ひとり言

   P1 P2 P3

H17.12.28 夜中から始まった一番辛い時間が、また来た。          
6回目のこの日の苦しみは 事件に触れる事が恐くて気をまぎらわせても
康政の顔に残るいくつもの傷が あざが 食いしばった唇が目の前に甦る。
そして、いつも どうして警察官は木村稔に親より先に事件を連絡し、
警察手帳を持たない6人の警察官が生きてる康政に「自殺」と告げ
処理を急ぎ、 木村稔は友達である警察官に協力しなければならなかった
のかという疑問にぶち当たる。
「康政 くつはどこ?」
この苦しみは関わった警察官や木村稔には伝わることもない。
被害者の悲しみは真実がわからない限り整理する事も 理解する事も 
乗り越える事もできません。
丸谷康政が この世に生まれた意味を読み取る事に努めていきます。母

H17.12月 .9 記録として 康政の母
6年経って 信じたくない事実があり このHpにさえ恐くて悲しくて
書けませんでした。

私には2人の弟がいます。
HP中にも出てくる木村稔というのは、11歳離れた下の弟です。
事件から6年経ち、あの時稔は31歳 2人の娘に恵まれ 子供の
かわいさは 解っていたはずだと思うのに・・・。

私と稔は歳が離れているので生まれた時は かわいくて おしめを替えたり
お風呂に入れたり我が子のように大切に育てていました。
自分の生活が苦しくても会えば少しでも かわいくておこずかいを
あげていました。
勉強が嫌いなやんちゃな子で兄の姿にあこがれラグビーを始め
小学校から私は稔を毎週日曜日にラグビー教室に連れていきました。
和歌山県立工業高校のラグビー部では 花園にも出場し頑張り
近鉄に就職しラグビーをしていましたが体の故障で続けられなくなり
転々と職を代わり今に至っています。
どこから あのかわいかった稔が変わってしまったのだろう
息子の死と同時に 弟、稔がなぜ私達を騙さなければならなかったのか
私の苦しみは 日を追う事に身体中に深く染み込んでいきました。

「死んだ子の歳を数える」まさに その通り 殺されてから6回目の歳を数えます。
6年前までは 何気なく使っていた言葉ですが 自分がこの様な状況になって
口から内臓を引きずり出されそうな状態で 「かすかな未来や かなわぬ夢だけでも
見させて!」と子を思いながら数えただろう人々の思いを知りました。
21歳の誕生日 康政 おめでとう。 2005.9.9 
20歳の康政へ
もう、5年になりますね。毎日毎日、あなたを思わない日、時間はありません。
人にあなたの事を話すとき 堪えても堪えても涙が先に出て言葉になりません。
今日は成人式です。
でも、あなたには成人式の招待状は届きませんでした。
昨年は、岡崎哲君と飯島友樹君の成人式でした。この時のお母さん達の辛い思い
は見て いても苦しいものでした。昨年末のあなたの命日、新年の成人式と恐怖
を感じながらどうしたらいいのだろう?、どこへ逃げればいいのだろう。結局、どうに
もならず今日という日がやって来た。成人するまで我が子を守り育てられなかった
親の無念が遺族として大きな壁である事を知り どれだけの人々が こんな思いで
成人式を見ているのだろうと考えました。でも あなたの姿を見ることはできないけ
れどあなたが「生きる」方法はいくつもありましたね。これからも あなたが「生きる」
ことを ずっとずっと願っています。
康政 成人おめでとう。母より
今夜はお母さんが炊いたお赤飯でお祝いしようね そうそう お酒も添えるね。
2005.1.9 


    昨夜 康政の お骨を抱いて寝ました。
    息子が痛かった 苦しかった 怖かった思いをしていた
    時間は 何度来ても 地獄のようです。2004.12.28

 

1999年もあと3日で終わろうとしている寒い夜中でした。
    究然何がどうなって、こんなことをされるのか納得のいかない
    混乱の中、病院のベッドで必死に生きようとしている息子を
    ただ見ていることしかできなかった。

