・修善寺公園に建っている大きい碑にな、次の漢詩が刻まれています。
 「仰臥人如唖獣然看大空/対空不動終日杳相同  漱石」。
 なお詩碑の裏には、狩野亨吉識/菅虎雄書として、次の文が刻まれている。
 「夫レ病ハ身ヲ化シ、身ハ心ヲ制ス。漱石生死ノ間二彷徨シテ性命ノ機敏ヲ捕捉シ、知察雋敏省梧過徹スルトコロアリ。漱石ノ思想ノ転向躍進ヲ見タルハ亦実二此時二アリトス固ヨ リ必然ノ結果二属スト雖モ、忘レべカラザルコトナリ。」
 (振り假名名称略)(本川桂川)。碑は、修善寺公園の達磨山の一本松に近い林間に、高さ四,五三メートル、幅一、八二メートル。昭和八年四月建立。


・(小宮豊隆と漱石門下生の乖離を見る) 明治四十三年(1910) 十月十一日 (火) 雨

 帰京。午前九時出発。菊屋主人大にまで来る。1等室を借り切る。九人のところへ六人乗る(代金二十二円余り」。午後五時五分(二十分遅t着)、鏡、三人の子供、坂本雪鳥、東新
 森成麟造、行徳二郎など四十人余りが見える。東京駅から、釣台に載せられて長与胃腸病院に入院、面会謝絶の札を出す。木下杢太郎も見舞いに来るが、会えずに帰ったらしい (小宮豊隆)。後藤医員の診察を受ける。夜中村是公と鈴木禎j次。房子から「ブジゴキキョウヲシュクス」という祝電を受け取る。夜、後藤医員に、院長の病気について聞くと、言葉  を濁す。

鈴木禎次
鈴木 禎次(すずき ていじ、明治3年7月6日1870年8月2日) - 昭和16年(1941年8月12日)は、静岡県静岡市出身。夏目漱石の相婿(妻同士が姉妹)で、漱石の小説の中にも登場する。1870年(明治3年)駿河国静岡に旧旗本で大蔵官僚の鈴木利亨の長男として生まれる。1896年(明治29年)に帝国大学工科大学造家学科を卒業し、翌年、三井銀行に入り建築係に勤務する。1898年(明治31年)夏目漱石の妻である夏目鏡子(旧姓:中根)の妹(時子)と結婚し、1903年(明治36年)には文部省の命を受けフランスに留学。1906年(明治39年)名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の建築科教授となり、1922年(大正11年)には退官、のちに名古屋に鈴木建築事務所を開設する。1941年(昭和16年)71歳で逝去した。