令和6年10月15日(火) 午後1時から〜第76回篤志解剖体慰霊祭が和歌山県立医科大学の講堂にておこなわれました。

だれもかれも、甘い物質的な利益がほしく本質的に金の奴隷になってしまって、自分自身の利益のためでなく、真理のために働くこと出来ない医師たちの多い医学部附属病院において本日の慰霊祭にご参列された人びとの永遠の真理を研究する烈士としての心意気がひしひしとつたわってきました。ただ残念ながら家内のシャープペンの芯のごとき小腸に「油ものを食べると便が凝固する」と言いながらエビフライを叩きこんだ医術を誇る消化器外科のにんげんのたちの顔を垣間見ることがなかったことです。このことはまるで祭壇にお供えされたぶよぶよの柿のような患者に対する医療に誇りを持つ医術を施せなかった教育者の現実であろう。
 
 人間、人間ーこれが一番たいでつなのである。人間は金より尊い、人間はいかなる立場でも、いかなる金の力でも買えない。なぜなら人間は売り買いされるものではなく、やはり数代を経て、いかなる金のちからでも買えない人格をもった人間が形作られていくからである。前途ある医学生諸君のために、そんな願いを込めて丸谷るみと家族は将来を担う学生諸君に対してるみの體を捧げました。

 解剖学に対する公衆の理解度については、ここ和歌山県においてはかなりおくれています。それは丸谷るみが医大の医師へ献体を申し出たとき隣に居合わせた現役の看護師の長女が「献体ってどういう人がするのか知っている」といった偏見を抱いていましたが、母の献体への思いを理解し、本日の慰霊祭に自発的な参加をしてくれました。きっと遺族たちの参列者の容姿を見て死者に対するそれぞれの思いを体験したことでしょう。また、長女の参列を見た参列者の医師の中に涙ぐむ医師に教育者としての真摯なスタンスを感ずるとともにこの涙は死者へのはなむけの感涙だと理解しました。

 不謹慎な話ですが、るみが死ぬ前に献体についての嗤い話がございます。
 るみ 「献体の結果教えてくれるの」
 長女 「アホ、そのとき貴方はもう死んでます」
 るみ 「あ、そうか。」

 この家内と長女の会話は看護を職とした長女にとって今後の解剖学に対する一考察の進展であるといえましょう。また、今回の慰霊祭の果実は、能面のような額をした女学生の学生代表の辞から解剖学に対する和歌山県立医科大学の進化を感じました。それは、るみの担当医たちのお粗末な脳みそでは作文できないみごとな論文形式のものから感じられました、彼女たちは未来を担う大学の回生諸君です。きっといつの日かこの大学生から新たなる令和の『解体新書』を著作できるような学者が出現するような息吹を感じました。