    「康政、人間って不思議なものでね、生きようと思わなあかんよ。
    先生はどこでもいいから動いたら手術してくれるって。
    康政どこでもいいから動かして。お母さんに合図して!」
    と声をかけると、息子の目から涙があふれました。
   
    手も足も動かない体で、唯一息子ができる「合図」だったのでしょう。
    母として何もしてやれないまま息子は息をひきとりました。

    通夜、葬儀と、まるでベルトコンベアの上に乗せられたように
    ことが進められていった。
    −−どうか止めて!
    これが終わったら 私の息子は焼かれてしまう
    お願い止めて!
    どうして私の気持ち 分かってくれないの
    だれか止めて どうか焼かないで
    お願いだから 私から息子を奪わないで−−

    胸の中で何度、この言葉を叫んだことか。
    科学も、医学も、文明もこんなに進歩している時代なのに、
    どうして人の心を置き去りにしたまま何の方法もとれず、
    私は息子を焼かなければならないのだろう。
    人権を踏みにじられ、命をむしり取られたわが子の死は、
    私には尊厳をもった「茶毘にふす」という言葉で表現できる
    気持ちにはとてもなれなかった。
    お父さん助けて!お母さん怖いよ!と息子の声が聞こえる。
    そして私は悲しみで体が壊れていきます。

    −−康政お母さんの声聞こえる?ごめんね 助けてやれなくて
    おまえが流した最後の涙のメッセージ お母さん忘れません
    おまえが遺した「生命のメッセージ」お母さん忘れません
           つながれ命 心をこめて
                 平成15年12月28日 丸谷るみ

 桜の花が 満開に咲いてた。
    綺麗だと感動していない自分に きずいた。
               2003.4.7 康政 母

  1999年12月27,28,29日
  「鳥徳ビルに関する事件」に関わった人達へ
     人を殺してはいけません
     「仕事だから」と誤魔化してはいけません
     自分自身が行った行動を忘れないでください
     同じ過ちを 繰り返さないでください
     御自分の子供さんを大切に育ててください
     その時 康政のメッセージが届くでしょう。
            2002.12.27  丸谷康政 母


.14.9.9 今日は康政の誕生日ですね。お前に会う事ができなかったけど
「心」を「力」を頂きました。
お名前を書く事ができませんが 
きっと 康政が出会わせてくれたんだと思いました。
思い出すたび 泣けてきます。
心臓に毛が生えているような お母さんだったけど
今では 動く事も忘れているときがあります。
誰も居ないときに 3回だけ「康政に会いたい!」
「康政に会いたい!」「康政に会いたい!」と叫びました。

 



H.14.8.20.
 先日、とても悲しい事がありました。
 
 康政は亡くなりましたが
    康政の 思いは今も生きています。
 康政は まだ15歳でした。
 人を殴る事もできない子供でした。
 人を疑う事も できない子供でした。
まさか殺されるとは思っていなかったでしょう

信じている人々に裏切られて
    しくしく 泣いています。 
まだ 子供だったのに・・・・・
---------
  

   おかあさん達が 大阪 難波で国土交通省と法務省に 警察の検証結果が間違っていると
   解れば何万軒もの署名を集めなくても 誰でも控訴して 真実を知る事ができるようにしてほ
   しいという 署名活動をしました。
   私も参加させていただきました。
   99%刑事訴訟がない事に 驚きました。
   事故でも 殺人でもやっぱり「死人に口無し」加害者が有利になっていた。
   !死んだら あかん。 死んだら 死に損や!
        H14.2.26日   

  ・ 二年前の今頃 康政が殴られていただろう時間です。
    何よりも 辛い時間・・・・・・・・・

    26時間・・・・・痛み 苦しみの何と長い辛抱をしていたんだろう
    「どこでもいいから動かして!動いたら先生手術してくれるって!
     康政 指の先でも まぶたでもいいから どこか動かして!」
    私達の言葉に康政は必死で頑張ったね。
    最後の涙は今も忘れないよ。
    康政 よく頑張ったね。偉かったよ。
    言いたかったんだね。生きたかったんだね。
    体は助けてやれなかったけど お前の心だけでも助けてやりたい。
    頑張ろうね。   H13.12.28  母

