『地唄』
この物語は菊沢親子の関係を中心に、羽田空港で別れる、父と娘の感情の変化を鑑賞出来る作品です。
弾きこなす腕、歌いきれる技を持つものが、一人で良い、心にぴたりと寄り添って来ぬものか。
さて昭和も終戦後の今日、彼の芸を、そのかみ彼が伝えられたように承け継ぐ人間の生活は、亡くなっている。
『江口の里』
参考資料「時雨西行」
元治元年(1864)九月 作詞 河竹其水 作曲 二代目 杵屋勝三郎
仏道に入り歌を読みながら旅する西行法師。 ある晩、雨に降られとある粗末な家を訪ねると
そこは遊女の住まう家でした。
西行法師が一夜の宿にと願い出るものの遊女は情け容赦なく申し出を断ります。
西行法師が 「世の中を 厭ふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな」
(この世の中を厭い、世俗を捨て去ることは難しいでしょう。でも、宿を貸すことはそんなに難しいことでもないでしょうに、なぜ、あなたは宿を断ったりするのでしょう…)
と歌うと即座に遊女は
「世を厭ふ 人とし聞けば仮の宿に 心留むなと思ふばかりに」
(あなたは、悩み多い世の中をきらって出家している人と聞きますので、遊女の宿に泊まるなどと、かりそめの宿に執着なさるなと思うだけなのです。)
と、返したので、西行は改めて遊女に一夜の宿を頼みました。
家にはいると遊女は僧となった西行の身の上を尋ねます。
西行は隠さず武士の家の生まれであり、そうして生きていくうちに世の無常を思い、出家したのだと半生を語ります。
遊女も自らの身の上を、
父母の顔さえ知らず、訪ね来る者は多いがそれもただ一夜、はかない遊女として生きていると、移り行く季節のどんなに美しい景色を見ても無常を感じます、それであるのに人は何かの虜となり愛に溺れてしまう、執着こそが煩悩の根本なのでしょう。
と、語りました。
これを聞いた西行はなんという達観であろうと感心し、ただの遊女ではあるまいと眼を閉じ心を静めると、
今まで遊女のいた所に六牙の象に乗り後光のさす普賢菩薩が現れ
「実相無漏の大海に五塵六欲の風は吹かねども
随縁真如の波の立たぬ日もなし」
(清らかな大海に世俗の欲の風は吹かないが、縁ある所に悟りへの波はたつものである)
と語られる。
西行法師が眼を開けるとそこには元の遊女の姿があり
人は執着を捨てれば、つらい世もつらい恋もなくなるのです、誰かを慕う事も、待つこともやめます、愛してしまえばその別れにはまた嵐が吹き荒れるのだから。
花が咲くこと、紅葉が散ること、月も、雪が降るのも、全ては変わっていくのだから、過ぎたことに心を揺らしても、何にもならないのです。
と続けます。
西行は、一夜の縁に人の姿を借りた菩薩の姿を拝み、また悟りに近づいたのです、そうしてこの一夜の出来事を歌にして語り継ごう。
と、締めくくります。
”行方定めぬ雲水の 行方定めぬ雲水の 月諸共に 西へ行く 西行法師は家を出て 一所不住の法の身に 吉野の花や更科の
