米国社会学の父の一人に数えられるLester Frank Wardは、1841年6月18日、Illinois州Jolietに、Justus
WardとSilence Rolphの息子として生まれた。Ward家は貧しく、Lesterに正規の教育を受けさせるだけの金銭的余裕はなかった。そのため少年時代のWardは独学で様々なことを学んだ。独学で5つの言語を習得したという報告が複数ある。数学や地質学も勉強した。
Frankがまだ少年の頃に、Ward家はIllinois州からPennsylvania州Myersburgに引っ越した。昼間は兄のCyrenusとともに家業の車輪屋を手伝い、夜になると本にかじりつき、知識と勉強への意欲をいや増していった。子供時代の貧困と、その後の車輪屋での重労働が、Wardの中で、社会の不正義や不平等に対する怒りを醸成したのだとも言われている。
WardはTowanadaのSusquehana Collegiate Instituteの授業に出席するようになった。 “Lizzie” Caroline Boughtと結婚した(BoughtではなくVoughtとする資料もある)。WardはPennsylvania地方連隊に入隊し、Chancellorvilleの戦闘で重傷を負った。故郷を離れて戦闘に参加していた兵士の多くが日記をつけており、Wardも例外ではなかった。この日記はWardの死後何年もたってから発見され、『青年Wardの日記――1860年から1870年にかけて人間的にまた激しく生きた記録』というタイトルで出版された(現在でも入手可能)。
1882年には米国地質調査局に地質学助手として雇われ、このポストを2年間勤めた後、1889年に地質学研究員に、1892年には古生物学研究員に昇進し、連邦政府でのその後のキャリアをずっとここで過ごした。
1882年には植物化石局の名誉館長に就任している。1905年にUSGSを退職するまで、Wardは植物化石の国立コレクションの責任者を続けた。
Wardの業績で我々の記憶に最も残っているのは、社会学における先駆的な研究である。1883年から1913年に没するまでの間に、Wardは数々の重要な仕事を完成させている。著書に『ダイナミック・ソシオロジー』がある。
Wardによる社会法則というものは、ひとたび発見された後は、制御し操縦することができるものなのだと主張したことである。
Wardは社会の中で、階級間、人種間は平等であるべきだという考え方を支持していた。また女性も平等でなければならないと考えていた。普通教育こそが、この平等を実現するための手段となると考えた。彼の発想の大半は、当時の男性たちには不人気であったが、おそらく今日の読者にはもっと受け入れられるだろう。
L. F. Ward(1841-1913)は、少年時代をMyersburgで過ごし、労働史家の兄Cyrenus Osborne Wardとともに車輪工房で働いた。「米国のアリストテレス」と呼ばれた。
・漱石は明治26年(1893)7月に帝国大学文科大学英文科を卒業したが、その間、帝国大学寄宿舎々監清水彦五郎の斡旋で友人の小屋保治と共に宮城控訴院々長大塚正男の一人娘大塚楠緒子の婿候補に挙げられていた。
・これに対してどのようないきさつがあったのか不明であるが、友人の小屋保治は8月に楠緒子と見合いをし、明治28年(1895)1月に結婚入籍して、大塚保治と改姓した(披露宴には漱石も出席している)。
・楠緒子と二人との間の関係の始まりを示す手紙が残されている。
明治39年1月9日付森田草平宛
「 ・・・・・・・・・夏休みに金がなくなって大学の寄宿舎に籠城したことがある。而して同室のものが置き去りにして行った蚤を一身に引き受けたのには閉口した。其時今の大塚君が新しい革鞄を買って帰って来て明日から興津へ行くんだと吹聴に及ばれたのは羨ましかった。やがて先生は旅行先で美人に惚れられたという話を聞いたら猶うらやましかった。・・・・・・」
・楠緒子の美貌に心を奪われ、小屋と争う形になったことが想像されるのであるが、翌明治27年7月、伊香保温泉に行き、そこから小屋を呼び寄せて話し合いの結果、身を引いた形になったのではないかと論者は推定している。
明治27年7月25日付小屋保治宛(上州伊香保町萩原重作方 夏目金之助
