生命の手記


     広島県 父


 平成14年6月14日、障害者が働く作業所から「息子さんが車にあたったかも知れない。念のため医者につれていくので着替えを持って来るように」と母親に電話が入りました。
 轢かれたタイヤの跡がありながら救急車を呼ばず、別のマイクロバスでかかりつけの病院へ連れて行かれ「バックして当たった」と伝えていました。
 医師は「骨折している。血圧も低下している。腕に轢かれた形跡がある」といい、総合病院に搬送する救急車を手配。
 広島県立病院の医師の「随所で骨折している。片方の肺が少し悪い。痛がっていたので鎮静剤を打った」。なぜ目を覚まさないのかと困惑していたが、「とにかく一晩様子を見ましょう」という言葉で安心しました。
 しかし、翌日には人工呼吸器をつけられ、その日の夕方には「脳が真っ黒になっている。もう笑顔を見ることはできない。助かっても植物人間で、3日が山場」と非情な説明に。一瞬時間が止まり頭の中が真っ白になりました。
 1日30分3回の限られた面会時間の中で懸命に声をかけ、手足をさすり続けましたが、13日後、大粒の涙を一杯浮かべ31歳の若さで夜空の星になってしまいました。
 妻は26年間、送迎バス停までの送り迎えが、かけがえのない仕事でした。1日が子どもとともに明け、1日が子どもとともに終わるという生活で「ひきつけ」があるため、寝るときも常に一緒でした。それが、勤務先の敷地内でバックしてきたマイクロバスに、たった一人の息子の命を奪われてしまい、想像もできなかった現実が待ち受けていました。体が震え頭の中が錯乱状態でいつ気が狂っても不思議ではありませんでした。
 警察や検察庁に上申書(遺族の会の助言)を提出し、極刑を訴えました。当然、加害者及び責任者も厳罰を受けるものと想っていましたが、運転手は(臨時職員、当時70歳)は50万円の罰金刑で逮捕もされず、人の命を奪いながら、あまりにも軽い刑罰で承服できるものではありません。
 息子を失い「これまでどれだけ、親として育ててきたか。平凡な生活こそ、どれだけ充実した幸福な時間であったか」気が付きましたが、もうその時間は返ってきません。





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