寺の近くで育った漱石

・【硝子戸の中】
私が漱石を巡る「東京の旅」を始めた時、最初に訪 ねる場所として選んだのが太宗寺(浄土宗)である。 漱石が攀じ上ったという唐金の仏様(銅造地蔵菩薩坐 像)を見たかった。写真を見ると、何となくほのぼの としたユーモアのあるお姿で、いたずら坊主の漱石が 攀じ上っている様を想像しただけで、私の興味はかき 立 て ら れ た 。『 道 草 』の 一 節 に は 、唐 金 の 仏 様 の 様 子 が 詳しく描かれている。 表二階の細い格子の間から覗く健三は、そのまま養 父母と伊豆橋に暮らす漱石である。伊豆橋は現在の地 下鉄「新宿御苑前」駅1番出入口付 近にあり、甲州街 道(新宿通り)に面していた。当時はさえぎるビルも なかったので、唐金の仏様もよく見えたことだろう。 位置や向きは何度も変更されたようだが、現在は門か ら寺の境内へはいってすぐ右手に、西をむいて坐って い る 。『 道 草 』 に は 、 つ ぎ の よ う な 一 節 も あ る 。 彼はまたこの四角な家と唐金の仏様の近所にある 赤い門の家を覚えていた。赤い門の家は狭い往来か ら細い小路を二十間も折れ曲って這入った突き当り にあった。その奥は一面の高藪で蔽われていた。こ の狭い往来を突き当って左へ曲ると長い下り坂があ った。
文中の「四角な家」は伊 豆 橋 で あ り 、「 赤 い 門 の 家 」 とは太宗寺北にある正受院(浄土宗)と推定されてい る 。坂 は 瓶 割 坂 で 、現 在 は 広 い 靖 国 通 り に な っ て い る 。 漱石が養父母と最初の生活を始めたのは、正受院の東 隣りであったが、漱石の物心つく前であったため家の 記 述 は な い 。漱 石 が 子 ど も の 頃 に は 、『 道 草 』に あ る よ うに、このルートは通り抜けることができた。今でも 塀さえなければ、通り抜けられることを、私も地図と 現地で確認した。私には妙な習性がある。

漱 石 の 生 家 も 寺 に 近 か っ た 。『 硝 子 戸 の 中 』 に は 、 その豆腐屋について曲ると半町程先 に西閑寺とい う寺の門が小高く見えた。赤く塗られた門の後は、 深い竹藪で一面に掩われているので、中にどんなも のがあるか通りからは全く見えなかったが、その奥 でする朝晩の御勤の鉦の音は、今でも私の耳に残っ ている。ことに霧の多い秋から木枯の吹く冬へ掛け て、カンカンと鳴る西閑寺の鉦の音は、何時でも私 の心に悲しくて冷たい或物を叩き込むように小さい 私の気分を寒くした。
西閑寺とは誓閑寺(浄土宗)のことで、生家の斜め 向いから入った路地の突き当たりにある。赤く塗られ た門はすでにないが、新宿区内最古といわれる梵鐘は 寺の入口左手に 現存する。

【野分、門の中にも】
子 ど も の 頃 、耳 に 残 っ た お 寺 の 音 は 、『 野 分 』や『 門 』 に 描 き 込 ま れ て い る 。『 野 分 』の 主 人 公 白 井 道 也 は 市 谷 薬王寺前町(現、市谷薬王寺町)に住んでいる。江戸 時代、袋寺丁とよばれた路地には、入口から左側に薬 王寺、浄栄寺、長厳寺、蓮秀寺、右側に長晶寺、妙傳 寺があった。このうち、地名に名を残した薬王寺は明 治 維 新 頃 に な く な っ た 。道 也 の 家 に は 、《 裏の専念寺で 夕の御努めをかあんかあんやっている 》音が聞える。 専念寺が実際にどこの寺を念頭に置いたものか、寺が 多くて特定できない。 『門』の野中宗助の家にも、夕方になると豆 腐屋の 喇 叭 に 交 っ て 、《 円明寺の木魚の音が聞えた 》。 円 明 寺 は「矢来のお釈迦さま」として親しまれている宗柏寺 (日蓮宗)がモデルと考えられる。道也も宗助も東京 へ戻って来た人物である。その二人の家が寺のすぐ傍 に 設 定 さ れ 、生 活 の 音 と し て 、お 寺 の 音 を 聞 い て い る 。



