孟姜女考(もうようじよこう)
みなさん、読まれましたか。
伝承は,奇なりで、のお手本のような物語でしたね。

 吾輩「青い壷」は、生まれて様々な人間のおこないをみました!

  「青い壷」の帯の詞より、
 「『青い壷』は、十年余りの歳月をさまざまな人間と、その人生のある部分で関わりを持ち、哀歓を分かち合った・・・・・・
 闊達の筆は活々と人間を描き、構成は巧緻を極め、まさに有吉文学の新しい境地をしめす傑作長編」です。

 この小説の主人公は、一個の青磁の壷---早春の一日、京都に窯をもつある陶芸家の手から生まれました。
 澄み切った青、端正な姿、色といい、艶といい、それは宋の竜泉窯の青磁に引けを取らぬほどの出来栄えでした。
 壷はデパートの美術品売り場からはるばるスペインにまで行ってしまうことになりました。

                                          

第一話
・吾輩は、マキ 田 省造さんの窯から生まれてきました。
・吾輩は、省造さんの奥様のおかげさまにより、青磁として大事に扱われるようになったのです。





雄弁は銀、沈黙は金は、トーマス・カーライルが広めた英語です、9世紀アラブ文化英語版に由来すると考えられています。
英語での同様のことわざには "Still waters run deep英語版"や "Empty vessels make the most sound"がみれ、また、
沈黙を称賛する言葉は、聖書をはじめとする古い書物にも見られます。
例えば、「言葉が多ければ、とがを免れない、自分のくちびるを制する者は知恵がある。」(
箴言 10:19)などが存在します。。
ムンバイの沈黙の塔は高級住宅街マラバール丘の森の中にあります。

 インドではゾロアスター教徒のことを「ペルシアから来た人」という意味でパールスィーと呼んでいます。
インドのパールスィーの人口は
ムンバイに集中しており、結果としてムンバイはパールスィーが中心的な割合を占めています。
パールスィーには経済的に豊かで社会的地位の高い人が多い傾向があります。
一般人は生い茂った木々の中から高い塀と上空にハゲタカが舞っているのが見えるのみだが、
ムンバイにあるヴィクトリア&アルバート博物館で
模型を見ることによって外観、構造を知ることのみ可能であります。
なお、現在では
猛禽類の減少により、上空を舞うハゲタカを確認することは困難です。
                                    
  *是非 『沈黙の塔』 森 鴎外もあわせてお読みください、そこに鴎外の「美学」に対する研究の一端がみれることです。

第二話
 青い壷は山田夫妻に¥20,000で買い取られました、よかった。よかった。
 山田寅三さんは66歳まで会社勤めでしたが、退職するや否や、アルツハイマー病の気配が見えだしたのでしょうか。
作中では、
 ≪しかし早すぎないか、まだ七十になってないだろう≫
と、ございます、『恍惚の人』もボケ老人の問題提起をされていました。
いま考えますと1970年代のころよりアルツハイマー病のことに着目した有吉佐和子さんは老人問題というものに真摯なスタンス
で取り組んでいたのがよくわかりました。
 
 小生も68歳です。この年齢になりますと、自分では自覚はないのですが、まわりの人からボケ扱いされだしますね。
 先日ですが、携帯電話を紛失したので、悪用されはしないかと思い交番へ届けますと、アベックで居た交番の巡査の男性曰く、
「携帯電話のことはここでは無理。家の中をよく探してから来たまえ」とはじめから「もの忘れありき」の応対でした。
68歳になると巡査といえども鬱陶しく対応をします、まるで小生は恍惚の人でした。
世代間のギャップを認識できました。ここに、われわれが抱いていた巡査像は瓦解していました。
ではアルツハイマー世代は、どうすればいいのでしょうか。
二か月に一度開催される「有吉佐和子記念館での読書会」にて昭和人の息吹をおたのしみくださいませ。

6月5日 

 『青い壷』についての読書会が開かれました。
 読書会は、有吉佐和子記念館の二階の床の間ででおこなわれると、読者のみなさまの熱気を肌に感じることでした。
 ある人は、青い壷の製作者が「今後は作品にに刻印をいれるのはやめる」と、書いていたのに注目されました。
 しかし、贈答品は物のお値打ちの分からない方のために、絶対に作者の名の必要性をのべられました。

