・ウィリアム・ジェームス

ウィリアム・ジェームズWilliam James)は、アメリカ合衆国哲学者心理学者である。意識の流れ理論を提唱し、ジェイムズ・ジョイスユリシーズ』や、パースデューイと並ぶプラグマティストの代表として知られている。弟は小説家ヘンリー・ジェームズ著作は哲学のみならず心理学生理学など多岐に及んでいる。心理学の父である。

日本の哲学者、西田幾多郎の「純粋経験論」に示唆を与えるなど、日本の近代哲学の発展にも少なからぬ影響を及ぼした。夏目漱石も、影響を受けていることが知られている。

『多元的宇宙―1909年、オックスフォード、マンチェスター・カレッジに於て講ぜられた、哲学の現代的状況に関するヒバート講義』

第1講 いろいろなタイプの哲学的な考え方 1909年

第2講 一元論的観念論 1909年
第3講 ヘーゲルとその方法 1909年
第4講 フェヒナーについて 1909年
第5講 意識の複合 1909年
第6講 主知主義に対するベルグソンの批判 1909年
第7講 経験の連続性 1909年
第8講 結論 1909年
付録A 事物とその諸関係 1905年1月
付録B 活動の経験 1905年
付録C 変化するものとしての現実の概念について

多元的宇宙―1909年、オックスフォード、マンチェスター・カレッジに於て講ぜられた、哲学の現代的状況に関するヒバート講義

第1講 いろいろなタイプの哲学的な考え方
第2講 一元論的観念論
第3講 ヘーゲルとその方法
第4講 フェヒナーについて
第5講 意識の複合
第6講 主知主義に対するベルグソンの批判
第7講 経験の連続性
第8講 結論
ジェイムズは、『多元的宇宙』の第1講「いろいろなタイプの哲学的な考え方」で、経験主義と理性主義の大事な違いを指摘して、「経験主義とは、部分によって全体を説明する習慣であり、理性主義とは、全体によって部分を説明する習慣である。理性主義は、かくて、一元論と親近性を保つというのは、全体は統一とともにあるからである。

一方、経験主義は、多元論的な見解に傾く。どんな哲学も、世界を要約的にスケッチしたもの、つまり、世界の略図、ないし、事件のパースペクティブを遠見に書いた見取り図以上のものではありえない。そうして、何よりもまずそれに注目しなくてはならないのは、世界全体の絵をかく際、我々が自由につかえる材料は、この世界のさまざまな部分中、我々がすでに経験したものから供給されたものだけだ、というこのことである」(PU 訳7)という。「経験主義的な人間は、部分を全体の前におく」。

理性主義者は、「世界を、秩序のある宇宙としておきたい」。「経験主義的な人間は、部分を全体の前に置く。そこで、全体から出発し、したがって壮大なことばづかいをして喜んでいる理性主義者の眼には、わざわざものごとをちっぽけにすることばをつかっているように見えるかもしれない」。ジェイムズ自身は、「経験主義のちっぽけな言い方を使うであろう」という。

どんな哲学にも2つの部分がある。「その一つは、その哲学が我々をそこにみちびいてくれる最終的な見解、信念、あるいは態度であり、もう一つは、その態度に至るみちすじにある推論である」。

「哲学は真でなければならないが、しかしそれは、哲学に課せられた最小の要求にすぎない。哲学者ではなくても、あて推量か啓示かによって、真なことをいうかもしれない。哲学者の真理を他の真理からわかつものは、それが推量によって得られるという事実である。想像ではなく、論証によって哲学者は真理を獲得しなければならない。」

一般人は、その信仰をその父祖から受け継いでいることを知っているが、それがいかにしてかを知らないが、哲学者、理性から、その信念に対する認可をえなくてはならず、職業的な哲学者にとっては、その認可を得る手続きの方が、その認可によって接近可能になった信念よりも、重要なのが通例である。哲学者は、前提や意味や反論、難点を考察する。

しかし、ジェイムズは、職業的な哲学者の方法に批判的である。職業的な哲学者は、過去の哲学者に言及しなければならない。
「こうして、思考の自発性や、概念の新鮮さは、すべて失われてしまう。」ジェイムズは、当時のアメリカの若い学生たちが、「あまりにも技術的すぎて、うんざりするような状態にある」と嘆く。それは、「ドイツ風のやり方をあまり忠実にまねしすぎたために生じたことである」と述べ、ジェイムズ自身は、「もっと人間的なイギリスの伝統にしたがれるように、という強い希望をここで表現させて頂きたい」という。

「アメリカの学生たちは、後になって、いたましいほどの個人的な努力をはらって、主題との直接的な関係を回復しなければならない。我々の中には、その回復に成功したものもある。しかし、もっと若い人たちは、決して回復しないのではないかと、私はおそれている。職業的な習慣が、すでにそれほど強くなっている」という。だが、「哲学のような学科では、人間性のひらかれた空気とのむすびつきを失い、職業上の伝統だけによって考えるということは、実に致命的なことなのである」という。

