イギリスに留学して帰国してからの10年、漱石は漢詩を作っていない。いまや国民文学とさえなった『こころ』『三四郎』『それから』などの小説創作に傾注したからだが、自身ではその作品を決して気にいっているわけではなかった。漱石という人、自分の制作物が他人にどう見られるかということを振り払いたくて書いているようなところがあるのだ。

こうして明治43年の、43歳になった6月、胃潰瘍で内幸町の長与胃腸病院に入院した。入院は1カ月におよび、やっと退院できたその日に久々に漢詩を書いた。日記には「沈吟して五言一首を得た」と綴っている。

「来たり宿(しゅく)す 山中の寺 更に加う 老衲(ろうのう)の衣 寂然 禅夢の底(うち) 窓外 白雲帰る」

 平凡な詩ではあるが、ここには漱石がずっと空想しつづけた禅林生活のようなものが詠まれている。老衲の衣というのは禅僧が着る法衣のことで、寒かったのでそれを貸してもらって上に羽織ったというのだ。これがその後の漱石の“何か”を暗示していたことは、続く8月に伊豆修善寺に転地療養のために行って菊屋旅館に逗留したとき、大量の吐血があって危篤状態に陥り、それをやっと脱した9月20日と25日の日記に次のような2つの漢詩を詠んだことに如実した。

(9月20日の漢詩)
  秋風 万木を鳴らし 山雨 高楼を撼(ゆる)がす
  病骨 稜として剣の如く 一灯 青くして愁えんと欲す

(9月25日の漢詩)
  風流 人 未だ死せず 病理 清閑を領す
  日々 山中の事 朝朝 碧山を見る

ここには、九死に一生をえながらも刀剣のように痩せぎすになった漱石の、それでも青く愁炎しようとも、青山(せいざん)を見据えようともする、壮絶な静寂が歌われている。
 とくにあとのほうの9月25日の漢詩は、自分はまだ死んでいないので修善寺の山中で清閑ともいうべき風流を感じることができているというもの、ぼくはおおいに注目している。ここに漱石の最後の日々に向かって良寛(1000夜)の書や詩に傾倒していくあの感触がはっきりと方がしていると感じるからだ。それはその前の詩の「寂然 禅夢の底」にあきらかにつらなるもので、さらには菊屋旅館になお逗留しているときに詠んだ10月7日の次の一詩にもつらなるものとなっている。

  傷心 秋 已(すで)に到り 
  嘔血 骨 猶お存す
  病起 何(いず)れの日を期せん 
  夕陽(せきよう) 還(ま)た一村

これを痛ましいと思って読んでは、こちらも変になる。漱石は自身の病骨をむろんのこと多少は愁いながらも、しかしそれをもって俗塵を離れて日本山水に思いを致すことができたことによって、その愁いを新たな風流に変じさせようとしているのであって、それがやがて良寛への傾倒となるのだから、そうであるのなら、こちらも湯船に半ばゆっくり沈みながらも、その「胸中山水」を思えばよいわけなのだ。

それを証かしている有名な『題自画』がある。『山上有山図』をみずから描いて、そこに書き付けた漢詩だ。大正元年11月のものだとされている。こういうものだ。

  山上に山有りて 路 通ぜず
  柳陰に柳多く 水 西東
  扁舟 尽日(じんじつ) 孤村の岸
  幾度か 鵞群(がぐん) 釣翁(ちょうおう)を訪(と)う

    

漱石が自画に自身で賛を入れた最初のもので、なかなか愉快である。病身の漱石や病気上がりの漱石をつかまえて愉快とは何事かと思われるかもしれないけれど、愉快と思わないほうがかえって漱石に失礼なのだ。ここは漱石が新たな風流の愉快を知ったわけなのである。漱石自身も、そのことを「天来の彩文」と書いている。