  有吉佐和子記念館の2階に、『青い壷』と同じ焼き方の陶器が陳列されています、直に見ると小生の家にある壷に色と艶が
 そっくりでしたが、我が家の壷の裏には刻印がございません。したがいまして『青い壷』を読書していなかったら、我が家にあ
 った壷はきっと粗材ごみで処分してしまったことでしょう。あらためて文学の必然性を重く受け止めました。

    
 青磁(せいじ)とは、透明感のある青緑色の磁器で、紀元前14世紀頃の中国()が起源とされます。
後漢代に流行し以後次第に普及し、 製造技術は日本や
高麗にも伝播しました。
 特徴的な青緑色は、釉薬や粘土に含まれる酸化第二鉄が、高温の還元焼成によって酸化第一鉄に変化
する事によって発色します。


 中国で発達した陶磁器は、日本、東南アジア、朝鮮半島にも伝播しました。
の時代に遡る灰釉から発展しました。龍窯と呼ばれる単室の登り窯で焼成され、より効率のよい窯へと龍窯が
発展するに伴って、良質な青磁が生産されるようになりました。

 青磁と呼ぶことのできる釉が現れるのは、
後漢〜西晋時代の江南地方です。越州窯(浙江省)の青磁が有名
です。それ以前の灰釉と青磁釉の中間的な釉をもつ陶磁器を「原始青磁」「初期青磁」と呼ぶこともあります。


 唐代以後、青磁は多くの文人・知識人に愛されましたが、その理由の一つに碧玉に近い色がございます。
碧玉は古代より
君子が身に付けるものとされ、儒教においては徳の根源とされ尊重されていました。
 青磁は「假玉器(かぎょくき)」と称され、碧玉に近い色の青磁は貴族に宝器として受け入れられました。
また、晩唐に後に茶祖と称される陸羽が『茶経』(760) を著し、それに則った喫茶の習慣が流行しました。
 『茶経』において陸羽は、浅黄色に抽出した煎茶を越州窯の青磁茶碗に淹れると茶の色が緑に映える、として
貴んだのでした。
宋代にかけての陸羽茶道の流行とともに、王侯や文人たちは青磁茶碗を買い求めました。

宋が華北(白色や茶、褐色などの赤系色の磁器が主)を失陥し、青磁の産地だった江南へ中心が遷った

南宋
時代が最盛期で、耀州窯(陝西省)、南宋官窯(浙江省)や北宋後期官窯の汝窯(河南省)などが
名窯として知られています。

名窯程ではないのですが評判が高く生産量の多かった龍泉窯(浙江省)の物は秘色と呼ばれました、
魏晋時代から明中期まで生産を続けていましたが、
元以降は輸出用の容器に用いる大型製品が多くなり、
良質の原料が枯渇し始めました。

著名な景徳鎮は宋代には主要な産地ではありませんでしたが、白磁が好まれた元代以降隆盛となりまして
清代には磁器胎の白磁が生産されております。

高麗では、11世紀 - 14世紀に、宋から伝わった技術により朝鮮南部で青磁が作られました(高麗青磁)。
タイでは、
14世紀 - 15世紀スワンカーロク窯を中心に青磁が制作されました。

日本の文献に青磁が最初に現れるのは、
唐物の流入が盛んになった11世紀のことで
平安時代の遺構からも越州窯産の青磁器の出土例が多くあり、中でも茶碗が最も多い。鎌倉時代に日本でも
茶の湯が広まり、安土桃山時代に渡り発展しました。

茶人達は茶道具を格付けすることを好みましたが、中国産の青磁を砧、天龍寺、七官、珠光、人形手と分類しました。
なかでも砧(きぬた)は最上格の
名物であり、中国では「粉青釉龍泉青磁」と呼ばれている龍泉窯の「青秘」です。
また、侘び茶の始祖、村田珠光下手物と呼ばれる青くならなかった灰黄色・褐色の青磁に価値を見出し愛用しました。

以来、珠光ゆかり・珠光好みの褐色の青磁は珠光青磁と呼ばれ、その弟子筋にあたる人々のあいだで名物として扱われ、
日本での青磁生産は、17世紀以降であり、有田を中心とする磁器胎のもので色絵などと併用したものも多いです。
イスラム世界では、毒が盛られると変色すると信じられていました。

 そのほか、8話の中に有吉佐和子さんの「愛」にたいしてのお考えが垣間見える文章がございました。

 「そうでもなかったよ。親父もおふくろも我がまま同士で、喧嘩ばかりしていた。おふくろが親爺を褒めるようになったのは、
  親爺が死んでからだ」
 「そうだったんですか」
 「片方が死ねば愛は完結するのかとおもったね」


