紀ノ国(きのくに)を揺るがす悲報!少年、病院にて謎の死! 警察の異様な振舞、闇を暴く!
    ―― 平成拾壱年(1999年)拾弐月 報

 
 

    闇夜に倒れた未来ある命

   去る拾弐月弐拾捌日(28日)未明、当時十五歳(15歳)、中学三年生であった康政少年が、何者かに傷つけられ、昏睡状態のまま和歌山日赤病院へ運び込まれた。しかし、少年は搬送から二十四時間後の弐拾九日(29日)、ついに息を引き取った。

  

   医師の冷酷な宣告と「捏造写真」疑惑

 救命救急室に入るやいなや、担当医は**「頭蓋骨折、脳挫傷でもう手の施しようがない」「肋骨が折れて肺に穴があいている」**と、ただちに生存の望みを断ち切る宣告を下した。
 しかも、その際に示されたレントゲン写真には、少年の名前が**「marutaniyasumasa」と記されており、遺族は「医師による証拠の捏造ではないか」**と強く疑念を抱いている模様!

 

病院を我が物顔で支配する警官隊の暴挙!

康政の命が危篤状態にあったこの二十四時間の間に、和歌山東警察署から複数の警察官が病院内に出現。彼らは警察手帳すら提示せず、日赤病院内を我が物顔で歩き回るという不可思議な振る舞いを見せた!

 特に驚くべきは、「エレベーター」前にて康政少年の着衣を家族に渡すまいとし、**「渡さなければ貴様を逮捕してやる!」**と警察官らが大声で恫喝(どうかつ)したという目撃情報である。

廊下で署名を迫る手書き調書!

 その警官の中の安東なる人物は、タイプ打ちではない手書きの調書を廊下で読み上げ、ご遺族に対し署名と押印を強引に迫った。安東氏は**「上司の命令だ」**と主張。しかし、後に遺族が和歌山東警察署を訪ねてこの件を問いただしたところ、磯崎課長が**「わたしの命令です」**と自ら認めた。加えて「林真澄カレー事件のグループとは活動を一緒にしないでほしい」とい言ったが、余は同席していた高野副所長の顔をみると目に涙を溜め俯いていた。そのとき鈍感力のすぐれた安東氏や磯崎氏のような警官ロボットのなかにも、ことの善悪にたいする感情きわまるができる人間があることをを見つけた。そのとき余は康政は粛清されたと確信した。。

?? 疑念深まる警察の動き! ??

 昏睡状態の少年を巡る、病院での異様な医療判断と警察官たちの常軌を逸した行動。果たして、この死の裏に何が隠されているのか。真実を求める戦いは、今、始まったばかりである。





