『漱石の想い出』

 Jまだ入院中からの話で、この夏は子供たちを海水浴にやってやろうというので、茅ヶ崎の海岸に小さい家を借りまして、私の母からついて行ってもらっておりましたのですが、このころは毎日毎日連日の大雨で、どこもかしこも大洪水、汽車は不通になるし、さっぱりよその様子がわかりません。そこで矢来の兄さんに頼んで、郵便局の電話で聞いていただくと、茅ヶ崎は大丈夫という返事で一安心しておりますと、今度は箱根の福住へ行っうていた私の妹と一番季の弟が流されたという話。がこれもどうすることもできません。そんあこんなのごたごたを水見舞いかたがた夏目のところへ手紙を貝て、行きたくても行けないことを言ってやりました。

L 「気持ち悪いんですか」とたずねなすと」、いきなりすげなく、
 「あっちへいっててくれ」
と申します途端に、ゲェーッといういやな音を立てます。様子が只事ではありません。隣室に高田早苗さんがお子様方をお連れになっていらしていましたが、そこへ女中さんがきて何やら話をしています。ともかく場所が場所ですからなりふりをかまってはおられません。急にその女中さんを呼びまして、今行かれたばかりのお医者さんたちを呼んでもらおうとそました。とまたゲェーッと不気味な音を立てたと思うと、何ともかんとも言えない嫌な顔をして、目をつるし上げてしまいました。と鼻からぽたぽた血がしたたります。私は躍起になって通りがかりの番頭を呼んで医者を呼ばせます。お医者さんたちは中庭を隔てて向こうの部屋にいっるのですから、その後ろ姿などがちらちら見えているのです。その間に夏目は私につかまって夥しい血を吐きます。和や市の着物は胸から下一面に紅に染まりました。
 そこへ皆さんが駆けつけておいでになります。顔の色がなくなって、目は上がったきり、脈がないという始末。それカンフル注射だ、注射器はどうしたというあわてかたです。注射を続けざまに十幾本かを打ちますが依然としてよろしくない。では食塩注射だということになりましたが、あいにく森成さんも杉本さんもその注射器を持ち合わされない。ようやく土地のお医者から借りてきたものの、それが壊れているという始末。こわれたって針さえあればいい、浣腸器の何とかをどうしてと、上を下への騒動です。一晩じゅうこわれかけた注射器を武器にして、お医者さんと病気とが闘われたわけですが、とうとういい按排に脈も出てきて、危ないところで一命を取りとめることができました。



     茅ヶ崎の海岸から眺めた富士山

     箱根から眺めた富士山



 夏目漱石の英国行きは国からの指令であるが、南方熊楠を海外渡航へ急がせたたものは、、、、、、、、


 『南方熊楠』  鶴見和子より

 ≪、、、、、、そうなれば、「勝手に学問はできず、田舎で守銭慮となって朽ちんことを遺憾に思い」、渡米の決心をしたのだという。熊楠は二十歳の春であった。 それより少し前、

   「小生十九歳ばかりのときと思う。柴四郎氏『佳人乃奇遇』というを著し、大いにはやれり。その内に一寸の国権を延ばすは一尺の官威とかを内にふるうよりも急務とかありし。」
 ・・・・柳田国男への書簡。

 熊楠は、出発前10月二十三日、友人を招いて、送別の宴を催したのち、さいごに熊楠が立って渡米の大抱負を述べた。彼自身が発掘した石器-鏃-を示しながら、日本人起源論を説き、現在日本人種と呼ばれるものが、いかに蝦夷人種(コロボックル)などもふくみ)などの原住人種を征服したかを語った。



  前日われわれの先祖が蝦夷などの人種に向かひてなせる競争は、今日転じて、わが日本人と欧米人との競争となれり。吾人にして、このままうかうかくさらば、四世五世を蹂躙絶滅さるるに至らんことは鏡にかけて見るごとし。(中略)、、、、、、しからば,今日いかにしてその絶滅を免れ,さらに彼らをふみ従えんとならば、試みに見よ見よ。前日,蝦夷人の日本人にまけしは何故たるや。日本人の制度物事の美なるを見ながら、質りてもってこれを倣い、みずからこれを勤める勤むべきを了らず、頑然かかる石器などを用いおりし故ならずや。されば今日、日本人が欧米に入りて、その土をふみ、その物をみ、その人間の内情を探り、資るべきはすなわちとり、倣うべきはすなわち倣い、みずから勤むることははなはだ要用
なりとす。これ余の今回米力雨」米国行を思い立ちし故にして、時期もあらばなおまた欧州へも渡らんことを欲しおれり。
  多少のきずなを切りて、かの土にありても勉めて時刻と金銭を浪費せずに、身体強固に勉強すべし。しかして諸君が日本に在りて、勉めて眼を社会の動静に注ぎ、よくその身を保つに、始めて国家を泰山の安きに置き、僕帰朝の日に当たり、わが大八州をして吾人の阿蒙たらざりめんことは、これ余が諸君に向かいて願うところなり。諸君、何分その身を自重し、よく勉強なされて、もってわが国社会開明の度を進められよ。  『全集十巻』
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