月も心のまにまにに 三十一文字の歌修行 廻る旅路も長月の 秋も昨日と過ぎ行きて
都をあとに時雨月 淀の川船行末は 鵜殿の芦のほの見えし 松の煙の波寄する 江口の里の黄昏に
迷ひの色は捨てしかど 濡るる時雨に忍びかね 賎の軒端にたたずみて 一と夜の宿り乞ひければ
あるじと見えし遊女が 情なぎさの断りに 波に漂ふ捨小舟 どこへ取付く島もなく
世の中を 厭ふまでこそ難からめ 仮の宿りを惜しむ君かな と口ずさみて行き過ぐるを なうなう暫し と呼び留め
世を厭ふ 人とし聞けば仮の宿に 心留むなと思ふばかりに それ厭はずばこなたへと 云ふに嬉しき宿頼む 一樹の蔭の雨やどり 一河の流れのこの里に
お泊め申すも他生の縁 いかなる人の末なるかと 問はれて包むよしもなく
我も昔は弓取の 俵藤太が九代の後葉 佐藤右兵衛尉憲清とて 鳥羽の帝の北面たりしが
飛花落葉の世を観じ 弓矢を捨てて墨染に 身を染めなして法の旅
あら羨まし我が身の上 父母さへも白浪の 寄する岸辺の川舟を 留めて逢瀬の波枕
世にも果敢なき流れの身 春の朝に花咲いて 色なす山の粧ひも ゆふべの風に誘はれて
秋の夕べに紅葉して 月によせ 雪によせ 問ひ来る人も川竹の うきふし繁き契りゆゑ
これも何時しかかれがれに 人は更なり心無き 草木も哀れあるものを 或時は色に染み 貪着の思ひ浅からず 又ある時は声を聞き 愛執の心いと深く これぞ迷ひの種なりや
げにげにこれは凡人ならじと 眼を閉ぢて心を静め 見れば不思議や 今まで在りし遊女の姿たちまちに 普賢菩薩と顕じ給ひ
実相無漏の大海に 五塵六欲の風は吹かねども 随縁真如の波の立たぬ日もなし 眼を開けば遊女にて
人は心を留めざれば つらき浮世も色もなく 人も慕はじ待ちもせじ 又別れ路もあらし吹く
花よ紅葉よ月雪の ふりにしこともあらよしなや 眼を閉づれば菩薩にて 異香のかをり糸竹の調べ
六牙の象に打乗りて 光明四方に輝きて 拝まれ給ふぞ有難き 拝まれ給ふぞ有難き
西行法師が正身の 普賢菩薩を拝みたる 江口の里の雨宿り
空に時雨のふることを ここに写してうたふ一節
一
グノー神父 「主よ彼女の千円札を祝福し給え その行方もまたみそなわし給え」
二
高級車に乗って帰った和服の美女
三
カトリックは資本家を養護するのか、労働者の自滅をうながすのか 喰えねえときにキリストに何ができるってんだ。
それが人間同士どうにかしようって相談に邪魔さらすなア勘弁できねエんだ
「数分後、グノー神父暗い聖堂の中にひざまずいていた。唇がふるえているのは聖務日とうの挽歌を唱えているからである。」
晩祷、晩?(ばんとう)は、正教会も含めたキリスト教の教会において広く用いられる、晩の公祈祷を指す総称。内容・形式は教派によって異なる。
東西教会の別を問わず、教会暦は日没を一日の区切りとするため、いずれの教派においても、日没後に行われる晩課は、一日の初めの時課となる。
挽歌というか晩課というのがいずれのほうが正しいのか。
カトリック教会などで、三位一体の神を指す。デウス(Deus)の翻訳のひとつ.
