の矜持としての憤りである。 ヒ素の成分が一致した、という言葉の裏側で、軽元素(Light Element)の精密な分析が、残酷なまでの「不一致」を告げていた。  行政が描いた、保険金に目が眩んだ毒婦という筋書き。その筋書きを補強するために、科学という名の権威が、都合よく数値を切り取っていたのだとしたら。    三好氏が幻視した「人体実験」の影。  帚木氏が描いた「毒をカネに換えるシステム」。  それらを裏から支えていたのは、実は、真実を語るはずの「データ」を自在に操り、あるいは沈黙させる、行政と科学の密やかな共謀であったのではないか。 河合教授が放った反論の矢は、最高裁の厚い壁に跳ね返されたように見えた。だが、その矢が穿った穴からは、現代科学が孕む、救いようのない「闇」の冷気が漏れ出している。    毒を撒いたのは誰か。  そして、その毒の結果を、あたかも神の如き視点で冷たく観測し、自らの利権へと繋げたのは誰か。  和歌山の夏の記憶は、光り輝く加速器の影で、今もなお、解かれることのない不吉な数式のように澱(よど)んでいる。
 和歌山の事件はもはや一主婦の暴走などではない。
 和歌山の、あの焼け付くような夏の日差し。 そこへ、神の指先にも似た細い光が差し込まれた。SPring―8という、およそ人の暮らしとは縁遠い巨大な装置から放たれる「放射光」である。その光は、カレーの鍋に沈んだヒ素と、その家の主婦の頭髪に付着していたヒ素とを照らし出し、「二つは同じものだ」と宣告した。科学というものは、まことに潔い。 白か黒か、あるいは右か左か。あの日、法廷という閉じた箱の中で、その光は「同一」という名の判決を下した。不純物のまじり方、その一点の曇りもない一致が、一人の女の運命を、死という名の出口のない袋小路へ追い詰めていったのである。ところが、どうであろう。 時が経ち、同じ光を操るはずの河合という学者が、ふと立ち止まった。 「あれは、果たして本当に同じだったのだろうか」 そんな呟きが、静かな研究室の空気を震わせる。学者が改めてデータの塵を払ってみれば、かつては重なり合って見えた波形が、まるで別の場所で生まれた石のように、わずかに、しかし決定的に食い違っている。 「同じ」だと思っていたものは、実は「よく似ている」だけに過ぎなかった。不純物の並びが、ほんの少し、針の先ほどもずれていれば、それはもう別々の物語を背負った毒なのだ。科学という光が、かつては断罪の刃となった。 しかし今は、その同じ光が、自らの過ちを照らし出している。 「私の鑑定は、言い過ぎであった」 その一言の重さは、もはや個人の後悔を超えている。人の裁きというものは、なんと脆い器に盛られたものか。 ひとたび「これだ」と信じ込めば、他の可能性はすべて煤のように追い払われてしまう。だが、この学者の反論は、煤を払ったあとの冷たい窓ガラスに、もう一度、新しい、そして苦い景色を映し出そうとしているのである。
 

Into that heat, a slender beam of light, much like a finger of God, was cast. It was the "synchrotron radiation" emitted by a massive apparatus known as SPring-8?a device so gargantuan it seemed utterly detached from the humble details of human life. That light illuminated the arsenic settled at the bottom of the curry pot and the arsenic hidden by the housewife in her home, and it pronounced a verdict: "The two are one and the same."

Science, it seems, is remarkably resolute. White or black, right or left. On that day, within the closed box of the courtroom, that light handed down a judgment of "identity." The blending of impurities, an alignment without a single speck of cloudiness, drove a woman’s fate into a dead-end alley named death.

And yet, what do we find now? Time has passed, and the scholar named Kawai, who was supposed to wield that very same light, has come to a sudden halt. "Was it truly, truly the same?" Such a murmur now trembles through the stillness of his laboratory.

As the scholar brushes the dust from the data once more, he finds that the wave patterns, which once appeared to overlap perfectly, are?like stones born in entirely different lands?slightly, yet decisively, at odds. What was thought to be "identical" was, in truth, nothing more than "closely resembling." If the arrangement of impurities shifts by even the width of a needle’s point, it becomes a poison carrying an entirely different story.

Science, that light which once served as the blade of condemnation, now turns to illuminate its own errors. "My appraisal went too far." The weight of those words exceeds mere personal regret.

How fragile a vessel is the judgment of man. Once we convince ourselves of a thing, all other possibilities are swept away like soot. But this scholar’s rebuttal, like a hand wiping a cold windowpane clean of that soot, is trying to reveal once more a new, and bitter, landscape.

              

Into that heat, a slender beam of light, much like a finger of God, was cast. It was the "synchrotron radiation" emitted by a massive apparatus known as SPring-8?a device so gargantuan it seemed utterly detached from the humble details of human life. That light illuminated the arsenic settled at the bottom of the curry pot and the arsenic hidden by the housewife in her home, and it pronounced a verdict: "The two are one and the same."