           駅前の井出商店と申しはと、ただの古めかしい中華そば屋でござるが、かのテレビと申す現代の幻術にかかりし以来、俄に全国的な名声を得た由。和歌山には他にも似たような店はあれど、運命の宝籤に当たったが最後、地方の慣習は一躍、世間の流行と化す。
 世間とは実に勝手なものでござる。
かたや、つい先日まで闇の花として賑わいを呈しておりましたる、こんにちYouTubeを騒がしている堀内なる人物が愛用せし**「エンペラー」**と、遥か異国ウクライナの乙女たちが働いていた酒場が、音もなく消え失せてしまった。かつては和歌山の名所とすら言われた真田掘界隈が、一瞬にして廃墟の塵となった。斯くして、町の表裏は絶えず入れ替わり、新しき光の下、古き闇は追いやられてしまうのでござる。この堀内の行動には鈍感力がものを言う警察官であっても自身のエロ行為には蓋をできなかったことであろう。
 それにしても、この駅前の商店街の底地の持ち主が、遥か名古屋駅前にも広大な土地を持つという今川財閥なる大地主であると聞けばただ事ではござらん。先代は相続対策とやらで、地下の土地を国に献上したという噂まで耳にするが、現つに財を成す者どもの心の機微は、我々平民には測り知れぬものがある。今は名古屋から来たという親戚が管理している由。
 さて、問題は駅前の広場で起こった一幕でござる。七月の暑い盛りの第四曜日、余はかの故人ロス疑惑の三浦と申す人物が、いつものようにビラを撒いておった場所へ、和歌山駅の駅員が、まるで借金を取り立てるかのような剣幕で乗り込んできたのである。おまけに警察官まで引き連れてビラ撒き女性への攻撃とあっては、まるで猫が鼠をおいかけている現場をを見るようである。世も末だ。
 駅員は「ここはJRの土地だ」と声高に主張した由。しかし、かの和歌山駅は、昭和四十三年三月三十一日に、市民のための**「民衆駅」和歌山ステーションビルとして産声をあげた建物ではなかったか。当時の和歌山市長宇治田氏が実質的なオーナーであるといままで信じておった。余は元市役所の関係者に和歌山駅は今は誰のものかと問うたところ、今は「善意の第三者」を名乗るMIO**と申す会社が管理しその株式の八割以上をJR西日本が握り、市や県はわずかばかりの株を持っているのみ。そして、故三浦氏らがビラを撒いておった問題の場所と申すのは、元々、和歌山ステーションビルができた頃、「雨の日に市民が濡れるのは気の毒だ」と、歩道に庇(ひさし)を設けるべく、公衆便所と共に市民から宇治田市長に嘆願しし、すなわち市民の善意の結晶たる場所であったのじゃ。それを、今の駅員津崎どもは、まるで自分の庭であるかのように解釈し、**「善意の第三者」**たる会社の本意に背く市民を排除しようと躍起になる。
 ふと構内に目をやれば、北の入口には日本旅行者が贅沢(ぜいたく)な憩いの部屋を作り、その隣では軽四と申す自動車を並べて商売をしている。南の入口には、これまた喫茶店やパン屋が店を構え一回のフロアを占有し商いの利潤を追求している、そのためにひとびとは北の入口は閉ざされ問題の廂の下を通って駅舎へとはいらねばならん。                   10月のあおぞらのビラを拝見して

                             

    
 
      『花山の丘を眺めて』
 今年もホトトギスの声を聴きながらこう考えた。かって花山は縄文人が暮らしていた。そこに弥生人がやって来て、彼らの住み家を分捕って花山一帯に住みつき墓を築いた。康政の横死から世にすむこと20年にして人生の裏表は、日の当たるところにはきっと影が差すと悟った。喜びの深きとき憂いいよいよ深く、楽しみの大いなるほど苦しみも大きい。之を切り離そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世がたたぬ。金は大事だ、しかし快楽のあとは支払わねばならん。盗人を捕まえるのが巡査なら、潔く支払え堀内。エンペラーが喜ぶぞ。そんなことを考えながら頂上に立ち向こうを見ると、空が広いので驚いている。北の方角には紀ノ川が銀の龍のように流れ、西の海には遠く紀伊水道の波が光る。はるか先には淡路島や四国までもが目に入る。人の世の栄枯盛衰を眺めんがために、この高みは昔からここにあったのだろう。ふたたび北のほうに目をやると少し手前に花山の丘の景色が開ける。土をならす丈なら左程手間も入るまいが、土の中には平らな石が埋めてある。ここに弥生人が住んでいた。
 およそ千五百年前、紀氏の大人(うし)がこの丘を見下ろし、ここにその墓を築いたようである。花山八号墳と聞く。丘の背はゆるやかに丸く盛り上がり、竹藪の下に首長の眠る部屋がある。玉と剣とが共に埋められ、静かな闇の中にいまも時の息をひそめている。聞けば三角縁神獣鏡なるも出土したというではないか。
 されど世は移る。太平洋戦争の時代、この丘に鉄と火の人々が現れた。昭和の末期、空に敵の機影が浮かぶころである。古の墳丘は削られ、砲台が据えられた。コンクリートの基が墳墓の跡を覆い、眼下に広がる平野を見張る兵士の影が、かつての首長の幻と交わった。野砲を据えて、平安を祈る。権力をもって築き、恐れをもって墓を削る。千年を隔て、同じ丘に同じ眼差しがあった。いま丘の上には風が吹く。砲の痕は草に覆われ、墳の形はやや崩れながらも、なおこの地の記憶を保っている。余は目の前の大日山に立ちて、風に耳を傾ける。遠い時の彼方から、紀の国の首長と若き兵の声とが、ひとつに溶けて聞こえるような気がした。まるで祇園精舎の鐘の音が如く、かくのごとく重なり、消えて、また甦るものか。近くには縄文人巫女の人骨も発掘されているけれども、岩橋の丘は国の指定を受けたと聞くが、いまだ日本の歴史を伝える花山古墳群は宅地造成工事をもくろむ精力におされて捨て置かれている。これも堀内のごとき看過役人たちのせいだろう。

