宗派 スンニー派とシーア派
イスラムが正統派であるスンニー派(Sunni)のほかに、根本において、これとまったく対立するシーア派(Shish)を生み出していることは明らかであります。しかも、このシーア派自体いくつもの派にわかれているのであります。この項では、大きくスンニー派とシーア派とについて簡単に述べます。
スンニー派
・われわれがイスラム教と呼ぶとき、通常正統派たるスンニー派をさします。シーア派のことを指すときにはシーア派ととくに述べて正統派と区別するのであります。とくに、シーア派イスラむ教徒はその人数において、まったくスンニー派と比較にならぬほど貧弱なものであるばかりではなく、いくつもの派に別れていますから、まったく無力なもののように考えられがちでありますが、この派はイランを背景とし、アラブ系スンニー派が全く容認できないような解釈を堅持していますから、この方は明瞭に句月してシーア派と呼ばれならないような気がいたします。
・スンニー派というのは、公認六伝承と、アブー・バクル、ウマル、ウスマーン、アリーの四カリフをマホメットの正当な後継者と認め、ハナフィー、マーキュリー、シャーフィー、ハンバリーの四法学派のうちのいずれかに属するものということになります。
・その活動地域は、だいたいアラビア、エジプト、トルコ、主としてアフリカの中部以北、インド、パキスタン、アフガニスタン、インドネシアです。
シーア派
・シーア派イスラムはイランを本拠とし、イラク、シリア、インド、パキスタンなどにスンニー派教徒に混じって教徒の在住がみられます。そのうちイラクでは両派約半々の割合を示しています。アラビア半島の西南隅にあるヤマン(エーメン)もまたシーア派です。
・シーア派もいくつかの派に分かれていますが、それらのうちの正統派と言われるのはイスナ―・アシャリア、すなわち十二イマーム派あるいはイマーミー派と呼ばれるものであります。
・六四二年アラブ族に征服sれた結果イスラム教を採用することになったイランの指導者たちがアラブ的なスンニ主義と対立すろ立場をとるシーア主義について施したこのような解釈は、イラン国民を納得させるためにはきわめて好都合な方法であったに相違ないのです。
・翻って考えて見ますと、現在数的に絶対優位を占めるスンニー派の真っ只中に、数的にまったく劣勢の立場をとりながらも、見事に民族性を維持し続けているイラン人のうちに、シーア派的傾向を持つサルマーンという人物が居たという説、ウマイヤ・カリフ朝打倒のためにかれらがアラブ系のアッパース家に協力したこと、更にブワイ朝を九三二年に建ててアッパース朝カリフを国教化したことなどが、イラン人のシーア派主義によせた興味と熱意、およびシーア派に基く活躍を物語る史実はまったく枚挙にいとまがおりません。
オスマントルコとイラン
・イランのシーア主義は当初にあってはアラブ族に対してみずからを護る手段でありましたが、後年オスマン・トルコ帝国が勃興する時代になると、カリフを擁してスンニー派の総本山となったトルコ族に対して自らを護る有効な手段として利用されてのでした。
蒲生礼一著 『イスラーム』 (回教) 岩波新書より
ご参考に、エルトゥールル号遭難事件
エルトゥールル号が派遣された裏には、インド・東南アジアのムスリム(イスラム教徒)にイスラム教の盟主・オスマン帝国の国力を誇示したい皇帝・アブデュルハミト2世の意志が働いており、出港を強行したのも、日本に留まりつづけることでオスマン帝国海軍の弱体化を流布されることを危惧したためと言われている。遭難事件はその帰途に起こった。