16世紀のヨーロッパでは、ラテン語の「Deus」といえば、キリスト教の唯一神のことを、専ら意味しており、古代ローマ時代における、多神教の神々、という本来の意味は軽視されていた。そのような状況を踏まえれば、結局、当時のキリシタンたちは、唯一神を呼ぶにあたって、「デウス」か「でうす」、「天帝」「天主」「天道」という呼び名を使わざるを得なかったのである。
明治以降に漢文訳聖書の影響を受けた日本語訳聖書がキリスト教のDeusを「神」と翻訳し、日本の正教会・カトリック教会・プロテスタントのいずれにおいても、これが今に至るまで定着している。
「寛大の精神、、、それは人間と人間の間のことです。天主は必ずしも人間と人間の間に犯される過ちに対しても、あるときは極めて激しく咎めるのです。
それはどういうときか。それは人間が愛の精神を失っているときです」
「人ハ何ノタメ二コノ世に生マレテ来マシタカ。人ガコノ世二生マレテ来タノハ、天主ヲ知リ、天主ヲ愛シ、天主二仕エテ、遂二天国ノ幸福ヲ得ルタメデス、」
(日本国憲法第13条 幸福の追求権) 参照されたい。
四
野添氏、桜井夫人 神父にたいして、坂井さとこが芸者であることに不快感をあらわす
神父、カトリックについて殆ど何も知らない者よりも、カトリックを知っているつもりでいる桜井夫人の方が、神父にとっては導き難い羊であった。
五
グノー神父、都心の劇場で柳橋の芸者たちの舞踊界をしているのを見に行く。
「時雨西行」に小ふみコト坂井さとこが出演している。
神父はさとこの訪れによってどれだけ彼は潤うことができたことか。天主の恩恵に対しては感謝して、そして応えるべきだと彼は決意していた。
仏教では出家者は男性ばかりの社会であり、女性は救われ難いと言われた時代もありましたが、女人往生を説く法華経が平安時代以降広まったことにより、主に貴婦人からの篤い信仰を得ています。普賢菩薩は文殊菩薩と共に釈迦如来の脇侍としておられますが、古くから女人救済の仏として女性からの篤い信仰を受けています。
由緒によれば、役行者が修行のため大峰山に籠もっていた際、お母様の白専女(しらとうめ)が息子の身を案じて跡を追おうとしましたが、女人禁制のため山に入れなかったため、この地で大成を念じながら没したと伝えられています。後に、役行者が「妓楽」、「妓女」という二匹の鬼をこの地に遣わせてその霊を祀ったことから、この地を「墓の谷」または「母の谷」と呼び、母が子の大成を願う霊地として多くの信仰を集めることとなったそうです。
『孟姜女考』
『聊斎志異』
中国の伝奇小説。現行本一六巻四四五編。清の蒲松齢(ほしょうれい)撰。一六七九年ごろ完成。一七六六年刊。短編を集めたもので怪奇的な物語と奇聞録に大別される。花や動物の化身・などと人間との情感豊かな交流をユーモアと痛烈な風刺のきいた華麗な筆致で展開。 「コトバンク」
金田崎子達は趙秀桂にモンチャン二ュイの物語を聞きながら万里の頂上をめざす。
万里の長城は外敵の侵入を防ぎ、またシルクロード貿易を守るために築かれました。
万里の長城の歴史は春秋時代(紀元前770年から476年)に始まり、秦王朝(紀元前221年から206年)に最初に完成し、明王朝(1368年から1644年)の防衛として再建されました。
この時代に長城は初めて築かれたといわれ、その当時、現在の中国の東ないしは中央部の地域に支配国があったとされています。この地域を守るために城壁が築かれ、それが万里の長城のような造りのものでした。しかし規模は小さかったようです。最も早いものは紀元前650年頃に魯と斉国の間に造られました。そしてそれは後に楚国の一部になりました。
領土と権力のために争いを起こすとき、周の王の影響力が衰えていました。小さな国は戦国時代の初めまでに7つの大きな国(楚、斉、魏、燕、趙、秦、漢)を築くため統治者によって吸収されました。 秦、魏、燕、趙のそれぞれの国は小さな長城のような自国の防護壁を作りました。