   
 月影にひそむ二十六年の闇が、ようやくその姿を現した。

 名古屋の街を震わせた西区主婦殺害事件。当時三十二歳の高羽奈美子さんの命を奪った犯人として、逮捕されたのは、意外にも夫・悟さんの高校の同級生であった。安福久美子容疑者、六十九歳余も同じ年である。東海通五番地に住まう彼女が、十月三十日、夕暮れ時、愛知県警西署の捜査本部に自ら身を委ねたことで、永劫の凍りつきかと思われた事件の時間は、俄かに息を吹き返したのだ。
 夫である悟さんの、その執念たるや。彼は幾度となくチラシを配り、風に舞う紙片に妻への思いを託し、メディアの前に立ち、枯れ葉のように散りゆく情報の一片でもと、世に訴え続けてきた。事件現場となったアパートの一室。そこは、まるで時が止まったかのように、二十六年の月日を超えて借り続けられていた。悟さんの心象風景が、そのまま部屋の壁に貼り付いたカレンダーに映し出されている。一九九九年十一月のまま。血痕すら、数年の後に玄関に発見されたという。彼は囁いた。「いつか、あの容疑者をこの部屋に立たせ、現場検証をしたい」と。
 「気持ちが落ち着くまでは」と、悟さんはその部屋を片づけず、実家に移り住んでからも、時折、古い友人に会うようにアパートを訪れた。一人、静かに、奈美子さんとの在りし日を、幻のように追憶していたのだろう。立派な吾人である。人はそこまで頑丈ではない。
 家賃の負担は、十年前にして既に千五百万円以上に上っていたというが、警察はここまでの人の死に対しての拘泥はもちろん皆無だ。当時の取材に、悟さんは複雑な胸中を露わにした。「家賃を払い続け、犯人が捕まればそれでいい。もし、捕まらなかったら……」その言葉の奥には、深い諦観と、一縷の希望が、まるで冬の陽だまりのように揺れていた。
 事件当時、二歳だった長男。悟さんは、多忙な仕事の合間を縫って、その幼い命を育んだ。遊びに連れ出し、その小さな手を引いて歩く。「私たちが楽しむこと、それが奈美子の望みなのだ」と。犯人に対しては、静かな、しかし確固たる意志を込めて語った。「奈美子は殺されたけれど、私たちは明るく、前向きに生きている。それが伝わればいい」と、なかなか残されたものはこのような生活は無理なことである。
 彼はまた、被害者遺族の会「宙(そら)の会」の一員として、殺人事件の時効制度廃止を求める活動に身を投じた。二〇一〇年、法改正により時効が撤廃された時、悟さんは深い安堵と、新たな決意を胸に刻んだ。「あと四年半で逃げ切れると思っていた犯人は、さぞかしがっかりしただろう。明日からまた、犯人逮捕に向けて頑張りたい」と、余もあおぞらの会で「和歌山カレー事件」の事実の情報の渇きを癒やすべく、幾度となく和歌山駅西口の街頭に立ち、駅前を行き交う人々に義らを手渡しているのだ。「どんな些細な情報でも、一件でも多く提供してほしい」その声は、天国にいるるみや康政に届いているだろうか。