Science, it seems, is remarkably resolute. White or black, right or left. On that day, within the closed box of the courtroom, that light handed down a judgment of "identity." The blending of impurities, an alignment without a single speck of cloudiness, drove a woman’s fate into a dead-end alley named death.

And yet, what do we find now? Time has passed, and the scholar named Kawai, who was supposed to wield that very same light, has come to a sudden halt. "Was it truly, truly the same?" Such a murmur now trembles through the stillness of his laboratory.

As the scholar brushes the dust from the data once more, he finds that the wave patterns, which once appeared to overlap perfectly, are?like stones born in entirely different lands?slightly, yet decisively, at odds. What was thought to be "identical" was, in truth, nothing more than "closely resembling." If the arrangement of impurities shifts by even the width of a needle’s point, it becomes a poison carrying an entirely different story.

Science, that light which once served as the blade of condemnation, now turns to illuminate its own errors. "My appraisal went too far." The weight of those words exceeds mere personal regret.

How fragile a vessel is the judgment of man. Once we convince ourselves of a thing, all other possibilities are swept away like soot. But this scholar’s rebuttal, like a hand wiping a cold windowpane clean of that soot, is trying to reveal once more a new, and bitter, landscape.

『和歌山カレーヒ素事件判決に見る裁判官の不正』から

 鑑定の核となった「分析手法」

SPring-8の強力な放射光を用いた蛍光X線分析により、砒素に含まれる微量な不純物(アンチモン、スズ、バリウムなど)の濃度を測定しました。ここで用いられた計算の考え方は、単純な数値比較ではなく、**「多変量解析」や「相対感度因子」**を用いた統計的なアプローチです。
対数を用いた計算の目的
「対数計算式」は、主に以下の2つのステップで重要な役割を果たしました。
1. 元素濃度の比率計算(対数グラフ)
不純物の含有量は元素によって数桁(10倍、100倍、1000倍……)の違いがあります。これらを同じ平面上で比較するために、常用対数(log_10)が用いられました。
例えば、元素 A と元素 B の濃度比を比較する場合、生データでは差が開きすぎてグラフ化が困難ですが、対数スケールにすることで、わずかな「不純物のパターンのズレ」を視覚化・数値化しやすくなります。
2. 検量線の作成
蛍光X線分析において、X線の強度(I)から濃度(C)を算出する際、吸収補正などで対数関係が用いられることがあります。

  log(I) = k .clog(C) + b (※ k は感度係数、bは定数)
これにより、非常に濃度の低い不純物でも、精度高く定量化することが可能になりました。31p.2.7対数鑑定書をカンニングしたことを認めた中井英語論文
                                   なぜ対数を使うのか?対数計算につきましては、文系進学者はほとんどそのなんたるかを忘却していると推測されるので、今回の事件を契機に数Uの対数計算のおさらいをしたいと思います。

・対数には、数学的に「掛け算を足し算に変換できる」という性質があるからです。 log(a x b) = log a + log b 計算尺で「2」に「3」を合わせるという動作は、物理的には「log 2 の長さ」に「log 3の長さ」を足していることになります。その合計の長さが指し示す位置が、自動的に 2 x3 の答えである「6(log 6の位置)」になる仕組みです。
                     

log10a x1,000,000) = log10(a x106)
log10(a + log10106
log10a+ 6
もとのaの対数に6を足すだけ

丸形計算尺でこの計算を行う場合、目盛りそのものを動かす必要はありません。

  • 目盛りの読み: 計算尺のD尺(外枠)でaの位置を確認します。

  • 位取り(小数点の位置): 計算尺は「数字の並び」しか教えてくれないので、100万倍(106)という桁数の移動は、自分の頭の中で小数点を6つ右にずらす作業になります。
    対数スケール(計算尺の目盛り)において、「10倍、100倍、100万倍」という操作は、単に目盛りの「サイクル」を何回繰り返すかという意味になります。
                                                                                                           
         
                                     