--------
     

   ・季節が 景色が においが あの日を甦らせる
         動かない体 動けない心

   ・康政よ
    逢いたい 逢いたい
    胸が痛い ぷちぷちと心臓の血管が切れていく
    壊れてしまえ 止まってしまえ こんな人生 苦しみと共に

   ・こぼれて気付く 息子の名 
        さまよう心 血の涙

   ・人の道 いつか解れと 不動尊

   ・康政 痛かったな
    康政 恐かったな
    康政 苦しかったな
    康政 助けてほしかったな
    康政 生きたかったな
        助けてやりたかったよ
        代わってやりたかったよ
        悲しいよ 苦しいよ
        お母さん お前の思い忘れへん

   ・不思議なつながり 
    この世と あの世に関係なく 息子はたくさんの巡り会いを
    させてくれます。
    息子の導きのまま 歩んで行きます。

   ・お前が行きたがっていた和歌山工業高等専門学校
    不思議な事に 「生命のメッセージ」展が 奈良高専で催されたそうです。和歌山ではなかったけど 同じ高専
    で よっぽど 行きたかったんだね。
    お母さん 関心したよ 行けてよかったね。 奈良高専の皆さんに お礼いいたいね。

   ・悲しみを 持ち寄りて 支えあい
    命 生きよと 世に叫ぶ
    願い込めて 亡き子を生かす 親ごころ

   ・トボトボと 意味のない道どこまでも
    人のこころに 壊されて
    人のこころで 支えられ
              
 -------------------------------------


  ・康政が亡くなって 二年あまり HPを見てたくさんの方々に励まして頂きました。中学生の方が「命」についての授業に
   発表したいとのメールを頂いたのを始めに 高校生 大学生さんの卒論のテーマに また 大学の授業のテーマに
   心理学の授業でHPを知ってくれたり 子供を持つお父さんお母さんからメールを頂いたり 本当に幅広い年代の方々に
   支えて頂いて感謝しております。
   康政が 今 どんな思いで 事件に関係した全ての人達を見ているのか少なくとも HPを見て頂く方々には 和歌山東警察の
   担当警察官の卑劣な考えに警戒を持って 康政の事件を役に立てて下さることでしょう。
   事件に関係した彼らには 子供を焼かれる思いを 理解できるものか!と 担当警察官の卑劣なやり方が残念で
   なりません。
   私達はみんなの目で しっかり警察官としての 正しい仕事をしてもらえるように監視することが 必要な時期で
   あると考えています。
   政治の改革が進む様に間違いは 間違いと言える時代がきます。「人間がする事です」再捜査がない事 事態が
   おかしいのではないでしょうか?
   私達 国民は 警察官が言うプロでは ありませんが バカでもありません いつまでも いい加減な仕事を許して
   はくれないでしょう。  
                      H.14.2.13

 H.12年12月28日から29日にかけては 一年の月日を越えて、息子 康政が
   病院で”生きよう”と頑張った あの涙が甦り 張り裂けそうな思いを息子の
   無念と受けとめ 供養をしてやらなければと心あらたに致しました。

   クリスマス、お正月と世間の御祭りは私達家族にとっては迎えられない行事
   の一つとなってしまいました。どうしても 書けない 作れない 言えない事ばかり
   心も体も思うように動かないんです。そんな中でも 数日 遠方より 札幌
   から沖縄まで本当にたくさんの方々に供養して頂き また私達家族を励まし
   支えて頂いたことを 深く感謝申しあげます。

   ホームページで康政に会いに来てくださって ありがとうございます。
   心の支えを頂きました。
   みなさまの平穏で幸せに満ちた一年を御過ごし頂けます様に心からお祈り
   もうしあげます。
   また一年 宜しく御願いもうしあげます。

      

  