戦国時代の結果、秦が最強の国として他国を征服し、全土を統一しました。秦の始皇(秦の時代、紀元前247年〜221年の王)は始皇帝になり、秦によって最も短い期間、支配されました。始皇帝は中国北部の長城建設に着手しました。特に北部は秦、趙、燕の国によって築かれ、北方モンゴルからの攻撃を防ぐため、一直線の壁が作られました。そしてそれが現在ある「万里の長城」です。100万人もの労働者と9年におよぶ歳月をかけ造られました。他の国の境界壁は統一した中国の中で廃れていき、のちには侵食、破壊されてしました。 完成した時点のその全長は5000キロメートル、「1万里(1里約0.5km)の長さもある壁」として知られるようになりました。秦の時代の万里の長城は西は甘粛省から遼寧省遼東半島まで続いています。
紀元前210年、秦の始皇帝の没後、秦の国はその権力がなくなり漢の時代になりました。そして漢の時代は中国の歴史上最も輝かしい時代でもあります。北の防御施設また城壁の周囲、数百キロメートルとモンゴルとの国境付近でも同様にさらに強化、延長されました。東側、北朝鮮ピョンヤン近くの沿岸から西は玉門関までの漢の時代の長城は長さ8000キロにもおよびます。全長は枝分かれした部分や自然の防壁、溝も含みます。
万里の長城の構築と修理は他の封建時代にも行われてきました。漢の時代以降の小さく弱かった王朝時代(北魏、北斉、東魏、北周)にも長城に多くが費やされました。北斉の時代(550年〜577年) は短く、陝西省付近に北斉によって造られた重要な箇所が見られます。モンゴルからの攻撃を防ぐための二段階構造になっている「内側の城壁」といったものもあります。
この時代には長城の延長修復が見られます。そして封建時代の絶頂来である唐の時代(618年〜907年)へと続きます。すぐれた力と優越した北方遊牧民族に対抗するすべもなく長城には何も行われませんでした。
宋の時代は中国の経済と貿易の発展が行われたことでよく知られています。北部・北西地方で遼や西夏、金の侵略を防ぐための建設の歴史があります。しかし金や満州は長城のいたるところ手に入れ、金の時代(1115年〜1234年)には中国北部を支配していました。金の時代の長城は広大なモンゴル帝国の侵略を防ぐことはできず、破滅し元の時代(1271年〜1368年)が始まりました。
元の時代は中国が漢民族ではなくモンゴル族に支配されていた最初の時代です。長城は1500年間にわたる漢民族の壮大なプロジェクトでした。長城の建設は宋時代には中断されました。
謀反のリーダー朱元璋(のちの元のリーダー)のもと、漢民族が再び支配し、元は崩壊しました。中国は明の時代に繁栄し、軍も増大しました。長城はさらに北方の敵から守るため、100年間の計画で再構築されました。修復された長城のほとんどは明の時代に築かれたものです。そしてそれは八達嶺や慕田峪など明の長城として知られています。
現在、万里の長城は中国旅行には欠かせない観光スポットになっています。1644年に満州から必ず通らなくてはならない山海関は漢民族最後の王朝、清の時代(1644年〜1911年)には長城のシンボルになりました。長城の最後の端として八達嶺からここまで中国政府によって修復され、1957年には観光地として公開されました。その頃より、修復、公開が続いています。
則天武后
唐の時代、624年に生まれる、幼名は媚娘、14歳の時に、唐の2代目皇帝 李世民の才人(妃)となる。
683年、夫の李治 崩御。690年自ら帝位につき、国号を周(武周)とした。705年に亡くなる。享年82歳。
日本は飛鳥時代。
最後の663年の白村江の戦いは唐(中国)側では
武則天が仕切っていたそうな!日本、武則天に負けてます。
崎子は、前を纏足の老婆が杖をついて歩いているのを見つけた。
支那人というのは女でもしぶといですからね
ー過去の中国に関する知識が、新中国の理解を阻むという例を崎子は帰国してから数多く見たが,c氏もそういう方の日本人であるようだったー
●「中国人というのはしぶといですからねえ。どんな時代が来たって、変わるもんじゃないですよ。奴らは日本人なんてものは大嫌いなんです。共産主義に
なったって同じことだと僕は思いますねえ。会田さんは感激しているようですが、なに、支那っていうのは、そんな簡単に底の割れるところじゃない。