 ・北野 豊諭を抜粋して紹介します。

 大逆事件後、漱石は声を上げます。文学博士号受け取り拒否、文芸院設立反対。 それは、当時の大きな流れからすれば、きわめてささやかな抵抗でしたが、自分の 生活や、場合によっては自分の生命すら危うくしかねない行動でした。黙っていれ ば、波風も立ちません。それでも、漱石は自分なりに声を上げなければいけないと 考えたのでしょう。

 
 今、「日本国憲法」は、制定以来、最大の危機を迎えています。言い換えれば、 「日本の平和と民主主義」は、戦後最大の危機を迎えています。 自民党のポスターには、安倍さんの顔とともに、「日本を取り戻す」と書いてあ りました。どんな「日本を取り戻す」のか、書いてありませんでしたが、それが、 戦前の、「国家主義」の「日本を取り戻す」ことであることは、明らかです。安倍内閣が進める政策は、戦後、「日本国憲法」のもとに形づくられた「国家のしくみ」 を、根底から作り変えようという、壮大なものです。目指しているのは、戦前の 「国家主義体制」です。それは、自民党が一昨年(2012年)4月に発表した「憲法 草案」に示されています。 安倍首相と「その仲間たち」、ほんとうに、ごく一握りの人たちで、国家の政策を決定し、実行していく。その内容はことごとく秘密で、国会も形式的に承認する だけ。地方自治体も、国の単なる地方組織となり、国家権力から独立しているはず の、教育委員会、農業委員会、公安委員会なども、解体されていく。NHKも国営 放送になっていく。「集団的自衛権」を認めれば、「自衛隊」は、正真正銘「軍隊」 になってしまいます。

 安倍内閣は、日本を「国家主義」体制の国家に変え、「戦争できる国」にしてい こうと考えているようです。「戦争」をするためには、武器をたくさん買わなけれ ばならない。膨大な軍事費が必要です。私たちは消費税などの増税に加えて、福祉 切捨てで、負担がますます大きくなっていきます。

 こうした政策は、ことごとく、「日本国憲法」の精神に反することです。そもそ も、「日本国憲法」第99条には、「国務大臣が日本国憲法を尊重し擁護する義務を 負う」ことが規定されています。そんなことは、安倍さんだって、百も承知でしょ うが、完全に無視して、政策をどんどん推し進めていく。「憲法を変えて」から 「国家のしくみを変える」のではなく、「国家のしくみを変えること」と、「憲法 を変えること」を、同時に進めているのです。

 残念なことに、国会の中にも、マスコミの中にも、それを許す雰囲気がひじょう に強くあります。安倍内閣は、メチャクチャなことを、本気でやろうとしています。 だから、こわいのです。今日のお話しには、『漱石と日本国憲法』という題をつけました。それは、もし 漱石が「今を生きて」いたら、「九条の会」発会の呼びかけ人の一人になり、「日 本国憲法を守ろう」と、全国を講演して駆け回っていただろうと、想像するからで す。

 『こころ』や、「学習院における講演」から百年、「日本国憲法」が危ない今、 漱石を再評価する動きがあります。それは、漱石の言動の中に、「日本国憲法」の 精神の源流をみることができるし、今、「日本国憲法」の危機に立ち向かう時、漱 石の言動から学ぶことが、じつにたくさんあるからです。

 ここに、お集まりの皆さんは、日本国憲法についても、日本の現状についても、 よくご存知ですから、そうした話しは必要最小限にして、今日は、「夏目漱石」に 「スポットライト」を当てて、お話しいたします。

 『こころ』や「学習院における講演」から発せられた漱石のメッセージ、漱石の 思いをしっかり受け止め、安倍内閣のキケンな動きを、どのようにして食い止めて いったら良いか、学び取り、活かす道を、いっしょに考えていければと思います。