   2002年大晦日猪木ボンバイエ見ましたか。
       すごかった。どの闘いも小学生のように相手の上に乗り、顔面を
      シバキるまくる。このスタイルこそ闘いの原点だ、スタンヂングで
      キック,パンチ、、、こんなスタイルが闘いだと思っていた人には期待
      はずれだったろうが、
       本当の殺し合いはたぶんこんな様子なのだろう。レフリーがいなけ
      れば下敷きの人は殴り殺されるのだ。
       ボブサップ戦はすごかった。
      ゴングがなるや否やサップはレスラーの上に馬乗りになり顔面を殴る
      サンドバック状態のレスラーの顔面は見る見る間に腫れあがる。サップ
      は殴り続ける。
       高々と上げた手をナタを振りおろすようにレスラーの顔面にヒットした。
      バキッ!
       腫れた上に容赦なくサップが機械的に打つ、レスラーの目が腫れて
      フサガッタ。

       それでもサップは上から殴り,たんこぶを裂き,血を噴出させた。
      このままだと死んでしまう。
       誰もが思ったにちがいない。その時、サップはレスラーの腕を取り関節技
      でギブアップさせた。
       レスラーが立ち上がり挨拶をしている顔を見ると痛痛しい。
      翌日、元旦なのに気の毒でしょうがない。レスラーの一方的に殴られた顔を
      見ているとリンチにあった子供たちの顔がダブり、わが子のデスマスクを思い
      だしてしまった。
        アントニオ猪木がレスラーに駆け寄り彼に深く頭を下げた。
       言葉を投げかけていたがいつも弟子達に言うのとは違うものでアントニオ
      猪木がお礼を言っているように見えた。
        ボブサップは凄いが私はレスラーに大和魂を見せられた。       
                         ある人の言葉・・・・・
   
   「お前達は自分の息子が良い子とばかり思い込んで
    いるが康政は悪い仲間と行動を共にしていたと言う
    噂がある もっと調べないとこの事件の事 わからんぞ」
                           ・・・・・・・・・・・・・・
    
   倒錯の学校
   真剣に生きた中学生に勇気で答えた大人はいなかった
    
    城東中学1年生時代
    城東中学校軟式野球部は部員も少なく大会にも出場できない弱小チーム
    でしたが康政が入学する年度に高校野球の名門校でコーチを務めていた
    社会科の先生が就任されるという情報が入りました。学校に通い出してま
    もなく 監督は他の先生が就任しているとのことで 元興紀相互銀行で破
    綻した行員で教員資格を持っていないのですが 本人が智弁学園野球部
    と甲子園ボーイ シニアリーグの監督といった実績が評価されたのでしょう
    体育の教諭として野球部の監督についたのを知りました。康政は智弁の活
    躍をテレビで見ていましたので 大喜びでした。学校では康政の事を上級
    生も同級生も丸谷君とクンずけで呼んでくれると上機嫌で これも小学校
    時代の所属したチームが強い名門であった由縁で お山の大将でした。
    野球に対する姿勢は真面目で昼休みは1人でグランドの草むしり 石拾い
    トンボ ボールひろい (1日に数個紛失していた様子です)を行い部活にお
    いて監督にプロ的な技術を教えてもらいアウトサイドインとか言いながら家
    の前の皐月の植え込みの壁の前に立ち 植え込みとの間数十センチメートル
    をあけ夜中まで素振りを続けていました。春の大会を終え夏の大会に向かっ
    て監督が2年生、1年生を前に言いました。
    「次の試合のメンバーは休まず真面目に来た者をレギュラーにする」康政は
    目標ができたのでしょう1年生のくせに レギュラーを取ると必死にボールに
    くらいついていました。
    夏休みに入り大会前日レギュラーが発表されました 康政の名はありません。
    補欠です。レギュラーは練習に1回も出ず試合が近くなってからチョコット出て
    来た要領のいい奴らが選出されているのです。康政は約束が違うと不条理な
    現実に対応できずにいました。親として康政の事を思うと 監督の男気のなさ
    に怒りました。康政のためには補欠に甘んじて負け犬にならしてはいけない
    何とか男として真摯な態度で監督に対応し それを廻りの人が見て受け止めさ
    せなければという使命にかられました。
    試合前日
    父 「康政 お前補欠でもいいのか?」
    康政「うん、ベンチへ入れるし 出してもらえるかもしれん」
    父 「・・・・・・」「お前 野球好きか?」
    康政「うん、野球に関係あるもんやったら 球拾いでもいい」
    父 「お前 大きくなったら何したいんや?」
    康政「できれば 野球に携わる事 一生」
    父 「そんな事 あかん。先生 見てみろ 甲子園出ても中学校の先生になりか
        ねてるぞ 先輩達見てみろ大部分の人 野球してない 野球で生きられる
        のはほんの1握りの人や」
   康政「うん・・・」
   父 「康政 監督にたいして怒れ」
      「お父さん 先生や 先生の言う事は絶対や」
      「しかし、お父さんの見た限りでは 康政が正しい誰が見てもな。今日のような
       事で みんな野球から去っていくんや どうや 自転車の選手にならんか?」
   康政「いやや、そんなもん お父さんに付いて行ったら腰痛くなるし 絶対いやや 
       野球がいい」
   父 「そうか 野球がいいんか」
     「康政 お父さん思うけど 監督がチームメイトだったら
     どう思う?」
   康政「ケンカする」
   父 「そうやろ、腹立つやろ それでいいんや 例え先生でも関係ない コネクション
       で教師になる奴に負けるな ケンカこうたれ」
   康政「かなえへんわ」
    父 「男は負けるな 解っててもケンカするときある自分が正しいと思えば どこま
       でも通せ」
   康政「うん」
   父 「同級生には悪いけど 野球部 退部しろ お父さんが全力で監督を退部させて
      やる」
   康政は学校で退部を告げたのでしょう 家に先生から電話がありました。監督は野球
   は上級生が優先するというのが理由でした しかし 康政は練習休んでばかりいる
   しかも同級生が選ばれている選考方法に文句があったのです。
   監督「丸谷さんですか 丸谷君退部すると言うんですよ」
   父 「そうですか、本人の思い通りにさせてやって下さい」
   監督「・・・・・・・・はい」
   康政は家で夕食を食べながら 教官室で先生はバツ悪そうに
   もう1人の先生が色々話していたなどと 状況を話しました。
   