 まだまだそのほか感想がございましたなかに、
『青い壷』と『悪女について』の文章を比較研究され、前者は青い壷を中心に話が大団円に向かうけれども、
後者は読者に自殺はか他殺かの判断を仰ぐかたちだとご指摘されました。

 このご感想をお出しになられた方はちかごろの高校教諭でも理解不足な比較文学研究を、よくご理解されていると感じました。

 この比較研究については、いま小学生たちに取り組んでいるようですが、
文部科学省教科調査官の監修のもと、小2国語科「スーホの白い馬」(光村図書)の板書例、
発問、非1人1台端末活用例、想定される児童の発言等を鑑みたマニュアルがございます。


 
監修/文部科学省教科調査官・大塚健太郎
 
編集委員/京都府京都市総合教育センター指導室指導主事・吉田夏紀
 執筆/京都府京都市立嵐山東小学校・森元悠加

 1. 単元で身に付けたい資質・能力
 2. 単元の評価規準

 3. 言語活動とその特徴
本単元では、
お話を読んで感想を伝え合うことを言語活動として設定します。
本教材「スーホの白い馬」は、これまで学習してきた作品の中でも長文ですが、
場面の様子や出来事が魅力的な表現で描かれており、スーホと白馬の強く温かい心のつながりに、
子供たちは自然と心動かされ、それぞれに感じたことや伝えたいことが生まれると考えます。


登場人物の行動を具体的に想像する学習はこれまでに「ふきのとう」「お手紙」「わたしはおねえさん」
の単元で繰り返し行っています。

今回はそれらの学習を生かしながら、言葉に着目して想像したことをもとに、
文章を読んで感じたことや考えたことを友達と交流し、互いの思いを分かち合ったり、
感じ方や考えた方を認め合ったりする活動を行います。


「友達はお話のどこに心を動かされたのかな」「それはなぜかな」「どんな言葉から想像したのかな」
「自分と似ている感想や違う感想はあるかな」など、互いの思いを分かち合ったり認め合ったりしながら
本単元で身に付けたい資質・能力を確実に指導することができるようにします。


 4. 指導のアイデア

〈主体的な学び〉 お話を読んで感じたことを伝え合う
主体的な学びを生み出す上で大切なことは、子供自身が目的をもって学習に取り組み、
各時間の学習が単元のゴールに向かう中で子供にとって必然性のあるものになっていることである。

単元のゴールである、お話を読んで感じたことを伝え合うことを子供たちが意識し、
見通しをもって学習が進められるようにすることが大切です。
そこで、「スーホの白い馬」を読んだときの子供たちの「気付き」や物語を読んだこれまでの学習経験
などから、学習計画を立てるようにします。

「スーホの白い馬」はスーホと白馬の強い絆、温かい心のつながりが感じられる物語であり、
その物語を初めて読んだ子供たちも、スーホが白馬を大切に思い、そして白馬もまたスーホのことが
大好きであると感じることができるでしょう。

また、スーホの大切にしていた白馬が死んでしまい、スーホのひく馬頭琴の美しい音色が響く悲しくも
美しい結末に、「悲しい」「感動した」「涙が出そうになった」などと、
自分の心の動きを表現する感想も多いと想定できます。

そこで、スーホと白馬の心のつながりに着目して物語を詳しく読み、
「いちばん自分の心を動かされたところ」を友達と伝え合うというゴール
(大団円)を設定します。

〈対話的な学び〉 心を動かされたところについて伝え合う
低学年の発達段階において対話的な学びを生み出す上で大切なことは、一緒に読んで面白い、楽しい、
聞いてもらって良かったという経験を積み重ねることであると考えます。

今回は、お話を読んで感じたことを伝え合う中で、同じお話を読んでいても心に残る場面が違っていたり、
感じ方が違っていたりすることに気付き、
「お話を読んだ感想を誰かに伝えるって面白いな、楽しいな」と、
共有する面白さや楽しさ
を子供たちが感じられるようにします。

そこで、単元の9〜11時間目には、それまでの読みの学習を生かし、お話を読んで自分の心が一番動か
されたところとその理由について考え、伝え合います。伝え合う際には、「友達とどんなことを話したいかな」
「どんなことを聞きたいかな」と、思いを引き出すようにしましょう。


5. 1人1台端末活用の位置付けと指導のポイント
(割愛)

さあ!みなさま。
小学生たちのお勉強にはまだまだ負けないぞ、の心意気をお見せ願います。