 漱石は、『門』と言う作品で、主人公宗助の言葉を借りて、こんなことを書いて います。

 《伊藤さんみた様な人は、哈爾賓(ハルピン)へ行って殺される方が可いんだよ》《伊藤さん は はる び んで殺されたから、歴史的に偉い人になれるのさ》

 皮肉なことに、この伊藤 博文の後を受けて、漱石が千円札の顔になります。

 ・漱石文学の戦争論
 ―「漱石は戦争をどう描いたか」―

 「戦争」嫌いの、私の母も、「戦争」の悲劇を味わうまでは、「戦争」とは「も うかるもの」だと思っていたようです。当時の大人たちから、日清・日露の「戦争」 で勝った話を聞かされていたからでしょう。ところが、そのような時代にあって、 漱石は「戦争」の悲惨さを感じ取り、「戦争」に反対し、その「戦争」をおこなう ための「国家主義」に、きびしい批判の目をむけていました。
 
 漱石が生まれたのは慶応3年ですが、まもなく大政奉還、翌年には徳川幕府が滅 び、明治が出発しました。漱石は物心がついた時には明治の世で生活しており、満 年齢はそのまま明治年を当てはめることができます。
  これは有吉佐和子の『和宮御留』の小説と同時代のシチュエーションである
 
 
明治政府は、欧米列強に追い 着こうと、欧化政策、文明開化を進め、殖産興業、富国強兵の政策をとっていきま した。それは、日本の「近代国家」としての幕開けであるとともに、「戦争の時代」 「国家主義体制」の幕開けでもありました。

 1873年、早くも徴兵令が公布され、 国民皆兵政策が打ち出され、1875年には隣国朝鮮に対して威圧的な行動に打っ て出ます(江華島事件)。1880年代にはいって、軽工業、とりわけ紡績業中心 こ う か と う に産業革命が進行し、こうした中で、日本の対外拡張政策は朝鮮をめぐって中国と の対立を激化させ、ついに日清戦争(1894〜95年)へと突入していったので す。

 本来なら、漱石は生粋の「明治の子」として、「国家主義」にどっぷりつかり、 「戦争」を当り前に受け入れる人間に育つはずでした。

 ところが、持って生まれた 気質に加えて、養父母にかわいがられて育った漱石は、他人から強制されることを 好まない人間に育っていったようです。そして、これが、「戦争」や「国家主義」 を忌み嫌う原点になっていったと思われます。(氏より育て柄)

 そのような漱石が、否応なしに「戦争」や「国家主義」と向き合わなければなら ない。最初の大きな試練が第一高等中学校予科一級の時(1888年)に訪れまし た。当時、漱石はつぎのような内容の英作文を書いています。 (参照されたい 第一高等学校生 藤村 操)。


 ≪諸君、軍事教練は私にとっては辛すぎる訓練であります。(略)それが強制的、 つまり、私の意志に反して私に訓練を課するという理由によるものであります。 (略)軍事教練において、われわれは、形こそ人間でも、鈍感な動物か、機械的 な道具のごとく遇されるのであります。われわれは、奴隷か犬のように扱われる のであります。≫


 漱石は、1892年、北海道の浅岡家に移籍して、兵役を免れ、翌年、就職した 高等師範学校では、軍隊式教育に嫌気がさして、1年ほどでやめ、松山の中学校へ 転勤してしまいます。一般的に考えれば、東京の高等師範を振って、田舎の中学に 赴任するなんて、ありえないことです。

 「戦争」や「国家主義」と向き合った結果、漱石はきわめて拒否的な回答を出し、 それを一生貫きました。そのきっかけが軍事教練でした。漱石が軍事教練で感じた のは肉体的苦痛ではありません。精神的苦痛です。

同時に漱石は、多くの人々が軍事教練や徴兵をさしたる苦痛も感ぜず、ひたすら 従順に受け入れていくことにも、恐ろしさを感じたのではないでしょうか。
 自分の意志に反して強制される。 「自分の良心」に反して、人を殺す訓練をさせられる苦痛です。そして、徴兵は現 実「人を殺す場に送り込まれる」ことを意味します。

 漱石は、 国民を戦争にむけて飼いならしていく道具としての「国家的道徳」に対しても、き わめて拒否的な態度を示しています。
 

 漱石の作家生活は、1904年に最初の部分が発表された『吾輩は猫である』に 始まり、1916年の『明暗』執筆途中に終ります。つまり、日露戦争に始まり、 第一次世界大戦に終る。戦争で始まり、戦争で終った、まさに「戦争の時代」を生 きた。これが漱石の作家生活です。

 そんな「戦争の時代」を生きた漱石は、戦争を つぎのように描いてきました。詳しくは、『漱石と日本国憲法』に書いてあります ので、ここでは、二、三の紹介にとどめたいと思います。