   バレー部入部
   体育館では1歳年上の姉が卓球で活躍しており友達がバレーボールのキャプテン
   と言う事で部員の少ない男子部へ入部したのです。私と姉の進めでバレーボール
   を見学に行きました。とてもイヤそうでかわいそうでしたが小学生の頃から外野手
   の康政はバレーボールの選手の動作が苦手でトス パス レシーブが役立つと
   と思ったのが理由としてあげられます。と同時に瞬時の判断を身に付けたからであ
   ります しかし、このクラブも教頭の目の届かない所で康政を部室の外で見張り
   をさせ 上級生は部室の中でとんでもない事を楽しんでいると言うのです
   この事が 原因で バレー部が休部になったのかはわかりませんが部員は いなく
   なりました。
   
   康政「お父さん、キャチャーボールやってよ キャチャボーやぞ」
   康政が2年生になる春休み野球部の監督が加太中学へ赴任すると情報がありま
   した。中学で最初の戦いでした。康政は自身を得たようです。    
   監督と廊下ですれ違い「チワー」と言った時や体育の授業中 康政が先生の目を
   正視すると監督は顔を見ないというのです。つまり康政をさけています。 これは
   体育の成績にも現れて康政が体育の時間で陸上競技のハードルでハードルと
   ハードルの間を3歩間で走り抜けることが唯一できていたのですが五段階中4
   しかくれていませんでしたが バレーボールでは5段階中5文句無しでした。
   担任はこのことをほめられたいましたが私には当然の事で康政の日々精進の結果
   を正直に評価してもらえた事だと思いました。野球小僧の教師にはバレーボールの
   パスやアタックはすぐにはできないでしょう。

   再び野球
   2年生になり前の監督が去り新任が来ました。
   1年間野球を通して友達ができ彼らの誘いもありバレー部の休部を理由に野球部に
   入部致しました。バレー部の顧問は新学年になれは復活すると止めましたが本人は
   ここがチャンスとばかり職員室にかけこみ1時間もねばって 先生達を説得したそうです。
   