招待客を大事にしたってのは、応接間に通しただけのことで、決して台所は見せないってことです。台所には普通どうり蠅だって泥棒だって一杯いますよ。
そんなものは平気なんだから、彼らは」
●金持ちの中国人の想像を絶するような栄華のさま、貧乏人の恐るべき生活の知恵。それらは、まるで千一夜物語をきくような面白さと亡国の万華を覗く
ような面白さと亡国の万華を覗くような色彩を感じさせた。この人に、あの中国の果てしないような若木の並木道を歩かせたら、なんと言うだろうか。なに、
支那人はしぶといですよ。と、やはり嘯くのだろうか、と崎子は考えていた。
●「柳腰だの纏足だのってのは、本当の支那人の好みじゃないんだ。支那人というのは男でも女でもしぶとくってねえ、僕は苦力なんかと一緒に寝起きし
てた頃もあるから分かりますが、彼らの性生活の逞しさは凄いものなんですよ、会田さん。あっというまに人口七億になった国ですよ。中共は、窈窕たる
美女なんてもんは、老いぼれの皇帝が、何千人から皇宮に入れている女を一人一度だけがやっとという、つまり能力の衰えから出てきた好みですよ。
c氏『長城史話』を忌々しげに叩く、
「それをねえ、こんな短い文章で、統治階級の残忍暴虐な奴隷制圧制に対する反抗を示す物語だなんて、高貴品徳の女だなんて、笑わせらあ。彼らのいう
大衆はねえ。こんな説明はうけませんよ。そんなもんじゃあないんだ、支那は支那人は」
清朝の光緒年間(1875年〜1908年)、夏の気温が40℃に達する北京に多く住んでいた外国人たちは避暑地を求めていた。1890年代、英国人の鉄道技師が漁村だったこの地に美しい砂浜と涼しい気候を見出した。すぐに多くの外国人の知るところとなり、彼らはこの地への別荘建設の許可を要求した。これに応じ、光緒24年(1898年)清朝政府は北戴河を「各国人士のための避暑地」として正式に開発・開放した。
1938年、豊かな中国人や北京・天津の外国人たちによる別荘の数は700棟以上に達し、中央政府や多くの大規模な地方政府・企業などが200ヶ所余りの療養所を建設した。
1949年に中華人民共和国が建国された後、これらは政府に没収され、労働者向けの療養所や政府幹部の別荘となった。模範的な労働者は努力の報奨としてこれらの療養所へ行くことができた。1954年にはソビエト連邦から中国の経済建設の指導に来る「社会主義の兄弟」たちをもてなす巨大な「友情のゲストハウス」が建設された。
信憑性の有する『長城史語』
楊さんの話は主として古典劇の中の孟姜女なので、何より孟姜女の悲劇性が協調されるという効果をもっている。
秦の始皇帝が長城構築を始めると、この工事のためには夫役一万人が犠牲にされるだろうという噂が立った。人民は怯え、あらゆる抵抗を試みて不易から逃れようとしたので
当局は困って、なんとかしてこの謡言を打ち消さなければならなかった。当時、始皇の側近第一号であった趙高という宦官は、腹黒いので有名な奸臣であったが、自分の仇敵範范
啓忠に復讐する手段として、その子范杞梁を殺して城下に祀れば一万人に代わる人柱になるという予言を得たと進言する。
そこで国をあげて范杞梁を探せという命令が出た。身にふりかかる危難を知った范杞梁は松江に逃げ込み、孟隆徳の花園に逃げ込むのだが、折りから孟隆徳の一人娘孟養女が
沐浴しているのを見てしまう。かねてその肌を窺い見た者の妻となるという予言をされていた孟養女の方も、杞梁が風流人であるのを見て心を奪われ、かくて二人は結ばれる。
しかし、やがて探索は孟家の邸内にまで及び、婿の范杞梁は捕らえられて都に送られて都に送られてしまった。
以後、消息は杳として絶え、所天も不明ということになる。
孟姜女は痛心のあまり、冬が近づくと夫の衣を取り出して、どうしてもそれを届けに生きたいと思った。下女の春環、下男の興児と同行して出発するのだが、この興児が悪党で春環
を殺し、孟姜女に迫るのを、山中で逆に孟養女にころされてしまうといった劇的な道中があり、一人になった孟養女は万里を突破するのに万苦を嘗めつくし、ようやく長城にたどりつく。