 Tis curious that we only belive as deep as as we live

              
 二千二十六年の一月二十四日第四土曜、林真澄死刑囚に活あおぞらの活動にクレームをつけられても、尚、みなさんは和歌山に足を運んでくれた。彼らには和歌山といえばカレーライスや和歌山県警とといったイメージを頭に浮かべているのだろうと思いきや、さにあらん。メンバーのおひとりから伺った和歌山の印象は、車窓から眼下に広がる紀ノ川であるようだ。この景色は彼の気持ちをホット!させる。
 紀州路快速にのって、府県境の第二次世界大戦中は防空壕に使われたと聞く長いトンネルを越えると、そこは誰もが口ずさむ「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった。」と、『雪国』の一節のように、ふと眼下を埋め尽くすのは、眩いばかりの南国の光と、光の礫である。
 左側の車窓から、遮るものとてない和歌山の街は、思いのほか田園風景が広がりをもって横たわっている。その真ん中を一筆書きでS字をかいたように滔々と流れていく急ぐわけでもなく、かといって停滞しているふうでもなく女体が座って片手で長い髪の毛を振り上げているアンデルセンの童話にでてくる人魚のような紀ノ川である。それは、幾人もの女たちの泪を、あるいは抗えぬ時代のひとびとの運命をすべてその懐に飲み込み、なおも黙して流れる水の重みをしている。なんど見てもこの景色は僕のこころをおだやかにしてくれるのだ、僕は同席の友に口を開く。
 「ごらんなさい。ここは古代の豪族、紀氏が拓いたtところだ。彼等は朝鮮半島の任那からやってきたのだ。あの『土佐日記』を書いた紀貫之の先祖たちだよ、賛否はあるが日本に律令国家を拓いていったのだ。この平野の、紀州の高校野球生のようにどこかねばり毛のある土の匂とその湿り気は紀ノがの表情を変えていろいろなものを運んできたのだ。」
 紀州路快速が坂を下るにつれ、人魚のように身をくねらせた紀ノ川は刻一刻と表情を変化させ、ながめる僕の胸にせまってくる。
 「ああ、わかやまへきたのだ」
 そうひとりごちる時、僕の心は、あのゆるやかな流れに添うようにして、ようやく康らかな落ち着きを得るのであった。

 十九年、この風土に吹かれてきた。七十の人生峠をこえてもなお、和歌山警察の隠蔽を欺こうと、骨を惜しまず通い続けるひとびとたちが居る。その行動のひたむきさは、冬のひだまりのような貴く、わかやまの同年代のひとびとの手本となる刺激だ。
 ところが、そんなかれらを歓迎するべき和歌山駅長の振る舞いはなんと大人げないことでしょう。巡査と合流して、
 「駅構内から出て行きなさい」
 と、ルンバのように動きをするばかりである、もちろん彼等からは「土地の情」はない。あおぞらにも長年の意地がある。
 「なんで、行動する許可が必要なんだ」
 「構内でビラをまくなと言っているのだ。歩道は見逃す」と、駅長は答える。
このままだと意地と意地ののぶつかりあいがお互いの怨みにかわる。このまま放っておけない・・・余は居ても立っても居られない。
 「シー声をあらだててはいけません。このかたたちが活動を追え、地下街へ降りれば、それは和歌山の潤いになる大切な財産ではないか。」
そんな言葉を投げかけてみても、駅長はしぶしぶ納得した様子であるが、巡査のあい方は、不満げである、ただ憎しみだけがルンバのように、マグロのように、給料のために動いているだけだ、彼らの耳は聞こえない。
 「憎しみが憎しみを成長させ戦争がおこる」
彼らからは、もう、かつての泉鏡花が描いた『夜光巡査』のように、時に葛藤しう、時にひとりごちるような人間臭さは消えうせた。ただ平滑に警察という鉄の鎧を隠れ蓑にした、ただ、ただ生きている公僕たちの典型たちだ。
 いや、JRにもこんなのがいた。
 「おまえはわかやまの恥じだ」「お前を指して言っているのだ」
以前、副駅長から余はまるで手入れの行き届かぬ刃物のように、鈍く、そして無作法に、こんな言葉を罵倒された。この地を踏みこの風土をこよなく愛し、古希を過ぎてもなお、郷土わかやまの正義を願ってやまぬ者にたいして、これほどまでにあさはかな言葉を吐露できるだろうか。かつて『夜光巡査』の時代に人がもちあわせていたような、人の世の裏表を知る者の深みは、彼らには微塵もかんじられない、あるのは、じぶんたちの保身と、それを乱す者を排除しとうとする、狭量な管理の器のみである。
 国鉄時代であれば、こんな発言がなかったのに、JR西日本の営業姿勢があらわれだした。国鉄マンの気概は何処へ、和歌山に客を招き、歓楽に賑わいをもたらすひとびとをわかやまの「財」と説く余のこころいきを、副駅長は「わかやまの恥」とののしって去った。だが、真に恥ずべきはどなたたちであろう。わかやまの将来を願うもの情けを汲み取れず、ただ、大きな鎧のなかに閉じこもって、血の通わぬ言葉を投げ返すことは、キャッチボールではない。その言葉は自分たちの年代では通じるけれども、紀州路快速に乗りつぎ、紀ノ川の流れに心のやすらぎを感じるひとびとには暗い影を落としている。
 時の流れは豊なものだけれども、そこに立つ者の胆を、これほど脆く、ぺらぺらな人格に退化させてしまった教育というものに、ただ、ただ、情けないのである。