  康政「野球部に入りたいので バレー部の退部届と野球部の入部届けをください」
  教頭「バレー部は休部しているが 1年生が入ってくれば復活しますから それを待って
      からでもいいのではないですか」
  康政「僕はバレーよりも 野球がしたいのです」
  教頭「勝手な事はいけない 君は一度 野球部を退部している本校は再入部は認めていない」
  康政「バレー部は 人数もいない」
  教頭「もう少し 待てば私が試合できるようにするから それまで我慢できないか」
  康政「先のわからないことは 今から待てないし 今日は野球部の練習に行くといいました。」
  教頭「それはいけない クラブ活動のスポーツ保険の手続きをしていないので 今日はだめ
      です」
  康政「保険の心配はありません。家の人が 保険に入っていますからケガをしても 大丈夫です」
  教頭「お父さんは 知っているんですか 聞いてもいいですか」
  康政「はい」
  教頭「もしもし お父さんですか 丸谷君が職員室に来て バレー部を退部すると言っているん
     ですが・・・」
  父 「子供のいう通りにしてやってください」
  
  康政は新任の監督と選手との対立があったにも関わらず 練習のある日は楽しそうに帰って
  きました。が 唯一言っていたのは新監督は子供達だけで練習をすると休部にし 学校のグラ
  ンドから締め出し(グランドで野球をできなくし)選手達は小学校のグランドを借りて練習し
  子供達なりに相談し練習試合もとってくれない状態で3年生を迎え強敵チーム相手に最高の
  ゲームを私達親に見せてくれました。試合の結果は敗れましたがその夜 康政に言いました。
  「今日はナイスゲームやったぞ!よく今日まで嫌な奴もあったけど辛抱したな立派やったな
   言う事ないわ。そやけど もう野球やめとけ こんなもんやぞ 自転車せんか?」
  康政「イヤ 絶対いや」      丸谷 光生(康政の父 書)
     
       
    