ドイツでは、形式があまりに職業化されたために、教職をえて書物を書いたものはだれでも、その学問の歴史に、権利を獲得し、「彼のあとからきたものはみな、彼の著作を引用し、自分の意見を彼の意見と比較する義務をおう。これが、職業的なゲームのルールである」。

これに対して、ジェイムズは、「一つの哲学は一人の人間のもっとも内的な性質の表現である。宇宙の定義はすべて人間性が宇宙にたいして意識的におこなう表現にほかならない」と訴える。

ジェイムズは、『多元的宇宙』の第1講「いろいろなタイプの哲学的な考え方」で、経験主義と理性主義の大事な違いを指摘して

「経験主義とは、部分によって全体を説明する習慣であり、理性主義とは、全体によって部分を説明する習慣である。理性主義は、かくて、一元論と親近性を保つというのは、全体は統一とともにあるからである。一方、経験主義は、多元論的な見解に傾く。どんな哲学も、世界を要約的にスケッチしたもの、つまり、世界の略図、ないし、事件のパースペクティブを遠見に書いた見取り図以上のものではありえない。そうして、何よりもまずそれに注目しなくてはならないのは、世界全体の絵をかく際、我々が自由につかえる材料は、この世界のさまざまな部分中、我々がすでに経験したものから供給されたものだけだ、というこのことである」という。「経験主義的な人間は、部分を全体の前におく」。

そこで、全体から出発し、したがって壮大なことばづかいをして喜んでいる理性主義者の眼には、わざわざものごとをちっぽけにすることばをつかっているように見えるかもしれない」。ジェイムズ自身は、「経験主義のちっぽけな言い方を使うであろう」という。


どんな哲学にも2つの部分がある。
「その一つは、その哲学が我々をそこにみちびいてくれる最終的な見解、信念、あるいは態度であり、もう一つは、その態度に至るみちすじにある推論である」。

「哲学は真でなければならないが、しかしそれは、哲学に課せられた最小の要求にすぎない。哲学者ではなくても、あて推量か啓示かによって、真なことをいうかもしれない。哲学者の真理を他の真理からわかつものは、それが推量によって得られるという事実である。想像ではなく、論証によって哲学者は真理を獲得しなければならない。」

一般人は、その信仰をその父祖から受け継いでいることを知っているが、それがいかにしてかを知らないが、哲学者、理性から、その信念に対する認可をえなくてはならず、職業的な哲学者にとっては、その認可を得る手続きの方が、その認可によって接近可能になった信念よりも、重要なのが通例である。哲学者は、前提や意味や反論、難点を考察する。

しかし、ジェイムズは、職業的な哲学者の方法に批判的である。職業的な哲学者は、過去の哲学者に言及しなければならない。「こうして、思考の自発性や、概念の新鮮さは、すべて失われてしまう。」
ジェイムズは、当時のアメリカの若い学生たちが、「あまりにも技術的すぎて、うんざりするような状態にある」と嘆く。それは、「ドイツ風のやり方をあまり忠実にまねしすぎたために生じたことである」と述べ、ジェイムズ自身は、「もっと人間的なイギリスの伝統にしたがれるように、という強い希望をここで表現させて頂きたい」という。

「アメリカの学生たちは、後になって、いたましいほどの個人的な努力をはらって、主題との直接的な関係を回復しなければならない。我々の中には、その回復に成功したものもある。しかし、もっと若い人たちは、決して回復しないのではないかと、私はおそれている。職業的な習慣が、すでにそれほど強くなっている」という。だが、「哲学のような学科では、人間性のひらかれた空気とのむすびつきを失い、職業上の伝統だけによって考えるということは、実に致命的なことなのである」という。

ドイツでは、形式があまりに職業化されたために、教職をえて書物を書いたものはだれでも、その学問の歴史に、権利を獲得し、「彼のあとからきたものはみな、彼の著作を引用し、自分の意見を彼の意見と比較する義務をおう。これが、職業的なゲームのルールである」。

これに対して、ジェイムズは、
「一つの哲学は一人の人間のもっとも内的な性質の表現である。宇宙の定義はすべて人間性が宇宙にたいして意識的におこなう表現にほかならない」と訴える。


ジェイムズは、『多元的宇宙』の第1講「いろいろなタイプの哲学的な考え方」で、経験主義と理性主義の大事な違いを指摘して、「経験主義とは、部分によって全体を説明する習慣であり、理性主義とは、全体によって部分を説明する習慣である。理性主義は、かくて、一元論と親近性を保つというのは、全体は統一とともにあるからである。