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・かかる処に長居は随分迷惑に御座候へども大兄御出被下候はば聊か不平を慰すべきかと存じ夫のみ待上候願くは至急御出発被下度願上候也余は後便に譲る
7月25日 夏目金之助
小屋様」
・これより前の明治22年8月、第一高等中学校の学生であった23才の時、兄夏目直矩の病気療養のために興津に滞在したことがあり、少女時代の楠緒子と会っていた可能性もあるという。当時興津は東京在住の上流階級の避暑地だったので楠緒子も母と一緒に避暑に出かけており、海岸縁で画を描いたり、森の中を散歩している。
・「三四郎」の中の広田先生が夢の中で20年前の初恋の人に会ったという話は、その時の体験であり、さらに森文部大臣の葬儀を見送った時、その葬列の中にいた少女を見たというのも楠緒子ではないかとする。
・楠緒子は明治8年に生まれた。恵まれた環境にあっての文学少女で明治23年、15才の時、佐々木信綱に入門、和歌を学んでいる。結婚してからは盛んに小説を発表、漱石がイギリス留学から帰国してからは漱石家に出入りして教えを受けており、また漱石の推薦で朝日新聞に作品を発表してもいる。主に活躍したのは明治40年から43年の間で、英語、ピアノ、絵画等を学びまさに才色兼備の人のようであったと云われていた。
・ 漱石、楠緒子、それと夫の大塚(旧姓小屋)保治の3人の間にどのような交友関係があったのかというところから検討しなければならない(即ち漱石と楠緒子が何時の時点でお互いに知り合ったかということである)。
・漱石は明治26(1893)年7月に東京帝国大学文科大学を卒業し大学院に進んだ。そして同年7月頃から10月半ばまでの3ヶ月間寄宿舎に居住したようである。このとき同様にこの寄宿舎にいたのが大塚(小屋)保治であり、それ以来交友が始まったと考えられる。楠緒子と保治は8月に見合いをし翌々年(明治28年)の3月に結婚式を挙げている。学生時代の交渉についての大塚保治の回想文がある。
・「自分は夏目君の性格や思想なぞを知っている点で、恐らく随一だらうとは信じてゐるが、学生時代の夏目君と云はれると、同君の性向を躍如とさせるやうなインシデントが記憶に残ってゐない。さう云ふものは却って、大学卒業後暫らく一緒の家にいた菅寅雄君とか、同級だった狩野享吉君なぞの方が詳しく知ってゐる筈である。
初めて夏目君と相識ったのは、自分が卒業して、大学院にゐる時であった。同君は確か自分より二年下だったと思ふ。兎に角自分が大学院にゐて、寄宿舎にゐる時、夏目君も入舎して来た。その頃の文科生は数も少なく、寄宿舎でも二三室を占領してゐるだけだったから、夏目君とは同室になった事もあり、又向かひの室に居たこともある。
其時分話がよく合ったのは覚えてゐるが、果たしてどんな問題を喋り合ったものかは、毫も記憶にない。唯同君の学生時代の態度も、後の夏目君と異なりがなく、・・・・・・・・・・・・・学生時代の事と云へば、先づそんな処である。・・・・・・・・・・・・・・・」
「学生時代の夏目君」(大正6(1917)年1月)
・一方、漱石の側からはどうであったか
明治26年7月26日付、斉藤阿具宛
「・・・・・・・・小屋君は其後何等の報知も無之同氏宿所は静岡県駿州興津清見寺と申す寺院に御座候・・・・・・・」
明治27年7月25日付、小屋保治宛(伊香保よりー前出)・・・話したいことが有るから来て欲しいという趣旨の手紙
明治27年10月16日付、小屋保治宛
「遊子標蕩の末遂に蠕袋を此所に葬り了り申候 御閑暇の説は御来会可被下候
小石川表町七十三番地法蔵院にて 夏目金之助」
明治29年7月28日付、大塚保治宛(ドイツ留学中
「・・・・・先日は独乙着の御手紙正に拝受仕候愈御清適御勉学の御模様結構のことに存候国家の為め御奮励有之度切に希望仕候・・・・・・
明治28年3月に行われた大塚夫妻の結婚式に出席した後、4月松山に赴任している。
・また楠緒子と漱石との間の交渉を示す書簡もあるが、それは漱石が「猫」で一躍有名になった後、楠緒子の小説を新聞社に紹介することになり、以降楠緒子が弟子のような形で漱石と接触するようになったものと考えられる。
明治37年6月3日、野村伝四宛
「・・・・・・太陽にある大塚夫人の戦争の新体詩を見よ、無学の老卒が一杯機嫌で作れる阿呆陀羅経のごとしおんなのくせによせばい丶のに、それを思ふと僕の従軍行杯はうまいもの」