こんな事もありました。   
   私(康政の父)が康政について あの時 あの言葉が人生を変えたと後悔しています。 
    康政は野球部に入部していました。もちろん軟式です部員は康政とK君O君H君N君
    K君と1年生数人で構成するものです。部員が少なく日と1人でも退部されては大会に
    出場不可能です。康政は試合を行うため各部員の親睦に努めていました。
    私が彼の将来のためにもチームワークというものを学ばせようと仲良くしろと言ったの
    が原因です。私としては ごく普通の学生として感じていましたが学級担任が「悪い方に
    流されている」と指摘を受ける程 悪評達で その事を尋ねると康政は「お父さん 〜は
    良い奴や」と言い返してきたのです。この時 私は康政も男のつきあいができる友達が
    できたのかと嬉しく思いました。
      (マスコットバット事件)
    中学2年生の夏の事です
    野球監督と対立していた部員は少しでも自分達の方に向いてもらおうと考えたことですが
    康政と新2年生が部室の掃除を終えた床に水をまき談笑していた時「ア〜ッ」と声が
    聞こえたN君の方を見ると監督のノックバットが折れたそうです。N君が溝の間に入れ
    その上に乗っていると折れたそうです。翌日の練習時監督がシートノックをする時 ノック
    バットを手にして「誰が犯人や!」と言ったのですが 勿論選手は黙ったままN君を売る者
    はいませんでした。結果 夏休みは父兄達の願い出も空しく練習は休み。
    監督が予定していた学校でのキャンプも中止になってしまった。夜 康政と風呂で話をした
    時「お父さん 今日ねN君が先生のノックバット新品のやつ 折ったんや」と話してくれました。
    私は「康政 男やったらNの名は人に言うたらあかん。かばえ それがチームワーク言うもんや」
    この言葉を康政は正直に受け止めたらしく その後友達の不祥事のことは口にしませんでした。
    思い返せば 変な男気を強制したため 康政は忠実に この約束を守ったのです。冬の総長練習
    といって 誰も部員の来ていないバックネットの前で たった1人 陸上部の練習を眺めている君
    を知人(動物園の)から康政の様子を見に行ってやれといわれるまで放っていた お父さんは君
    に言葉もありません。真面目に生きろと教えたことが 最後の君を追いこんでしまい 塾を休みた
    いと言った時 その理由を話せなかった君のあだ討ちを お父さんがします。きっと。
    (野球監督・・・この年 校長と同じ高積中学校から転任してきた先生で城東中学校とは100人
     深夜の乱闘事件の責任を取るため赴任してきたそうで PTA顔役のN君との対立の度クラブ
     活動の休部をさせていたものです。)
    (H.14.12.6 お父さんから 見た 康政の中学校を思い出して)
 康政の最後のゲーム
    とうとう最後の大会がきました中学の仲間とこれでおわかれです。
    ぼくは今日は練習があるのかと期待しながら学校にいきましたがなかったですこれで1ヶ月練習
    がありませ ん しかたがないのでよその学校の練習をみてきます。
 康政  「おとうさん今日も練習ないし,グランドにみんな集まっていたら先生が今日も休みてゆうたん
       よこのままやったらバラバラになってしまいそう」
      「そうか野球部の友達とは話はしてるのか」
      「うん休み時間に・・・・」
      「おれ思うのやがいまの実力やったらそこそこいけるでみんなよそよりデカイしパワーもある
       で」
      「チームワークやみんな仲良かったら勝てる。頑張ってるか」
      「うん、学校で練習できへんので小学校のグランド貸してもろてやってんの」
      「野球ばかりしてんと他の遊びしてもともだちになれるで」
      「そしたら釣りにいってもいい」
  海に川にチームメイトと魚を釣りにいき紀ノ川でぎんたを釣り上げそばにいたホームレスの人にあ
  げたらしいのです。
      「おとうさんぎんた食べれるんやで」
      「今日ぎんたホームレスの人がくれとゆうたんであげたんよそしたら安全カミソリで料理して 
       たべてたで」
      「はなしたんか」
      「うん、ルンペンにもいろいろあってそこらにいるのとちがうんやて」
      「あんまり親しくしたらつれていかれるぞ」
      「なんで」
      「なんでてもや」
  みんなが野球をできないでいるときは遊び帰ってはバッチィングセンターでハイスピードボール
  を気持ちよさそうに打っていました。
  できればこの大会にて優勝を狙っていたようで全国大会にいきたがっていました。
      「やすまさ家で練習してんのおまえだけとちがうぞピッチャーみてみい7回完投できるや
      ろ おまえまねできるか」
      「できやん1回ぐらいやったら」
      「そやろあいつも家でがんばってんのやおまえ今なにでいちばんチームに貢献できる」
      「バッチングとライトの守備」
      「それでがんばれ」
      「うん,誰にも負けへんし」

 プレーで見せたぞ
     野球部の子供をみなおしたまえやプレーにでた真摯な態度
  
  野球部のメンバーが体がデカイからとか乱暴だと敬遠してた方、彼らの爪の垢でも煎じ,ノミ給
  え 大人の圧力、しがらみのなかがまんにがまんを重ねスポーツマンシップにのっとり試合で
  みせた プレーは見るものに感動をもたらしました。大会は初戦から強敵で前評判では相手が
  勝つとのことでした。康政は強敵相手に緊張しており親でも近寄れないほどオーラを発していた
  ので声をかけることができず彼が出ていったあと後姿をカメラに撮るのが一杯,一杯、でした。   
   
   グランドにはシートノックを終えた両校がプレイボールを待っていました
  いつものように見方ベンチは監督が選手の中にはいれず一人じっと地面をみつめているのには
  哀れさだけが心にのこりこの日まで打つ手がなかったのかと彼に対して怒りをおぼえた。
   しかし、みる人はみていたのだ見方の応援席にはいままでのメンバーとちがう方々がかけつけ
  て康政たちを見守ってくれていた。小学校の父兄会,少年野球の父兄達,体力開発センターの職
  員、・・・みなさん子供達を見守ってくれていたのだとあらためてこの方々に心より感謝した。