一方、経験主義は、多元論的な見解に傾く。どんな哲学も、世界を要約的にスケッチしたもの、つまり、世界の略図、ないし、事件のパースペクティブを遠見に書いた見取り図以上のものではありえない。そうして、何よりもまずそれに注目しなくてはならないのは、世界全体の絵をかく際、我々が自由につかえる材料は、この世界のさまざまな部分中、我々がすでに経験したものから供給されたものだけだ、というこのことである」(PU 訳7)という。

                          
「経験主義的な人間は、部分を全体の前におく」

                          「理性主義者は、「世界を、秩序のある宇宙としておきたい」

「経験主義的な人間は、部分を全体の前に置く。そこで、全体から出発し、したがって壮大なことばづかいをして喜んでいる理性主義者の眼には、わざわざものごとをちっぽけにすることばをつかっているように見えるかもしれない」。ジェイムズ自身は、「経験主義のちっぽけな言い方を使うであろう」という。


「絶対者の概念が、宇宙の合理性についての我々の感情にもたらした最大の貢献は、宇宙の表面はどれ程みたされていようとも、その底ではすべてがうまくいっている―無限につづく混乱の中心に平和がやすらっているという確信であろう」
この考え方は、理性的で、審美的にも美しいし、主知的にも美しいし、道徳的にも美しいが、実用的にはそれほど美しくはない。

世界のもっとも深い実在を、静的で歴史のないものとすることにより、世界が我々の共感をとらえる度合いを少なくし、世界の魂を我々にとってよそよそしいものとするからである。にもかかわらず、この考え方は、平和を与える。」

ジェイムズの結論は、「絶対者の仮説は、ある種の宗教的な平和をもたらす点において、もっとも重要な合理化機能をいとなむけれども、知的な観点から決定的に非合理なものである。理想的に完全な全体とは、たしかに、その部分もまた完全な全体であるはずである……絶対者は理想的に完全な全体として定義されている。しかもその部分の、すべてとはいわないまでも、大部分が不完全なものとみとめられているのである。明らかにこの概念は、内的な整合性を欠いており、問題を解決してくれるよりはむしろ、問題を提出しているものである。」

・ペルグソン
アンリ=ルイ・ベルクソンHenri-Louis Bergson 1859年10月18日 - 1941年1月4日)は、フランス哲学者。出身はパリ。日本語では「ベルグソン」と表記されることも多いが、近年では原語に近い「ベルクソン」の表記が主流となっている。
『物質と記憶』
ベルクソンは、実在を持続の流動とする立場から、心(記憶)と身体(物質)を「持続の緊張と弛緩の両極に位置するもの」として捉えた。そして、その双方が持続の律動を通じて相互にかかわりあうことを立証した。

『創造的進化』
1907年に第三の主著『創造的進化』を発表する。この本の中で、ベルクソンは、当時人口に膾炙していたスペンサーの社会進化論から出発し、『試論』で意識の流れとしての「持続」を提唱した。そして、『物質と記憶』で論じた意識と身体についての考察を生命論の方向へとさらに押し進めた。これは、ベルクソンにおける意識の持続の考え方を広く生命全体・宇宙全体にまで推し進めたものといえる。
ダーウィンの進化論における自然淘汰の考え方では、淘汰の原理に素朴な功利主義しか反映されていない。しかし実際に起こっている事態は異なる。
生を肯定し、生をさらに輝かせ進化させるような力、種と種のあいだを飛び越える「タテの力」、「上に向かう力」が働き、突然変異が起こるのである。そこで生命の進化を推し進める根源的な力として想定されたのが、"elan vital"「エラン・ヴィタール 生命の飛躍(生の飛躍)」である。
ベルクソンはここで、普遍的なものが実在するという大胆かつ前科学的な立場を肯定しており、経験論唯名論に対する少数派、中世的な実在論に身を置いている。

『道徳と宗教の二源泉』
こうした公的活動の激務のなかでも、ベルクソンの著作を書く意欲は衰えず、1932年に最後の主著として発表されたのが『道徳と宗教の二源泉』である。
この著作では、社会進化論・意識論・自由意志論・生命論といったこれまでのベルクソンの議論を踏まえたうえで、人間が社会を構成する上での根本問題である道徳と宗教について「開かれた社会/閉じた社会」「静的宗教/動的宗教」「愛の飛躍("elan d'amour")」といった言葉を用いつつ、独自の考察を加えている。
人間の知的営為に伴うように、創造的な(想像的な)働き「創話機能(function fabulatrice)」という営為がなされており、現実と未来、期待、希望とのバランスが回復されている。それが宗教と道徳の起源となっており、社会発展の原動力となってきたのである。
ここには生命の進化の原理であるエラン・ヴィタールの人間社会版とも言える内容が展開されていて、大哲学者が晩年に人類に託した希望の書と呼べる内容になっている。また「創話機能」は、20世紀初期にフロイトにより発見された無意識の働きと、同時代的に繋がっており、後にはベルクソン研究も行ったジル・ドゥルーズ[注釈 1]によって、著作の中で結びあわされる。