『思ひ出す事など』に次のような箇所がある。ちょっと長くなるが、なかなかいい。次のような箇所だ。
 病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。他(ひと)も自分を一歩社会から遠ざかった様に見て呉れる。(中略)さうして健康の時にはとても望めない長閑(のど)かな春が其の間から湧いて出る。此の安らかな心が即ち、わが句、わが詩である。
 (中略)病中に得た句と詩は、退屈を紛らすため閑に強ひられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に跳ね返って、むつちりとした余裕を得た時、油然(ゆうぜん)と漲り浮かんだ天来の彩文である。吾ともなく興の起るのが既に嬉しい。其の興を捉へて横に咬み堅に砕いて、之を句なり詩なりに仕立て上る順序過程が又嬉しい。

 実生活の圧迫を逃れた心が本来の自由に跳ね返って、油然と漲り浮かんだ天来の彩文をもらえる。これが風流だと漱石は悟ったのだ。それを俳句や漢詩をつくることによって手にできることを知ったのである。なかで「興」をことのほか大切にしているところは、漱石の流石(さすが)であった。「興」が何を意味しているかは、ぼくの『白川静』(平凡社新書)を見てほしい。

漱石は大正5年12月9日に胃潰瘍を悪化させたまま亡くなる。その2週間ほど前の11月20日に、最後の漢詩を綴った。絶筆だった。これまでの漢詩の集大成ともいうべき出来で、いよいよ禅味が漲っている。

   真蹤(しんしょう) 寂莫として 沓(よう)として尋ね難く
  虚懐を抱きて古今を歩まんとす
  碧山碧水 何ぞ我有らん
  蓋天蓋地 是れ無心
  依稀(いき)たる暮色 月は草を離れ
  錯落たる秋声 風は林に在り
  眼耳(がんじ)双つながら忘れて 身も亦た失い
  空中独り唱う 白雲吟

真蹤は禅にいう真法のこと、いわゆる本来の面目である。それを求めたいのはやまやまだが、いまだに私心があっては、それもままならない。自分はいま『明暗』などとという小説でまことにつまらぬ俗塵のことを書き始めてしまい、これでは「何ぞ我有らん」と思わざるをえない。

ひるがえって古今の時空や碧山碧水は、この眼前の夕暮の景色のなかにもある。禅に「眼耳双忘」というけれど、この景色にだって心身を打失するような気分を感じることはできるにちがいない。自分はそろそろ死ぬかもしれないけれど、こういう気分でいられるのなら、空中で独吟するつもりのままでありたいものだ。
こんな気分の詩であろうか。しかし、この詩は淡々として平凡でもある。ぼくは何度か口ずさんでみたが、とくに驚く言葉は競っていない。それなのに、とてもよく響いてくる。

漱石がこのような漢詩を綴るようになったのは、修善寺以来のことだった。それから多くの詩を書いてきたわけではないが、しだいに風流は極まってきている。『明暗』を未完におわらせても、この漢詩は綴っておきたかったのだという思いが伝わってくる。やはりここには良寛がいる。

ちなみに寺泊にはかつて菊屋という旅籠があって、ここに渡海する前の順徳天皇や京極為兼が泊まった。修善寺の菊屋とは異なるが、何かを想わせる。寺泊にはまた、良寛が30代の終わりに越後で転々としていたときに逗留していた照明寺がある。 良寛は庭先の密蔵院に住んでいた。その良寛のすべての原景はやはり出雲崎にある。いまは良寛堂となっているあたりに橘屋という生家があった。良寛はここで青年期までをおくるのだが、父親の山本以南が桂川に投身自殺してからは、ひたすら禅に向かい、そのあげくに越後に戻って風流に遊んだ。出雲崎はその原風景を孕んでいる場所なのである。
良寛となった漱石。その漱石に、良寛の漢詩「城中 食を乞い了り 得々として嚢を携えて帰る 帰来 知る 何れの処ぞ 家は白雲の陲(ほとり)に在り」を彷彿とさせる詩がある。大正5年10月22日のものである。

 元是東家子  元と是れ東家の子

 西隣乞食帰  西隣 食を乞いて帰る
 帰来何所見  帰来 何の見る所ぞ
 旧宅雨霏霏  旧宅 雨 霏霏たり

         
早稲田南町漱石山房 「漱石の書斎」