 城東健児ここにあり!
   残念ながらスコアブックのつけられない私はこの球史にのこるゲーム内容を克明に,実際,記録
  することができないのですが15歳の子供達と心を一にできた思いでを記します。

 前半の闘い    立ちあがり見方投手のウイニングボールがボールの判定もあり満塁のピンチに
            次の打者に死球をあたえ先取点をとられる次の打者を2エンド3に追いこみアウト
            コースになげた球をボールの判定・・・2点目、いままでならこのままズルズル得点
            され試合をなげてしまうのだが野手はまけるものかと声をかけている。この雰囲気
            をおもいやってくれたかだれが見てもボールをストライクに判定してくれスリーアウト
            立ちあがりを2点におさえる。ナインは張りきっているが監督に元気がない。

 中盤の闘い     2点を追いかけナインは一丸となっていた。味方の気迫が相手を上回りバッター
             ボックスではウエイチィングにでて相手に球を多く投げさせる姿はチームプレーの
            真髄をみせつけた。そのかいあって追いつきエースを引きずり下ろす。
                ナインの父兄と
             「お父さんボッチャン今日はいいですね」
             「ありがとうございます。どうかな昨日トモと飯食べたとき今日は負けると言ってた
              で」
             「大丈夫,彼らはやります」
             
 終盤の闘い     両者一歩も譲らぬまま最終回を終えた。ここで勝っても明日投げる者がいない。
             私は勝ってもらいたかった明日の試合のことを考えていなかった。
          子供達はいまたたかっているんだ、自分たちのことを認めてもらうためグランドで正々
          堂々まっこう勝負しているいろいろなシガラミを越え今日最終回まで闘いおえた姿に羨
          ましく思い感涙した。
            延長にはいっても味方投手はコーナーに迫力のある球をなげこんだその一球一球
          に怒りと不満をブチ込んでの投球はこちらまで伝わる。
            康政はスクイズと同時にライトから一塁までカバーに走る全力疾走だ野手も大声を
          出し一つの白球に集中している。先生も監督らしくなり生徒を叱咤激励している。三年
          の先生達の目に涙を浮かべている者もいた。きっと日頃のドロドロした社会を忘却して
          生徒と心を一になっている姿はきれいだ時間よとまれ
  
  勝利の女神   延長になって体力勝負が続き神経戦になった、バント,ヒットエンドラン,相手は
            攻撃の手を緩めないが耐えて忍いでいる康政にチャンスが来るが打てない彼を責
           めるより相手の投手が巧いのだと納得しつつもみなさんにすまなく思う。
           神経戦に終わりが来た。すばらしい内容に見とれているまに満塁のピンチがおと
           ずれたこれまでの満塁のピンチにスクイズを警戒していたのだがもう体がうごかな
           かったのだろう1球目スクイズされたボールはピッチャーの前に転げたキャッチが
           ホームベースで仁王立ちで待つもボ−ルが帰らないその瞬間ライトを見た康政は
           うなだれて動こうとしない敗戦に納得できないでいる。その姿を見守る教師が外野
           から子供達を見守って敗戦を事実と受け止め目を真っ赤にしていた。
             「先生。ありがとうございました。」
            「おとうさん、勝てた試合だったですね」
             「そうですねでもこれで何かをつかんで自身になればいいんですよ」
             「はい、ありがとうございました。」
             「せんせいこそ」
          
     

    ふり返ってみると

    辛かった事や悲しかった事を,思い出してみると、
    そこには一緒に苦しんだり、
    悲しんだりしてくれる友達がいました。
    嬉しい時や楽しい時にも友達はいました。

   僕は一人の力ではなかったと思います。
   友達 家族
   色々な人達に支えられているのだとおもいます。
   これからも感謝の気持ちを忘れずにいたいとおもいます。
   ありがとございました。                               翼        
                       
    (命のメッセージ展メッセ−ジ集より抜粋)  
     法律家がジュリストの判例を持ちいるよう私も被害者のメッセージ集を
     私のジュリストとしています。犯罪被害者のみなさん我らたがいに肩を
     組み心理の道を踏みわけましょう。j   




      


 ---------------------------------------------------------
     

   P1 P2 P3

目次へ