 「三四郎」

 『三四郎』では、こんなふうに書いています。東京へむかう汽車の中で男(のち に、広田先生とわかりますが)は、三四郎に言います。

 ≪「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国に なっても駄目ですね。」

  これに対して三四郎は 「然しこれからは日本も段々発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、 すましたもので、「亡びるね」と云った。≫

 当時としては、ずいぶん勇気のいる、ある面、命がけの言葉です。

 漱石が作家と して活躍した時代は、日本の資本主義が大きな発展をとげ、国家主義、軍国主義の 風潮が強まりゆく一方、社会的矛盾が激しくなり、社会主義運動も高揚、大逆事件 なども起きた時代です。そのような時代に、現実を直視しながら、時流に囚われず、 人間主義(ヒューマニズム)、個人主義を貫いた、国家より、まず人間個人を尊重 する民主主義を貫いたのが漱石です。

 ――もっとも、家庭生活において、民主的で あったかというと、そうではありませんが・・・。汽車の中で男は三四郎にむかっ て、このようにも言っています。

 ≪「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」(略)「日本より 頭の中の方が広いでしょう」と云った。「囚われちゃ駄目だ。いくら日本の為を 思ったって贔屓の引倒  しになるばかりだ」この言葉を聞いた時、三四郎は真実に熊本を出た様な心持がした。≫

 漱石は、デビュー作から「戦争」について書いています。けれども、反戦を貫く 主人公を描いた作品も、全編に反戦の主張がみなぎる作品もありません。ほとんど が青春ドラマであったり、男と女の物語であったり、あるいは落語話のようであっ たり……。こうした漱石の態度を、反戦の立場から「弱腰」と捉える人びとがいる かもしれません。けれども漱石は、声高に「反戦」を唱え、行動することだけを、 戦争抑止の手段として考えていたわけではありません。

 「戦争」や「国家主義」あ るいは「おかね」に価値を置こうとする時代にあって、漱石は「芸術」に価値を置 く社会をめざし、自ら「芸術の士」をめざしたのです。

 

 
  「2018年に「紀州のドン・ファン」と呼ばれた和歌山県田辺市の資産家・野崎幸助さん=当時77歳=に覚醒剤を摂取させ殺害したとし  て、殺人罪などに問われた元妻・須藤早貴被告(28)の裁判員裁判で和歌山地裁が下した無罪判決  『読売新聞』」



 ・公判は9月以降、23回に及んだ。男性は「裁判の期間が長く、(審理内容の)記憶が薄れる不安があったが、裁判官、裁判員のみんなでメモを取って共有した」と明かし、「証人や証拠が多かったため、判決を出すことが難しかった」と振り返った。

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 須藤被告については「 真摯(しんし) に裁判を受けている印象だった」と述べた。

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今回、検察側は多数の状況証拠で立証した。男性は「有罪の目で見ると、有罪に見える。無罪の目だと無罪に見える。中立の立場で、感情と切り離して考えた」という。その上で「評議でしっかりと話し合った答え」と判決内容に自信を見せた。

「紀州のドン・ファン」と呼ばれた和歌山県田辺市の会社経営者野崎幸助さん(当時77歳)の死亡を巡り、裁判員が導き出した結論は無罪だった。和歌山地裁で12日、元妻、須藤早貴被告(28)に言い渡された判決後、裁判員を務めた20歳代の会社員男性が記者会見に応じた。


 ・「紀州のドンファン判決に対する一考察」  ―民主主義のはじまり―真面目に生きる

 :*和歌山は旧知の通り二階王国と呼ばれていましたが、プロの裁判官に対して裁判を担当された和歌山地方裁判所裁判員の皆さまの新たなる国家造りへのスタンスを感じました。特筆すべきは判決後のインタビューに裁判員中、ただ一人で応対した青年の回答は判決にたいすろ自信を感じさせました。マスコミの取材にに理路整然と答えていました。この直接証拠なき検察側の告訴は、ひと昔以前に法曹界で論争の対象とされた「みなし事件」は「和歌山カレーヒ素事件」判決以後鳴りを潜めていた「みなし事件」論争に対して一矢投げかけた本当
来の民主主義への第一歩を和歌山市民はそれぞれのかたちで歩みだしました。  2024、12、13 声の新聞 (丸谷 光生)